第6話 サービスエース(6)
その日の夜、正孝は風呂に入った後、夕食は自室で一人で食べた。
天ぷら、茶碗蒸し、ほうれん草の和え物にご飯。普段は自室で一人食事をとろうとすると、父が難癖をつけてくるので、正孝もあえてそうしようとはしないのだが、今日に限っては、宿題を理由にして、何か言われる前に自分の夕食だけをお盆に入れて運び、自室に籠った。
本当は、宿題が理由ではない。
風呂に入った後、顔の左側――今日バレーボールがぶつかった場所が、鈍感な父でもわかるほど、腫れてしまったのだ。そんな腫れた顔を両親に見せたらどうなるか。心配性の母は、いじめられているのではないか言い出し、湿布や痛み止めの用意を始め、父には何か小言を言われる。そうなるともう、自分が何を言っても母は過保護に心配し続けるし、父の小言は止まらない。そうなることはもう、目に見えている。
学校よりは家の方が気疲れはしなかったが、かといって正孝にとっては、両親との時間も、それなりに億劫だった。母の料理を正孝は好きだったが、週に何度かくらいは、勝手にカップ麺でも食べなさいと放っておかれたいという気もしていた。
特に、今日のような日は。
食事を終えた後、正孝はベッドにちょこんと座った。いつもなら食事の後は、動物や自然風景の写真集を眺めたり、本を読んだりして過ごすのだが、この日は、そうもいかなかった。
「佐藤さん……」
可愛かったなぁ、とため息を一つ。
また、話せる機会があるだろうかと考え、いやいや、と一人首を振る。わざわざ佐藤さんが、自分に話しかけてくるようなことは、もう無いだろう。自分から佐藤さんに話しかけることだって、たぶんできない。特別話しかける用事でもない限りは。用事を作って話しかける、というようなことは、自分にはできない。
はぁ、と正孝はそこまで考えて、二つ目のため息を落とした。
もう関わることは無いだろう、と思っても、正孝の豊かな想像力は、愛美と一緒にクレープを食べているというような一場面をでっちあげて、まるで現実化のように、そのショートシーンを脳内に作り上げるのだった。
それからまた、愛美の腕に振れたときの、ふわりと柔らかい感触と、ひんやりとしたその体温を思い出すと、身もだえせずにはいられなかった。
そんな事をしている時だった、正孝のスマートフォンが、ぶるぶると震え出した。
受信設定では通知はオフ、電話も音は消音でバイブレーションだけと設定しているので、端末が震えればそれは電話が地震警報である。
正孝はベッド脇に放置していたスマホを見た。
電話だった。
それも、未登録の知らない番号。
何かのセールスだったら嫌だなと思いながらも、バイブレーションの振動が続くのに負けて、正孝は電話に出た。
果たしてスピーカーから聞こえて来たのは、愛美の声だった。
『もしもし、幸谷君? 私、佐藤愛美です』
正孝は、予想外のことに、端末を取り落としそうになってしまう。
「えっと、あ、あの……はい、幸谷です」
『良かった。番号間違えてたらどうしようかって、ちょっと不安だったんだ』
「あ、はぁ……」
驚きのために、正孝の口から洩れたのは、間の抜けた相槌だけだった。
『ごめんね、突然。あっ、電話番号は市川さん伝てに聞いたの。市川瑞希って、去年同じクラスだったでしょ? 私、あの子と友達なんだ』
「へ、へぇ、そうだったんだ」
正孝はしかし、市川瑞希という生徒の顔は思い出せなかった。
たぶん、しゃべったことは無いだろう。
『勝手に聞いちゃってごめんね』
「いいよいいよ、全然」
『……腫れ、どう?』
「え? いや、ううん、もう全然、元通りだよ」
反射的に、正孝はそんな風に応える。
本当は、今もドクン、ドクンと、血液が血管を動く音が聞こえる。
『本当にごめんね』
「いや、いいよ、大丈夫」
正孝は応えた。
あの後、正孝は冷静に、バレーボールにぶつかった事故について、考えていた。
すなわち、佐藤さんはどうしてあんなところに、バレーボールを投げつけたのか。
ちなみに正孝は、愛美がボールを投げたのか、バレーボール流にアタックをしたのかは見ていないので知らない。しかしどういう方法でボールを扱ったかは、正孝の推理の問題にはならなかった。
そうして最終的に正孝は、愛美の心中を見たかのような推論を出していた。
――たぶん、ストレス発散だったのだろう。
『眼鏡、新しいの買うよね?』
「あー、たぶん」
『お金、弁償するから――』
「いいよ、本当に安物だから」
『それはダメだよ。眼鏡って、結構するでしょ』
「いや、本当に――」
