第2話 狭霧と白夜

 天抱く龍に守られた国、天ツ水あまつみには龍神に仕える二つの氏族が存在する。

 都を治めるあまの氏族と、地方の神事を行う御津地みづちの氏族だ。どちらも抱く神は同じだが、遠い昔天へ昇る龍神に天ツ水の統治を任されたのが天の氏族であり、御津地の氏族は天の氏族に任じられ、地域の神事を執り行う。


 御津地の氏族は六つに分かれており、狭霧は都から北方に位置する御津地の氏族の一つ、上御津地かみみづちの一族に生を受けた。

 幼い頃から奔放で野を駆け回ることが好きな子どもだったから、巫女の修行などはいっとう嫌い。

 

 その日も間も無く六つになる狭霧は、みっともなく屋敷の柱にしがみ付いていて駄々をこねていた。


「いやだ! 行きたくない!」

「いい加減になさい、狭霧。大巫女様もいらっしゃると言うのに、今日という今日は絶対に連れて行きますからね」


 嫌! ともう一度強く狭霧は拒否をする。

 

 狭霧が五つになった頃から、母様は朝の祈祷きとうに狭霧をともなうようになった。御津地の一族に生まれた女は代々龍神に仕える巫女になる定めだからだ。


 だけど狭霧は祈祷の時間が退屈で仕方なかった。

 走り回ってもいけないし、喋ってもいけない。婆様の長い長い祈祷の間ずっと黙ってじっとしてなければいけないのは本当に苦痛だ。

 

 二度も三度も逃げ回り、今日こそはと母に説得されているのだ。


「母様お願いよ。本当に狭霧は嫌なの! きとうはとても退屈なんだもの! 今日は弥太兄様が弓を作ったから見せてくれると約束したの!」

「また貴女はそんな我が儘を言って、母様を困らせないでちょうだい。そんな事では立派な巫女様になれませんよ」

「巫女なんかにならないわ! 狭霧は弥太兄様みたいに郷のえじになるもん!」

「狭霧!」


 母様が分からず屋の娘の頬を叩くために手を振り上げた瞬間を狙って、狭霧は柱を蹴って走り出した。母様のおっかない声が追いかけてくるけれど聞こえないふりだ。

 

 龍神様のことは嫌いじゃない。狭霧はただ神事が退屈で嫌いなのだ。

 巫女になるより、弓を背負い、刀をきたかった。だってその方がずっとカッコ良い。

 

 衛士になりたいと言うと、郷の大人達は皆馬鹿にするし、氏族の女達は揃って顔をしかめる。だけど女だから巫女になるのだと言われても狭霧にはちっともピンと来なかった。

 

(女でもお馬に乗れるし、弓だって使えるわ)


 幼い狭霧にはまだどちらも無理だけど、母様くらい大きくなればきっと難しくなんてない。どうして皆狭霧を馬鹿にするのだろう。今だって狭霧はかけっこじゃ村の子どもたちの中で一番なのに。

 

 ──……っちへ。

 

 不意に耳元で低く、くぐもった声が聞こえた。


(あ、また……)


 声に釣られるように顔を上げて、辺りを見回す。


 それは物心ついた時頃から、狭霧にだけ聞こえる不思議な声だった。

 いつも聞こえるわけじゃないけれど、時たま思い出したように狭霧に何かを伝えてくる。

 

 声は獣の唸り声のように低くて、おどろおどろしくさえあるのだけど、狭霧はどうしてかその声が怖くなかった。

 

 ただ不思議なことに母様に聞いても、父様に聞いても、弥太兄様に聞いても皆聞こえないと言う。子供達には嘘つき呼ばわりされて、母様には厳しく叱られた。

 

『見えないものの声を聞いてはいけない。それは天へと昇れぬ禍ツ魂まがつたまの声だから』

  

 龍神様は遠きに天へと昇られ、人には加護のみが残された。人の耳に届くのは神を偽る禍ツ魂まがつたまのみで、決して耳を傾けてはいけないよ、と。

 だけど狭霧には、それがどうしても悪い物のようには思えなかったのだ。

 

 ──こっちへ。

  

 声に導かれるまま、狭霧は転がるように山の斜面を走り出した。


「どこにいるの?」


 誰ともなく尋ね返すけれど、声は返らない。ただ声の聞こえてきた方向は不思議と理解できた。声はいつだって朧げで、意味を掴めないことも多いけれど、言葉以上の手触りのようなものを狭霧に伝えてくるのだ。

 だから声がこっち、と言えばこっちだと分かる。

 

 何がいるのだろう、とワクワクした。

 狭霧は分からないことが好きだった。見えないもの、聞こえないものが明らかになる瞬間が好きだった。幼い好奇心に突き動かされてどんどん進む。


 進んで行くうちにいつしか川べりに出ていた。

 村の女達がいつも洗濯している川で、狭霧もお手伝いで何度も訪れている。だけどもうすぐ夕刻だから今は誰もいない。


「このへんのはずだったのだけど……」


 気付けば声は途切れていて、きっと案内したかったのはここに違いないのにどうして誰もいないのだろうと首を傾げる。


(まちがいかしら?)


