第4話 サービスエース(4)

「わざわざありがとう」


 正孝は応えた。


 こんな僕に、と後に続く卑屈な言葉は、心の内だけにしまっておく。


「痛い?」


「ううん、全然、冷たくて気持ち良い」


 正孝はそう応えてから、「あっ」と、言葉が閃いた。ブレザーのポケットから、メモ帳とペンを取り出す。そうして、思いついたままに、言葉を書いた。



『どうしていたいの? 生きてるしょうこ』



 正孝は、一気に書き上げる。


 書く速度が速いので、字はほとんどひらがなで、しかも、ミミズがのたうったような形になっている。


 何を書いたのだろうとメモ帳を覗き見た愛美は、本当に、突然この人は何を書いているのだろうと思った。しかし正孝の書いた言葉に、愛美は、得も言われぬ強烈な何かを感じた。ミント味のアイスを思いっきりばくりとやったそのあとの感覚に似ている。または、ラムネを一気飲みした後、そのビー玉の音を聞いた時。


「面白い事書くんだね」


 にやりと笑いながら、愛美が言った。


 正孝は急に恥ずかしくなって、おずおずとメモ帳とペンをしまった。


「何でもない……」


「なんで、いいじゃん。幸谷君、そういうの書くの、好きなの?」


「ま、まぁ……」


 正孝は、あまり答えたくなった。


 詩を書いている、なんて、気持ちが悪い。しかも男だ。まだ二年七組の新しいクラスには知られていないけれど、一年生の時は、悲惨だった。『ポエマー』なんて、馬鹿にされた。この新しいクラスでも僕のそのあだ名が広まるのは時間の問題だろうけど、この瞬間くらいは、そういう風に、馬鹿にされたくない。


「詩?」


「……」


 違うとシラも切れず、かといって、そうだと肯定するほどの度胸もない正孝は、黙り込んだ。


「いいね。私も、詩、好きだよ」


「ふーん……」


 何とも言えず、正孝は相槌を打った。


 というのも正孝は別に、詩が「好き」なわけでもなく、好きな詩があるわけでもなかった。ただ、頭の中に言葉が浮かんで来ることがあって、そういう時は、書き出さないといけないという、謎の衝動に駆られる。その結果、いつも不意に、気付くと〈詩〉というようなものが出来上がっているのだ。


「金子みすゞとか、谷川俊太郎とか、私も読むよ」


「そうなんだ」


 これは、意外な情報だと、正孝は思った。


 〈魔女〉なのに文学女子なのか。


 正孝の中では、いわゆる、イケてる、モテる、スクールカースト上位の女子というのは、ファッションやスポーツには詳しいが、心の内面世界についてのこと――つまり、文学といったものについては注意を払わないものだ、と思っていた。


 きっと、僕の認識が間違っていたに違いない。正孝は考え直した。


 何しろ正孝は、そんなモテるタイプの女の子と、友達だった試しがない。だから当然、そういう子の内面は、外側だけの印象で勝手に決めつけることになる。そのあたりを正孝も自覚していたので、愛美の認識を改めるのには躊躇いは無かった。


「だいぶ、止まって来た」


 正孝は自白した。


 本当は、ずっと血が止まらないことにして、もう少し愛美と一緒にいたいと思ったが、それは、折角僕なんかに示してくれた佐藤さんの優しさを裏切るようで申し訳ない。正孝はそう思った。


「ちょっと見せて」


 愛美はそう言うと、正孝の鼻に当てているトイレットペーパーの束をどけて、正孝の鼻を下から覗いた。恥ずかしいけれど仕方がないと、正孝は身体を固めて、鼻の穴を愛美に覗かれる羞恥に耐えた。


「ふぅ、良かった。鼻、折れては無さそうかな……?」


 正孝は自分の鼻を押してみた。


 特別、変な痛みはない。


「大丈夫そうだよ」


「良かったぁ……」


 心から安心した、という風な愛美の様子に、正孝の心は緩んだ。


 ところが愛美は、安堵から一転、何か思い出したかのようにはっとして、それから、表情を曇らせた。愛美の視線の先を見て、正孝は、愛美が、壊れてしまった自分の眼鏡の事を気にしているのだとわかった。


「大丈夫だよ、安物だし」


 正孝はそう言って、出しっぱなしの眼鏡をブレザーのポケットにしまった。


「でも、そういうわけにはいかないよ。弁償は、ちゃんとするから」


「ホントに大丈夫だよ」


 そう言って、正孝は、ズボンの左ポケットから、常備しているビニール袋を取り出して広げた。そうして、山のように積まれた、血の付いたり、付いていなかったりするトイレットペーパーを袋の中に入れた。


 小さいビニール袋だが、所詮はトイレットペーパー。山のような量でも、その山はぎゅぎゅっと押し込めば、何ということは無い。最後はぎゅっと口を結び、一件落着。世は並べてことも無し。


 はぁ、と正孝は心の中でため息をついて立ち上がった。


「もう大丈夫だよ。わざわざありがとうね、佐藤さん」


「ううん。本当に大丈夫? 眩暈とかない?」


「大丈夫、大丈夫」


 愛美の優しさに顔をほころばせながら、正孝は応えた。


 愛美も立ち上がり、そして、正孝が持っている氷嚢をひょいと取った。


「返してくるよ」


「え。いいよ、自分で――」


「ううん。だって、私のせいだから。それくらい当たり前だよ」


「そうかな……」


 正孝はそう言って、それから何か会話を続けようと口を開きかけた。


 正孝はまず、自分の事を気遣ってくれる愛美の、その心の温かさを褒めようと思った。それから、そのことを自分は嬉しく思っていると。こんな風に他人――しかも女の子に心配されたことは、初めてだったかもしれない――。


 しかし、正孝は結局、口を閉じて俯いた。


 言葉が出来上がっているのに言わない、ということは、正孝にはよくあることだった。というより正孝は家族との会話の時でさえ、口を開くよりも、口を噤むことの方が多い。こう言ったら相手がどう思うだろうか、ということを考えすぎてしまうのだ。それで結局、何も言えない。


「返してくるね」


 愛美はそう言うと、軽やかにまた、体育棟の昇降口に入って行った。


 あっ、と正孝は愛美の背中に声をかけようとしたが、それもまたやめて、口を閉じた。


 別に、佐藤さんの方も、これ以上自分に用はないだろうし、これ以上僕と話したいなんて、思ってもいないだろう。正孝はそう思って一人落ち込んだ気持ちで、体育棟を後にした。


 校舎に向かって歩きながら、正孝は、『世は並べてこともなし』と心の中でまた呟いた。


「佐藤さん、可愛かったなぁ」


 そんな独り言を言って、正孝は空腹も忘れたまま、自習室へと向かった。今日はこのまま教室に戻るのは勿体ないような気がしたのだ。


 本当に気持ちが悪いことだけれど、もうちょっと、佐藤さんとの会話や、触れた彼女の手の柔らかさの余韻に浸っていたい。そう思った。

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