第8話 フルーツミックス(1)
五月のゴールデンウィークには移動教室がある。
移動教室では、クラスごとに五人組からなる六つの班を作り、その班ごとに行動することになる。しかしその班の決め方は、クラスごとにまちまちである。クラスの座席順で決めたり、くじ引きだったり、好きな者同士、という決め方だったり、あるいは、教師が決める、というクラスもある。
どういう決め方にするかは級長と担任次第であるが、二年七組の場合は、〈好きな者同士〉ということになった。それが良いという生徒たちの意見が強く、正孝自身は、あぶれ者が出ない方法を考えたかったが、多勢に無勢、強い意見を抑え込んで自分の意見を通す、ということはとてもできなかった。
「――ただし、男だけとか、女だけは無しな」
班の決め方が決まった後で色めき立つ生徒たちに、尾瀬教諭が言った。声が大きいので、それだけで皆、耳を向ける。結局、声の大きさなんだよなぁと、正孝はそんなことを、教壇隅のパイプ椅子に座りながら思った。
「えぇ、なんでだよぉ!」
「いいじゃん、女子だけでも!」
尾瀬教諭の決定に、男子と女子の、これもまた声の大きい生徒が非難の声を上げる。しかし尾瀬教諭は、全く怯まない。
「そういうのは、実費で行ってくださぁい」
尾瀬教諭の大きな声に、くすくすと、笑いが起きる。そういう笑いは、会議における拍手と同じようなもので、皆、この尾瀬教諭の決定を承認したようだった。
班決めではまず、男子だけとか、女子だけとかの二人、あるいは三人のグループが教室内にいくつかできる。行動班は五人一組なので、その出来上がった男子のグループと女子のグループを、くっつけなければならない。
男子の強がりと女子のプライドと、そして女子同士の駆け引きと、そういった人間関係が複雑に絡み合い、教室内の和気あいあいとした高校生らしい賑やかさとは裏腹に、水面下では冷戦のごときひりついた探り合いの糸が幾重にも張り巡らされる。
そんな中正孝はというと、どのグループにも属さずにいた。
属すグループが無い、というのがその主因の一つである。まだ正孝には、昼食を一緒に摂るような友達がいなかった。しかし、実はそれだけが理由ではない。正孝は、級長なりに公平性を保とうと考えていた。自分が先に、どこかのグループに入ってしまったら、級長として公平な仕事ができないと思ったのだ。
それで正孝は、最後に一人、余ったところに入ろうと最初から決めていた。
そんな正孝に、背後から声をかけた生徒がいた。
「私、書記やろっか?」
正孝は驚いて振り向いた。
そこには、愛美がいた。
「私結構、字は綺麗って言われるんだけど、どうかな?」
愛美はそう言いながら、早速、行動班名簿の記入者欄に、『幸谷正孝』と書き込んだ。
お手本のように整った、綺麗な字。
佐藤愛美という女の子のイメージとは随分違う。
不意に正孝の脳内に、一つの景色が浮かんだ。棚の上、花瓶に一輪差された、白い水仙の花。一輪だけの水仙は、少しだけ下を向いている。昼間の玄関のような薄暗い中、かといって、〈暗い〉よりは〈明るい〉光量の中、水仙は静かに、佇んでいる。
正孝はポケットからペンとメモ帳を取り出して、その、脳内の情景を書き出した。
玄かんにいちりん うつむく
白いすいせん
きれいな白い花びら
白い 白い花びら
どうして寂しそうなの
いちりんのすいせん
そのうち誰か
でもきっと 帰ってこない
光にほこりが ちらちら
白いすいせんのまわりを ちかちか飛ぶ
宝ばこの 誰も知らないそのおくに
一本だけ咲いているような
白いすいせん
花びんに一本だけ
たたずんで うつむいている
ほうっと、正孝は息をつく。
この瞬間、正孝が恐れるのは、折角出来上がった言葉を、書き出す前に忘れることなのだ。
言葉だけが浮かぶ時と、まず景色が浮かぶ時とがある。
どちらの場合でも、言葉はすぐに湧いて出る。
どうして景色が思い浮かぶのか、どうしてその景色なのか、どうして言葉が出てくるのか、それは未だ、正孝にもわからない。しかし言葉が出て来れば、書き出さなければならない、抗いがたい衝動に駆られる。それはもう、砂漠の中で干からびる遭難者が、水を求める渇望と同じほどのものなのだ。
