第3話 出立前


 稽古場の空気はツンと澄んでいた。


 天ツ水あまつみの中でも北部に位置する薄明はくめいの郷は、春だと言うのに朝はまだ霜が降りる。吐いた息はかすかに白く染まり、代わりに身体の中に神聖な空気を取り込むと内側からその身が清められる心地がする。

 

 細く息を吐き、狭霧は矢を持つ右手を弦にかけた。前方にある的に視線を合わせると、ゆっくりと両の手を持ち上げ、打ち起こした弓を引き分ける。

 

 ──今。

 

 放たれた矢が空気を切った。

 鋭い音と共に、木々に止まっていた鳥たちが驚いたように数羽逃げ出していく。バサバサと葉が揺れる。

 

 その音が収まる前に、背後から手を打ち鳴らす音が響いた。

 

「お見事」

「弥太兄様」


 狭霧が振り返ると、いつから見ていたのか六つ年上の従兄弟の弥太が狭霧の方へ歩み寄ってきた。的を遠目に眺めて弥太は目を細め、『狭霧は弓の名手だな』と冗談めかして軽く笑う。その言葉に、狭霧は思いっきり顔をしかめた。


「弥太兄様ったら、意地が悪いのね」

 

 狭霧の放った矢は的には当たっていたものの、どう見ても真ん中を外れていた。

 

 確かに狭霧は女にしては弓が上手いが、それだけだ。郷一番の射手である弥太には到底敵わない。郷の娘達は弥太の弓の腕を黄色い声で褒めそやすが、狭霧は昔から競争心が先に立ってしまうのだ。それを弥太も知っているはずだと思うのに。


「それでも大したもんだ。お前が巫女になるのは大層惜しい」

「まぁ、心にもない事を言うのね。やしろに行きたくないと駄々をこねて母様に叱られた時、弥太兄様はひとつも庇ってくれなかったのに」

「お前の母様は怖いから」


 苦笑まじりに弥太は言うと、狭霧の持った弓を取り上げる。そして全く気負わずに弓を構えると、矢を放った。狭霧から見てもその構えは自然で、無駄がなかった。

 狭霧とは違い、ど真ん中を射抜いた矢を目で追って、やはり意地が悪い、と狭霧は片頬を膨らませた。

 

 お前は力が入りすぎてるんだよ、と弥太が笑う。


「何事についてもな」

「何が言いたいの?」


 言い方が気に障って突っ込むが、弥太はそれには答えてくれなかった。

 

「いつ郷を発つんだ?」


 代わりに、何気ない風を装って尋ねてくる。


「天の巫女になるという意思は変わらない?」


 あれ程巫女になるのを嫌っていたじゃないか、と軽い調子で弥太が重ねた。それが言外に責められているように感じるのは狭霧がまだ幼いからだろうか。


「そんなに変? 御津地に女として生まれれば巫女として育てられるのは当然のことでしょう?」

「まさかお前の口から、そんな言葉を聞くとは」


 おどけたように弥太が言う。


 幼い頃から狭霧が巫女になるのを嫌っていたのは、弥太もよく知っている。修行から逃げ出してばかりの狭霧に狭霧の母がどれ程手を焼いていたかも。

 

 実際狭霧はよく弥太のところにも逃げ込んでいたのだ。『いつか狭霧の母様を説得してやるからな』とも弥太は言ってくれていたから、五年前に狭霧が急に巫女になると言った時に驚いたのは分かるのだけど。

 

「今更反対するの?」


 拗ねたように弥太を詰ると、まさか、と弥太が慌てて否定した。

  

「弥太兄様だって、この五年間どれ程私が熱心に修行に打ち込んでいたか知っているでしょう? それにどっちにしたって、巫女になるなら一度は昇宮する。そのついでに選巫せんふの儀を受けてくるだけよ」

「ついでってお前……」


 あのな、と弥太は言いづらそうに口にした。

 

「御津地から巫女が昇るのは、天と御津地の結びつきを絶やさぬ為だろう。みな御津地の巫女となるために昇宮するんだ。都には天の巫女になる為に修行している子達だっているんだろう? 御津地から天の巫女が出るのは二、三年に一人いるかいないかだと聞くよ。都に昇宮したからと言って、天の巫女になれるとは限らない。だから、無理だと思ったら選儀なんて受けずにすっぱり諦めて帰ってこいよ」

「……やっぱり弥太兄様ったら今日は意地が悪いわ」


 そんなこと、分かっている。

 弥太の言う通り、都にも天の巫女になる為の修行を受けた巫女たちがいる。彼女達は修行を終えれば、龍神に使える神巫かんなぎ言祝ことほがれ天の巫女になれるが、御津地の巫女は違う。

 

 御津地の巫女が天の巫女になる為には、昇宮した際に選儀──選巫の儀と呼ばれる儀式を受けねばならないのだ。それは試験のようなもので、通る確率はとても低いと言われている。

 だが狭霧が都にとどまる方法は天の巫女になるしかないのだ。

 