『遠慮されると、お母さんが出てきちゃうから!』
「え?」
『眼鏡壊しちゃったこと、お母さんに言ったの。そしたら、電話しなさいって、今、後ろに見張られながらかけてるんだ』
「あぁ……」
しっかりした家だな、と正孝は思った。
そして、母親の言う事を聞いている愛美を想像して、正孝は笑みを浮かべた。
「じゃあ、そのことはまた明日、話そうかな」
『うん、そうしようよ。あっ、そうだ、お昼ご飯もだよね。今日幸谷君お昼、食べられた?』
「え? いや……」
昼休み中、空腹も忘れてずっと自習室に籠っていた、なんてとても言えない正孝だった。実はあの後、自習室で、愛美の事を考えながら数編の詩を作ってしまったのだ。
『もう、ホントごめんね。明日さ、お昼ごはん一緒に食べようよ。私が奢るから!』
「う、うん。いやでも、お金は別にいいけど……」
『じゃあ決まりね。空けておいてね』
愛美はそう言うと、『おやすみ』と後に続けて、電話は一方的に切られた。
正孝は、「おやすみ」を返す暇すらなかった。
愛美との電話の後、正孝はベッドにスマホを放り、少し茫然と、シーツの上のスマホを眺めていた。佐藤愛美――正孝にとって彼女は、性格だとか人間性だとか、そういった内面的なことはまだ何も知らない女の子だったが、外見のことでいえば、ど真ん中で好みのタイプだった。
何しろ、とにかく、可愛らしい。
それにあの目の輝き。
今日などは危うく、意識を失いかけた。『諸國諸大名は刀で殺す、糸屋娘は目で殺す』と言うが、まさに愛美の眼差しは、正孝にとってはバリスタの矢のようなものだった。
今は同じクラスだが、去年も、廊下ですれ違う位の事は何度かあり、正孝はそのたびにドキリとしたものだった。
そんな佐藤さんと、明日、一緒にお昼ご飯。
ぽすん、と正孝はベッドに倒れ込んだ。
翌日、正孝は眼鏡をかけず、代わりにマスクをつけて登校した。
しかしそんな正孝の変化に気づく生徒は、愛美くらいだった。愛美は、朝正孝に「おはよう」と声をかけ、その後に「今日はコンタクトなの?」と続けた。正孝はもごもごしながら、頷いた。
本当はコンタクトなどしていなかったが、自分が女の子――しかも佐藤さんと話しているのを見られるのが恥ずかしかったので、やり取りは最小限にしたかった。
愛美の方はというと、その時はそれ以上、特に会話を続けるでもなく、その場を離れた。そうして「おはよう」、「おはよう」と、新しいクラスメイトと挨拶を交わす。正孝はそんな愛美を見て、少し寂しさを覚えながら、席に着いた。
机を見下ろしながら、ほうっと、正孝は息をつく。
そんな正孝の様子を、愛美はちらっと見て、人知れず笑みを浮かべた。
『玩具』と言った瑞希の言葉を、愛美は思い出していた。
人聞きが悪い、なんて返したけれど実際私は、幸谷君を玩具に選んだのかもしれないと、そう思った。
四時間目の授業が終わった後、愛美はわざとゆっくり教科書を片付け、それから立ち上がる前に、ふいっと、席に座る正孝の方を見た。そわそわしていた正孝は、愛美と目が合って、息を呑んだ。
愛美は、にこっと、正孝に微笑んだ。
本当に視線だけで殺されると、正孝は思った。
正孝が呼吸を忘れているうちに、愛美は正孝の机までやってきた。
「じゃ、行こっか」
正孝は返事もできないまま、席を立った。
――じゃ、行こっか。
愛美の言葉が、正孝の脳内で何度も反響する。
「マスク、どうしたの?」
「か、風邪、引いちゃって」
「そうなの? 大丈夫?」
「うん、咳が出るだけだから」
階段を上り学食まで歩く間、愛美はごく日常的な話題を正孝に振り、正孝は何とかそれに応えた。もともと会話を続けるのが苦手な正孝にとっては、緊張も相まって、自分がちゃんと会話のキャッチボールが出来ているかどうかも、解らなかった。
校舎の三階には購買と、その奥には食堂がある。昨日正孝が食べ損じた唐揚げ弁当は、この購買で買ったものだった。三百五十円と破格値で、生徒には大人気の定番弁当である。食堂の食事はそれに比べると少し高い。
「折角だから食堂にしよっか」
愛美が提案した。
正孝は、どこで何を食べるかまでは、全く決めていなかった。どうしようと、正孝が決断できずに思考の路頭で迷っていると、愛美が、ポケットからカードケースを取り出して、顔の横に振って見せた。ICカードが入っている。
「予算はバッチリだよ」
愛美はそう言うと、正孝の返事を待たずに、食堂に入った。
正孝も、後に続いた。
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