第7話 サービスエース(7)
「何食べる? あー、私久しぶりにオムライスでもいいなぁ」
食券機の前に来ると、愛美はころころした声でそんな事を言いながら、昼食を選び始めた。
「オムライス、コーンスープ、アボカドサラダ、デザートもつけちゃおっかなぁ。――あ、幸谷君も、決まったら教えてね。あ、遠慮とかしたらダメだからね」
愛美に言われて、正孝もあわてて選び始める。
結局正孝は、もやし増し増しのとんこつラーメンにした。
そうして二人は、食堂の奥まった場所にある四人掛けのテーブル席で食べることに決めた。
もやしが山のようになったラーメンを前に、正孝は、よりにもよってどうしてこんな時に、ラーメンなんて選んでしまったのだろうと、後悔した。しかも、とんこつラーメンだ。
対する愛美は、オムライスメインの洋食。
いただきます、と愛美は手を合わせ、正孝もそれに倣った。
「うん、美味しい」
一口目のオムライスを食べて、愛美が言った。それから、銀スプーンでコーンスープを飲む。全ての仕草が計算し尽くされているかのように、可愛らしい。どうしてこんな女の子が、自分と食事をしているのだろうと、正孝は、もやしを食みながら、今更疑問に思うのだった。
「幸谷君、顔、腫れてるね……」
マスクを取ってラーメンを食べ始めた正孝を見て、愛美が言った。
「そうかな……」
正孝は、とぼけて応えた。
「うん、腫れてるよ。痛いよね?」
「いや、全然」
「生きてる証拠?」
「うん、あ、そうそう――生きてる証拠」
正孝は、自分が昨日愛美に見せてしまった詩が引用されたのに気づいてはにかんだ。
「本当にごめんね。私ちょっとあの時さ――」
「バレーボールの練習してた?」
「え? 全然、違うよ!」
「まぁ、いいよ、それは」
正孝はそう言うと、ずるずると、ラーメンを啜った。
味なんてわかりやしない。
「あれだよね、眼鏡の事だよね」
正孝はそう切り出すと、ブレザーの内ポケットから一枚の茶封筒を取り出して、愛美に渡した。その封筒の左側には、『佐藤様 宛』の文字が書いてある。
愛美はそれを受け取り、中身を確認した。
紙が二枚入っていた。
一枚は、去年学校で行った健康診断のコピーである。視力検査の項目とその数値の部分が、赤丸で囲ってある。両目とも裸眼で『1,5』という結果が記されている。
もう一枚の紙は、手紙だった。
そこには昨日の日付と、愛美が放ったボールにぶつかって、その時に眼鏡が落ちて壊れてしまったということが書いてあった。しかし文章のメインはそれではなく、その壊れた眼鏡が、伊達眼鏡の安物だった、という旨が丁寧に記してある。だから、弁償は必要ない、と。
その文章の最後の部分には幸谷正孝本人のサインと印鑑、そしてそれだけでなく、保護者である正孝の母親のサインと印まで捺されている。
「これ、幸谷君が作ったの? この書類」
「うん。昨日言ったけど、本当に安物だったんだよ、眼鏡」
正孝の眼鏡が伊達眼鏡だった、ということにも愛美は驚かされたが、それ以上に、正孝がその件について、きちっとした書類を作って来るなんて、想像だにしていなかった。本当によくできた文章で、愛美は驚かされてしまった。
「だから、気にしないでいいよ」
正孝はそう言った。
本当はもう少しだけ、愛美に気にかけてもらいたいというのが正孝の本心だったが、ある種の見栄が、正孝にそういう振舞いを許さなかった。
「幸谷君、部活は入ってるの?」
愛美は、話題を変えながら正孝に訊ねた。
正孝は少し躊躇いがちに応えた。
「一応入ってるけど――」
「何部?」
「文芸部。でも――」
「あっ、文芸部入ってるんだ! 力入れてるもんね、ここの文芸部。確か、コンクールで毎年賞とか取ってるんでしょ?」
「うん。でも、僕は幽霊部員だよ。作品も出してない」
「そうなの?」
うん、と正孝は頷いた。
「でも流石だよ。この書類。私こんなしっかりした文書書けないもん」
愛美にそう言われて、正孝は恥ずかしかった。褒められて嬉しい気持ちが半分。あと半分は、分不相応に煽てられて、まんざらでもない気持ちになっている自分に対する恥ずかしさである。
愛美は、正孝に向ける笑顔の裏で、正孝の恋心を手中に収めたのを確信した。それは理屈ではない第六感だが、愛美はそれを、外したことが無かった。何しろ愛美は、こと恋愛、男子の心を自分に向ける駆け引きには一日の長がある。人の恋慕の矢印がどこに、どのように向いているのか、愛美には火を見るのと同じほど明らかにわかった。