書き出した後、正孝は、途端に脱力する。
鎮静剤を打たれたかの如く、天井を仰ぐ。
愛美は、正孝のメモ帳を逆から覗き込んで見た。走り書きのペン文字。漢字とひらがなが、変な具合に交じっている。
「それ、詩?」
愛美は、正孝に訊ねた。
正孝は、うーんと、首を傾げた。
一般的に自分の書き出したそのモノは、それを作品というならば、ジャンルとしては〈詩〉である。そのことは正孝も、わかっていた。小説でもなければ、和歌や俳句でもない。
しかし正孝自身はいつも、〈詩〉を作ろうと思って書いているわけでは無いので、自分の書いたものが〈詩〉かどうかと問われると、いつも困ってしまうのだ。
「見せて?」
愛美に言われて、正孝は大人しく、メモ帳を切りとり、愛美に渡した。
愛美は、予備の班名簿用紙を裏返すと、正孝のメモ帳の詩を、清書し始めた。
正孝は、自分の書いたものは、自室の机の引き出しの中にまとめてどさっと取っておいてはいるが、そのように清書されたのは初めてだった。愛美の文字は美しいので、その文字で整えられると、急にそれが、作品らしい風格を醸し出して、正孝は驚いた。
「タイトルは?」
愛美は、詩を写した後で、正孝に訊ねた。
「え、タイトル……?」
「うん。つけるとしたら」
「なんだろう。ええと……『玄関の白い水仙』かなぁ」
「いいねぇ!」
愛美はそう言うと、清書した詩の先頭に、正孝の言ったタイトルを、少しだけ大きめの字で書いた。そのあとでにこっと、愛美に笑顔を向けられ、正孝は困惑した。
一体佐藤さんは、僕をどうしたいのだろう。
僕を好きだとは到底思えないけれど、悪意をもって接してきているとも思えない。じゃあ単にからかっているだけなのだろうか。でも、〈単にからかう〉って何だろう。からかうのにだって、理由はあるはずだ。それに悪意がないとすれば、そのからかいは、もっと質が悪いかもしれない。幼い子供が単なる無邪気さで、悪意とは無縁の好奇心で、蟻を潰したり、その巣に水を流し込んだりするのと同じだ。
正孝は、本当は、詩を褒められたことに礼を言ったり、そのことについて少し、愛美と話してみたかった。しかし、正孝は、愛美の笑顔の奥に潜んでいる得体のしれない何かを警戒し、口を閉じた。
しかし愛美は、正孝の心をこじ開けるような大胆さで、さらに加えて言った。
「昨日のも良かったけど、この詩もいいね」
「そう、かな」
正孝は、俯いた。
眼鏡も前髪も無くした今、正孝は、愛美の笑顔に呑み込まれる様な恐怖を感じた。
「今思いついたの?」
「いつも、突然思いつくんだよ」
「えぇ! それ、すごいね。才能じゃない?」
愛美の言葉に、正孝はしかし鼻で笑った。
才能――。これは〈才能〉というより、〈発作〉だ。くしゃみや咳と同じ。それを〈才能〉と言い換えれば、言い換えられないことも無いが、そんなことを言ってしまったら、何だってそうだ。ことこの、『言葉を思いつくと書きたくなる』病は、何の役にも立たないどころか、気持ち悪がられる。同級生だけではない。大人もそうだ。先生だって。
『詩を書くんだ、いいねぇ』
大人は皆、親だって、僕のこの発作を知るとそう言った。
だけどその『いいねぇ』という言葉はいつも、ぬるい笑顔と一緒だ。『私には理解できないけど』という本心が滲んだ笑顔。隠すならもっと上手くその本心を隠せばいいのに、皆、微妙にそれを、笑顔のどこかに滲ませて、そこで皆はむしろ、『理解できないよね?』という結束を固め、僕を無言のままに、笑顔と優しい言葉で、彼らの輪の中からはじき出す。
そして続けてこう言うのだ。
『良いと思うよ。続けなよ』
そういうようなことを平気で言う。
良いと思う――そんな評価、されたくない。良いか悪いかなんて評価、してくれなんて誰も頼んでいないのに。続けなよ――なんて、そんなの、理解のできない異物がいたほうが、自分たちに都合がいいからじゃないか。
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