 耳を澄ましたけれどもう何も聞こえない。ならここで合ってるはずだ。


 辺りを見渡すと、不意に川べりに汚い布みたいなものが引っかかっているのが目に入った。


(何だろう?)


 恐る恐る布きれに近付くうちに、狭霧はそれがただの布ではないことに気づいた。


「あ!」


 驚いて狭霧はその布に駆け寄った。

 倒れていたのは狭霧と同い年くらいの子供だった。昨日は雨がたくさん降ったから、上流からきっと流されてきたのだ。

 

(どうしよう……)


 助けなきゃ、と思って駆け寄ったけれど、その子の服は濡れて重く、狭霧の力ではその子を川から引き上げることも出来そうになかった。


「起きて! ねぇ、起きて!」


 掴んだ服はぐっしょりと湿っていて、身体もひんやりとしていた。何度も声をかけて身体を揺らすが、その子は目を開けてくれない。

 どうしよう、どうしようと焦って周りを見渡すが今日の狭霧は祈祷が嫌で逃げてきたのだ。誰も一緒にいるはずがない。

 

「ねぇ、起きてったら!」


 小さな唇は青くなっているけれど、どうしてか死んでいないことは分かった。

 

(でもこのままじゃきっと死んじゃうわ)


 冷たい服を着たままだと、日が沈んだらグンと身体が冷えるのだ。前に川で夕刻まで遊んでいたら、風邪をひいてしまったこともある。三日三晩熱が下がらなくてとってもしんどかったのを、狭霧は覚えていた。


「どうしよう……っ」


 気付けばポロポロと涙が滑り落ちていた。どうして良いか分からずにとうとう狭霧がわんわんと泣き始めると、不意に男の子が身じろぎした。


「……うっ」

「ぁ……」


 震えて、薄く開いた瞳は月のように美しい金色。あまりの美しさに狭霧は泣くのを一瞬忘れた。


 ボンヤリと狭霧を見上げた男の子は、ぼうっとしたまま狭霧を見つめている。その瞳が不意に緩んで、男の子は笑った。

 

「空のいろ、だ──」

 

 それが空を見て言ったのか、はたまた狭霧の瞳の色を差して言ったのか狭霧には分からなかった。

 

 ただもうこの子を救わねばという一心で、男の子の手を掴んで自分の首の後ろに回した。

 

 と言っても狭霧にその男の子を運ぶ力はなく、結局偶然近くを通りかかった従兄弟の弥太が男の子を運んでくれたのだが。

 

 運び込まれた男の子は、その日高い熱を出して寝込んでしまった。母様について狭霧も懸命に看病し、その甲斐あってか三日の後男の子は目を覚ました。

 

 男の子は川に流される前のことを何も覚えていなかった。家も名前も分からない、と首を振る男の子を前に狭霧はとても良い事を思いついた。

 気の毒に、と涙を流す母の袖を握って、狭霧は自信満々に宣言した。


「うちの子になればいいのよ!」


 我が家には子供は狭霧しかいない。父様はずっと息子を欲しがっていたし、狭霧だって弟が欲しかった。


「ねぇ母様、いいでしょう?」


 狭霧の願いが聞き届けられた、訳では決してないだろう。

 でも大人たちの話し合いの末、男の子は白夜と名付けられ、狭霧の家の子になったのだ。




   ◇◆◇

 



 白夜はおよそ子供らしくない落ち着いた子供で、成長するにつれそれは顕著になった。

 あまり口数も多くないし、表情も変わらない。気味が悪いと里の子供たちに虐められる事も何度かあって、見つけた時には飛んでいって狭霧が蹴散らすこともしょっちゅうだった。


『大丈夫⁉︎』


 泣いているかも、と駆け寄った狭霧に、白夜はいつだって何でもないように顔を上げた。

 

『平気だよ』


 そう答える白夜は泥と擦り傷だらけだったけれど、確かに少しも傷ついているようには見えなかった。


 お転婆な狭霧と姉弟のように育ったから、狭霧に付き合って一緒に山に入ってくれたり弓にも付き合ってくれることもあった。だけど、元々本人は静かに過ごす方が好きなようで、狭霧よりも余程社に行くことを好む子供だった。


 社には神事に関する書物があり、御津地の家にもらわれた白夜も読むことを許されたのだ。巫女になる事を嫌う狭霧も白夜に伴われると渋々巫女の修行に出向いたので、母は大喜びだった。