もう、幸谷君は、私に堕ちている。
私がもう一押しすれば、完全に、彼を支配できる。
しかし、いつもなら、それで一つの達成感を得る愛美だったが、正孝に関してはまた少し違う感覚があった。一手か二手の簡単な詰将棋なのに、これの結末をもう少し先延ばしにしたいような、そんな気持ちがあった。
一つには、正孝の瞳。
まさに詩人の、湖のような穏やかな黒目。
嘘もつけない、恋心を隠すこともできない、そんな純粋そうな目。
腹立たしいような、それでいて自分は、この瞳に憧れているような、愛美にはそんな不思議な感覚があった。
「眼鏡、好きなの?」
愛美は、正孝に訊ねた。
正孝は首を振った。
「そういうわけじゃないんだけど、いつの間にかね。一回かけたら、なんかあとは習慣で」
「ふーん……。でも幸谷君、眼鏡、かけない方がいいかも」
愛美は言った。
愛美には、自分の言葉で動く正孝の感情が、手に取るように分かった。
「そうかな?」
少し嬉しそうな声。
嘘の付けない瞳。
「うん。幸谷君、可愛い目してるから」
正孝は、自分の赤面を隠すように、ラーメンを思い切り啜った。
自分はからかわれているのだなと、正孝にもそれくらいはわかった。しかしわかっていながらも、浮かれてしまう自分がいる。男の心を弄ぶ、愛美の魔性は本物だと、正孝は身をもって感じた。
「髪は?」
「え?」
「前髪。伸ばしてるの?」
「あぁ……これも別に、好きでやってるわけじゃなくて、何となく、こんなもんかなって」
「こんなもんって何」
愛美は、正孝の返答に微笑しながら聞き返した。
正孝も、特にこれと言った返事を返すわけでもなく、曖昧に笑ってやり過ごした。
「短くしてみたら?」
愛美はさらに一歩、踏み込んでそんな提案をした。
正孝は、自分の長い前髪を指でつまんだ。
「まぁ、鬱陶しいよね」
「そんなことないけど――」
愛美は、笑いながら言った。
「でも、きっと短いのも似合うと思うよ」
「うーん……どうかね」
寂しそうにそう応えて、正孝はスープを飲んだ。
そんな正孝の顔を、愛美はじっと観察した。
正孝は、いわゆる、〈モテる男子〉というタイプではない。顔立ち一つとっても、肌が特別綺麗だとか、鼻が高いだとか、女子なら思わずドキリとしてしまうような、悪戯っぽい薄い唇を持っているとかではない。細面のその顔の造形は、決して不細工ではないが、特別〈端正〉という言葉を使うほどのものでもない。
醜美でいうのなら、その、ただ伸ばされているだけの前髪のせいで、むしろ醜いと言っていい。清潔感の無さは、実際、致命的だ。それでも髪を短くして、眼鏡なんてかけなければ、随分マシ――というより、かなり良くなるのにと、愛美は思った。
「行きつけの床屋さんとか、あるの?」
愛美は、ちょっとした期待を込めて訊いた。
「うん。あったんだけど、ちょっと前に店閉めちゃったんだよね」
正孝は応えた。
そのせいもあって、正孝の髪はだらしなく伸びたままになっている。新しい床屋を見つける、それだけのことなのだが、正孝からするとそれは、車を買うだとか、ともすると、これから半生を共にする伴侶を決めるのに等しいほどの一大事だった。そしてまた、前の床屋に対する裏切りなのではないか、というような気持ちもある。
ふらっと入って試しに切ってもらう、ということは、正孝にはどうにも、とてもできなかった。かといって、床屋を紹介してくれるような友人もいない。
「――それでそんなに伸びてるの!?」
愛美は、驚きつつそう言った。
正孝の床屋に対する心情と哲学は、愛美には全く理解ができない。どこでもいいからとりあえず、行けばいいじゃん、と思った。しかしそれができない幸谷正孝というこの男の子は、本当に何者なんだろうと、そんな興味も改めて湧くのだった。
「私いいとこ知ってるから紹介するよ。学割効くしさ。ちょっと待ってね――」
愛美はそう言うと、携帯端末をポケットから出して、パパっと、床屋の情報を正孝に、ショートメッセージとして送った。
「移動教室もあるし、切った方がいいよ。ね」
愛美に念を押されると、正孝はもう、自分にそれ以外の道の無いのを悟った。