 頬を膨らませる狭霧に、珍しく引かずに弥太が『それに』と言い募る。


「お前は目的が不純だからさ。龍神様の怒りに触れないかと、気にかかるんだ」

「不純?」

「お前は天の氏族に仕える為にいくわけじゃない。アイツに……、白夜に会いにいくんだ。違うか?」


 弥太の言葉に狭霧は目を丸くした。


 白夜の名前は、五年前から誰もが口にしなくなった。仮にも五年間、一緒の郷で暮らした仲間なのに。母と父さえ、その名を口にすることを憚るようになった。

 

 こちらをまっすぐ射抜く弥太の目をまっすぐ見返して、狭霧は口をつぐむ。

 

 白夜。

 

 不意打ちで名前を聞くだけで、心がチクリと痛む。

 ずっと一緒に育ったのに、狭霧に何も告げずに都へ行ってしまった男の子。五年間、本当の姉弟のように育ってきたのに、離れる時はあまりに呆気なかった。


『狭霧』


 澄んだ水のような美しい声をしていた。

 その記憶もいつの間にか薄れ、名前を呼ばれた時に揺れる空気の振動だけが耳の奥に蘇る。


『狭霧とずっと一緒にいるよ』


 嘘つき、と心の中でなじる。

 少し思い出すだけで、今し方傷つけられたような鮮やかな痛みが蘇るのものだから、どれだけ詰っても足りない。


 それこそ白夜がいなくなった直後は、何度も口に出して喚いた。今ではもう口に出さなくなったけれど、思い出すたびに心のどこかで毒づいてしまう。

 

「理由なんて何だっていいでしょう」


 真っ直ぐに弥太の目を見返すと、その手から弓を奪い返す。

 

 白夜だって勝手に決めたのだから、狭霧だって勝手に決める。絶対に見つけて、横っ面を引っ叩いてやると決めているのだ。


「もう決めたの」


 狭霧はもう一度矢をつがえて、構えをとる。

 風を切って飛んだ矢は、今度は弥太の矢が刺さった的の中心に鋭い音を立てて射抜いた。


 振り返ると、狭霧は鮮やかに笑った。


 不純?

 構わない。

 

 そんな問答、心の中でもう何度もした。


(決めているの)


 狭霧は、白夜との約束を果たすためだけに天の巫女になると決めたのだ。




 ◇◆◇




 都より<おおかみ>が着いたという知らせが入ったのは、狭霧が奥山の泉で身を清めている最中だった。

 昇宮する前の七日間は社で過ごすのが巫女の決まりだ。決まり通り社で過ごしていた狭霧は、その便りを今か今かと待ち侘びていた。

 

 <狼>は天の氏族が使う隠密だと聞く。

 都は龍士りゅうじと呼ばれる特別な衛士たちが守るが、外に行き帝の目となり耳となるのが<狼>の役目だ。

 昇宮する御津地の巫女を護衛するのも<狼>の務めで、狭霧は<狼>が来ないと出発できなかったのだ。


 ──さぎり

 

 と、不意に腹に低く声が響いて狭霧は目を瞬かせる。

 

 

 ──いって……で

 

    ──まっ……るよ

 

 

 柔らかく大地が鳴動した気がした。青々とした葉で覆われた空を見上げて、狭霧はかすかに笑う。

 

 幼い頃から聞こえる声は、今でも時たま狭霧の耳に届く。

 昔はもっとハッキリ聞き取れた気がするのだけど、近頃は意味のある言葉を拾える事の方が少なくなった。もしかすると今も昔も分かった気になっているだけなのかもしれないけれど。

 

 今日は何だか優しく背中を押してくれたように思えた。


「──はい、行ってきます」


 小さく呟いて、狭霧は泉を上がる。水に濡れて張り付いたままの白の単衣を脱ぎ捨てて、昇宮用に用意された白の衣に袖を通す。

 早く早く、と心が急かした。腰まで届く髪を幾分かすくって耳の上で束ねると、小房のついた赤紐で縛る。気だけは急くから、手が滑る。

 

 三度目でようやく綺麗に結べて、狭霧は社の本殿へと急いだ。


「婆様!」


 パタパタと慌ただしく本殿の外廊下を走っていくと、座して待っていた大巫女──狭霧の祖母が顔を顰めた。

 

「騒々しい。これから昇宮するという巫女がそのような粗暴な振る舞いをするでないよ」

「ご、ごめんなさい!」


 バツが悪そうに黙りこむ狭霧を『こっちへおいで』と婆様が目線で後ろを指す。

 招かれるままに婆様に近づくと、そこでようやく狭霧は婆様の前方、縁より一段下がった地面に誰かが膝をついている事に気づいた。


(え、この子が<狼>?)


 声が出そうになるのを寸前で堪える。

 それくらい膝をつく<狼>の姿は狭霧にとって意外だった。


(まだ子供じゃない!)


 護衛だというから狭霧はてっきり屈強な男性を想像していたのだ。

 だが大巫女の前に控えていた黒一色の装束に身を包んだ<狼>は、まだ十二歳くらいの少年だった。伸びた赤毛を後ろでまとめているが、短いせいか方々に毛が跳ねているのがより幼い印象を抱く。

 

 その子どもが上目遣いに狭霧の方を見て、不意にニヤリと笑った。

 

(な……っ!)


