第5話 サービスエース(5)

「――ところでさ、同じクラスになったんだけど、幸谷君って、知ってる?」


 正孝にボールをぶつけてしまったその日の放課後、愛美は、友人である市川瑞希と焼き肉屋に来ていた。そこで、タン塩にレモン汁をかけながら、愛美は瑞希に聞いてみたのだ。


「幸谷? 幸谷、ねぇ……あぁ!」


 瑞希は黒い箸を咥えて考えた後、思い出して声を上げた。


「あのポエマー男子かな!? 去年同じクラスだったかも」


「え、ホントに? でも、その幸谷君で間違いないと思う。ちょっとさ、電話番号、知ってたら教えてくれない?」


「え、何、どうしたの?」


 瑞希は、ただでさえ大きい目をぎょろっと大きくして、愛美を見つめた。


 演劇部の瑞希の目は、変幻自在だ。


「それがさぁ――」


 と、愛美は、今日の昼間に出来事を、瑞希に話した。


 話を聞いた瑞希は、げらげらと大きな笑い声を上げた。


 おじさんのような笑い声。


 その笑い声まで腹式呼吸。


「愛美、やってるねぇ!」


「もうホントに、吃驚しちゃった。現役の時だってなかなか無いような当たりだったから、骨折っちゃったかと思ったよ」


「泣かせちゃった?」


「泣いては無かったかな」


 あっはっはと、瑞希はまた笑う。


 愛美はよく男を泣かせる。そして女をも。しかしそれは恋愛関係に限った話で、殴り合いの喧嘩だとか、物を投げつけたりだとか、そういうことはしない。むしろそれは、瑞希の領分だった。瑞希は、演劇のことになると、激情に任せて物をぶん投げたりする。そうして後で、先生にこっぴどく叱られるのだ。


 そんな二人は、初対面から不思議と馬があった。


 去年五月の移動教室で、別クラスだったのに、ちょっとした接点から仲良くなったのだ。


「まぁでも、そういうことなら、去年の級長に聞いとくよ。私は、話したことないから良くは知らないけど。――『ポエマー』とかって、からかわれてるのは見た気がする」


「今年、うちのクラスの学級委員長になったんだよね」


「え、そうなの? 幸谷君が?」


「うん」


「あー、やらされちゃったか」


「ううん、立候補。そういう男の子なの?」


「いやぁ、去年は……全然目立たなかったよ。顔も前髪で隠れてるし、眼鏡かけてるし」


「友達はいた?」


「いたような、いなかったような?」


「どういうこと?」


 愛美は、瑞希のとぼけたような物言いに笑いながら、聞き返した。


 愛美からすると、瑞希は、人間関係の機微に疎い。鈍感、というわけでは無いが、自分に関係の薄い人間のこととなると、男子並みの無頓着になる。


「お昼とか一緒に食べてた暗っぽいグループがあったと思うんだけど、そこにいない時の方が多かったかなぁ?」


「ふーん」


 愛美は一応、瑞希からのその情報をインプットする。


 瑞希は、カルビを白飯の上に乗せてばくりと大口を開けて食べ、それからホルモンから発生する煙越しに、愛美に聞いた。


「何、新しい玩具?」


 愛美は、含みのある微笑を浮かべ、応えた。


「何よ玩具って、人聞きの悪い」


「だってそうでしょ。今、試食会みたいなものだもんね」


 瑞希のあんまりな例えに、愛美は頬を緩めて笑った。その笑い顔を隠すように、愛美はアンバサを飲んで、口元をその白い液体で隠した。


「別にそういうつもりはないわよ」


「知ってるけど」


 瑞希は愛美の言葉にさらりと相槌を打って、メロンソーダを喉に流し込んだ。


「でも、幸谷君ってたぶん、愛美は知らないタイプだよね」


「うん、そうかも。いやでも、幸谷君みたいなタイプって――」


「――そうだよね、ポエマーだもんね。普通いないよね」


 そう言い合って、二人は笑った。


 詩を読む男子なんて、本当に知らない。


 しかし愛美は、ただ単に珍しいからという理由で、正孝を気にしているわけでは無かった。ボールをぶつけてしまった負い目でもない。その上愛美は、〈偶然〉には慎重な立場を取っていた。間違ってもそれを『運命』なんて呼ぶことは無い。流石に、あんなクリティカルな一撃を人に見舞ったことは無かったが、〈偶然〉というものは、案外その辺に転がっている。


 偶然隣の席、偶然体育の授業のペア、偶然落ちた教科書を拾う、拾われる。


 学校内には、そんな偶然はいくらでもある。


 だから重要なのは、偶然そのものではなく、その偶然をどう扱いたいかなのだ。恋愛なら、それを〈出会い〉のきっかけにしたいかどうか。その気が無ければ、ボールをぶつけてしまったとしても、謝って終わりだ。眼鏡の弁償や、治療が必要ならその治療費を払う。でも、それでおしまい。それ以上は特に、なし。


 しかし愛美は、正孝のことはもう少しだけ、知りたい気がしていた。


『どうしていたいの? 生きてるしょうこ』


 彼がメモ帳に書いたあの言葉。


 どうにもその言葉が、心に突き刺さっている。


「でも愛美って略奪愛好きだよね」


「え?」


「宮村のこと」


「あぁ……」


 愛美は、どこか陰のある、そして微かに妖艶な笑みを浮かべ、ハラミを網に敷いた。


「三井って、その男子と付き合ってたの、知ってたんでしょ?」


「まぁ、ね」


 少しの沈黙。


 愛美はハラミを裏返す。


 じゅわあっと、肉汁が音を立てて、白い煙が一瞬わっと上がる。


 瑞希は、網にホルモンを加えると、唐突に言った。


「だけど私、正直、桃園さんにはちょっとガッカリ」


「え、そう?」


 愛美は、少し笑いながら、瑞希に聞き返す。


「正義ぶってさ、超ダサい」


「あの子も、頼られそうなタイプだからね。断れなかったんじゃない?」


「愛美、ボールぶつけるなら桃園にぶつけてやれば良かったのよ」


「瑞希、過激すぎ」


 知ったこっちゃないわねと、瑞希は愛美の敷いたハラミをひょいと網から持ち上げてタレにつけた。


「あ、それ、私が飼ってたやつ」


「早い者勝ちぃ!」


 瑞希はそう言うと、ぱくりと皿に取ったハラミを口に入れ、もぐもぐと、頬を愛美の方に付き出した。愛美は、つんつんと、瑞希の頬を批難っぽく突いた。

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