昨日まで、ただ『可愛いな』と思っていただけの、たまにすれ違うことのあっただけの女の子の一言に、自分はすっかり服従してしまっている。正孝は、自分の惚れっぽさを自覚した。愛美でなくても、自分を相手にしてくれる女の子にだったら多分、誰でもいいのだろう。
悲しいな、と正孝は思った。
自分は、なんて悲しい生き物なのだろう。
「――じゃあ、行ってみようかな」
正孝は、スマホに送られてきた床屋の情報を少し見て、そう言った。「うん、そうしなよ」と、愛美が続けた。キラキラと輝くその瞳が、正孝には眩しかった。
休み明け、正孝は宣言通り、愛美の紹介した床屋で髪を切り、登校した。
前髪を上げて、額が露になったアップバング。夏のビーチを想起させるようなショートカットである。眼鏡もかけていないので、遮るものは何もない。先週までの正孝とは別人のような、爽やかな印象になった。
押しの強い男子は早速、「やべぇじゃん、イケメンじゃん」だとか、正孝にそんな茶々を入れた。やっぱり、髪なんて切って来るんじゃなかったかなと、正孝は思った。正孝が詩を書くということも早速、昨年も正孝と同じクラスだった生徒がこの時とばかりに広めて、「ポエマーかっけぇ」などと、言い始める。
嫌だなぁと、正孝は思った。
そんな男子の声にけらけらと、流し目で笑う女子がいる。
正孝はそれを見ると、久しぶりに「おはよう」と、挨拶をしようとして開きかけた唇を凍らせた。「マジ? あいつ詩とか書くの?」などと、誰かが嘲りのような笑いと一緒に言った。同調する笑い声。「詩とかロマンチックでいいじゃん」と、肯定する女子のそれは言葉だけで、敏感な正孝は、その言葉の奥にある侮蔑心を容易に感じ取ってしまう。
朝から辛いなぁと、正孝は手提げを机にかけて座った。
その時、正孝より少し遅れて、愛美が教室に入って来た。
佐藤愛美は、身長こそ女子の平均より少し低いくらいと小柄だが、その存在感は圧倒的である。〈可愛い〉〈モテる〉も、一定以上の域に達すると、そこに凄みが加わる。
「おはよー」
「おはよう」
と、愛美が入ってくると、女子たちの交わす挨拶のトーンが少し高くなる。
男子もそれで、ちらりと愛美のやってきたのを確認する。愛美は、素っ気なく装う男子たちにも、そのソプラノの女の子らしい声で挨拶をする。男子の方は「おう」とか「あぁ」とか、返事を返す。女子たちの空気がそれだけで少し変わる。挨拶だけで〈女の子〉扱いされる愛美が許せない、という女子も一人や二人では無い。
そんな朝一ではじまる戦時における電子戦のような一部始終を、ほとんどの生徒は深く感知できないが、正孝の場合はそれが出来てしまうので、その数分で気疲れしてしまうのだ。
ところが今日は、そんな正孝の疲れを吹き飛ばすことが起った。
愛美が、正孝の席の前にやってきたのだ。
「あぁ、やっぱり似合うじゃん!」
愛美はそう言うと、正孝の前の男子の椅子に座って、正孝の髪の毛の先にちょっと触れた。
「ねぇ、いいよね」
続けて愛美は、近くにいた女子生徒に同意を求める。
するとその女子たちも、愛美に強く同意を示した。その、正孝に対する黄色い声に反旗を翻す男子はいない。教室内の空気は実際の所、男子が握っているようでその実、女子が握って、女子が男を操作している様だった。少なくとも、この二年七組は、そういう仕組みで動くのだということを、正孝はこの一瞬で洞察した。
「佐藤さんって、幸谷君と仲良かったんだ」
「去年同じクラスだったの?」
そんな女子たちの質問に対して、愛美は答えた。
「先週幸谷君にボールぶつけちゃってさ。で、そこからちょっと、話すようになったんだ。ね」
愛美が言うと、何それ、と周りの生徒たちが笑った。
生徒たちの笑い声と笑顔に紛れて、愛美も正孝に笑みを向ける。
含みのある魔性の笑みだった。正孝にはその笑みに、〈何か〉が含まれているのがわかった。しかしその目と頬に微かに見てとれる含意は、自分にしかわからない。他から見たら、愛美の笑みは、ただ愛美の可愛い、きらきらした笑顔とだけ映っている。そういう暗号のような、絶妙の笑顔を、佐藤愛美は作れるのだ。
正孝は小さく震えた。
自分は、とんでもない子と知り合ってしまったのではないだろうかと、正孝は思った。
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