 馬鹿にするかのような笑みにムッとしながらも、狭霧は婆様の後方に静かに腰を下ろす。


「<狼>、この子が此度昇宮する巫女だよ。名を狭霧という。都までくれぐれも頼むよ」

「はっ」


 笑った事などお首にも出さずに、<狼>が首を垂れる。


「狭霧、すぐに発てるかい?」


 大巫女の言葉に狭霧は頷いた。元々この日を心待ちにしていたのだ。狭霧とてすぐにでも都に向かいたい。

 

「だけど婆様。その子は今日着いたばかりなのでしょう? 休んでいかなくてもいいの?」

「少しくらい休んで行けば良いと言ったのだがね。他でもないその<狼>がすぐにでも発ちたいとの事だよ」

「お気遣い痛み入ります。ですが、一日も早く巫女様を連れてくるようにと神巫かんなぎ様が仰せです」

「おかしいね。まだ選巫の儀には間があるだろう」

「神巫様の御心は、獣如きの知るところではございません」


 取り憑く島もない<狼>の言葉に、大巫女はだが納得したようだった。

 

 神巫とは龍神に仕える二人の神職の事だ。神事において龍神を奉ずる特別な役割を持ち、ともすれば神事に関する発言権は都の神事を取りまとめる神儀官を凌ぐと言われている。

 

 大巫女といえど、御津地の氏族が口を挟める事柄ではないと判断したのだろう。『狭霧、用意をしておいで』と狭霧に声をかける。

 

「<狼>さん、最後に母様に挨拶をしてきても良いかしら。入り口で待っててもらっても良い?」


 狭霧が声をかけると、判断を促すように<狼>の少年が婆様に目を向ける。婆様が小さく頷くと、<狼>は『では郷の入り口でお待ちしております』と頭を下げた。


(何よ。私には返事してくれないの?)


 少年が自分の方に最後まで返事を寄越さなかったことに若干ムッとしながらも、狭霧は大巫女に挨拶をして身を翻した。

 

 社を出た時には、<狼>の事なんてすぐに忘れてしまった。


(いよいよだわ)

 

 転がるように坂を駆け下りながら、狭霧は久方ぶりに心が沸き立つのを感じていた。身体は軽く、どこまででも行けそうだ。

 

 屋敷に着くと、もう<狼>が来た事は知っているのだろう。父様が駆けてきた狭霧を抱き止める。家から出てきた母様が狭霧の荷物をまとめてくれていた。

 

「お前が無事昇宮する日が来るなんて夢のようだよ」


 だけど少し寂しいな、と笑う父様に狭霧も笑顔を返す。お世辞ではなく感極まったように母様が目元を押さえていた。

 

 仕事場にすぐに戻った父様とは違い、やれ寝る時はお腹を出さないように、神巫様のお話の途中で眠らないように、などと幼子に言って聞かせるような事を何度も言い聞かせる母様に辟易する。


「母様、もう狭霧は出発しま……」

「……狭霧」


 不意に、母様の声が低くなる。

 キョトンとする狭霧の手を両手で包み込むように握ると、母様は目を伏せた。


「お前に言っておかないといけないことがあるの」

「なぁに?」


 母様の深刻そうな様子に狭霧はキョトンとする。


「お前は、白夜が都にいることを知っているね?」


 その名に。

 その名が母の口から出てきたことに。

 

 驚いて言葉が出なかった。


(どうして……)


 今までいなかった者のように扱っていたのに。

 狭霧の困惑が分からないように、いや、わざとそう振る舞っているのか、淡々と母様は言葉を重ねた。


「お前がきちんと巫女の修行に打ち込んでくれるのが嬉しくて、ずっと言わないようにしていたの。だけど狭霧、お前にはきちんと伝えねばならないわ」

「何……?」

「都へ行っても白夜を探してはいけない」


 母の言葉に目を瞬かせる。

 何を言われているのか分からなかった。


「もし都で白夜を見つけても、知らないふりをなさい」


 何を言っているのだろう?

 

「どうして……」

「狭霧。どうか母の言うことを聞いてちょうだい。とても大事なことなのよ」


 カッとなった。

 今までずっと白夜をいないもののように扱っていて、いざ狭霧が都へ行くとなったら『知らないふりをしろ』だなんてあんまりだ。

 

 だけど母の目は必死で、そんな母を詰れるほど狭霧はもう物知らずではなかった。

 ただ頷きたくはない。


「母様。<狼>を待たせているのです。狭霧はもう行きますね」

「狭霧!」


 握られた手を離すと、狭霧は荷物を持って後退る。


「どうか母様もお身体に気をつけて」


 それだけ伝えるのが精一杯だった。

 踵を返すと、狭霧は郷の出入り口へと歩き出した。後ろから『どうか言うことを聞いてちょうだいね』という母の懇願の声だけが響いていた。



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