 

 物静かで良く言うことを聞く白夜は狭霧と正反対で、母も父もよく可愛がっていたと思う。泣くことも怒ることも本当に珍しかった。


 狭霧が覚えている限り、白夜が怒ったのは一度きり。

 それは狭霧が十一になったばかりの頃だった。


 相変わらず巫女になることを拒む狭霧は、変わらず衛士になる事を夢見ていた。

 ちょこまかと衛士のいる場所をうろついては物を聞くので、衛士たちも狭霧には甘い。それが分かって、狭霧はよく衛士達にわがままを言ったのだ。

 

 その日は衛士の一人に頼み込んで、郷の馬に乗らせてもらった。

 でも狭霧が好きに馬を走らせてしまって止められなくなってしまい、慌てた衛士の一人が並走して何とか馬を宥めてくれた。

 

 それで騒ぎは事なきを得たのだが、今更ながらに怖かったことを思い出して笑い出してしまった狭霧はひっくり返ってそばにあった藁山に落ちたのだ。

 真っ先に狭霧に駆け寄ってきたのは白夜で、その顔は真っ青だった。手当てをするから、と狭霧の手を強く引いて家に帰る途中、白夜はずっと無言だった。


 それでもまだ、狭霧は白夜が怒っていることに気付かなかった。


「君はいつも考えなしだ」


 ようやく白夜が口を開いたのは、家に着いて狭霧の手当てをしている途中だった。搾り出すように白夜はそう口にした。


 悪かったとは思っているけれど、そんな風に開口一番なじられると狭霧もムッとする。何でよ、と尖った声が出た。


「今回は運が良かっただけだ。大人が馬を止めてくれたから。それなのに馬の上から転げ落ちるなんて……。もし走っている途中で落ちたらどうするつもりだったんだ。そうじゃなくても落ちたのが藁の上じゃなかったら、打ちどころが悪くて死んでいたかもしれない」

「やぁね。白夜まで母様みたいに小言を言うんだから」

「危ないことはしないで欲しいって言ってるんだ!」


 ころころと笑う狭霧を、白夜の鋭い声が遮った。そんな大声初めて聞いた。驚いたように白夜を見て、流石にバツが悪くなって狭霧も黙りこむ。

 

「顔にまで傷をつけて、君は女の子なのに」

 

 そう言いながら、白夜の手が頬についた狭霧の傷の汚れを水に浸した布切れで乱暴にこする。


「痛い痛い!」

「我慢して」

「痛いってば!」


 やり過ぎだ。

 怒った声を上げて白夜の腕を掴むと、思いの外真剣な目で見返された。


「──君がいなくなったら、僕は一人になる」


 ポツリと、その場に落ちた言葉に何度も目を瞬かせた。

 

「お願いだから、いなくならないでくれ……」


 心細い声だった。心底恐れている声だった。そこで初めて狭霧は反省した。何故かは分からないけれども、どうやら自分はこの大事な家族を酷く傷つけてしまったらしかった。


「……どうしてそんなこと言うの。母様も父様もいるわ」


 だけど素直に謝るには狭霧はまだ幼くて。

 

 言い訳するようにそう答えると、白夜は小さく首を横に振る。母様と父様が僕に優しいのは君がいるからだ、と。


「そんな事はないと思うのだけど」


 そう言ってみたが、こんな時の白夜は頑なだった。金色の瞳がやるせないように歪むのを見て、困惑した。

 白夜が落ち込むのは嫌だった。母様や父様に怒られるととても嫌な気持ちになるのだけど、それでも白夜が悲しむ方がずっとずっと嫌な気持ちになる。

 

(どうしたらいい?)

 

 うんと考えて、狭霧は血の滲んだ布を持つ白夜の手をギュッと握った。この少年の心が、少しでも休まるように。


「一人になんてしないわ。約束したじゃない」

「でも君は巫女になったら、社に行ってしまうだろう」

「それこそ何度も言ってるじゃない。私、巫女にはならないの」


 巫女になりたくないのは狭霧の勝手だけど、白夜が悲しむなら尚のことだ。

 

 何度も聞いたセリフだろうに、白夜はようやく力が抜けたように笑った。白夜の手が今度は優しく、狭霧の顔の汚れを拭う。


「巫女にはならないんだったら尚更、顔に傷をつけてはダメだろう。嫁の貰い手がなくなってしまう」

「良いのよ。顔の傷くらいで女を判断するような男、こちらから願い下げだわ。それに駄目になったら白夜にもらってもらうんだから」

「僕は君の弟なんじゃなかった?」

「血の繋がりはないでしょう」

「……全く都合が良いんだから」


 呆れたようにため息をつきながらも、白夜が機嫌を治してくれたようでホッとする。本当のことを言うと、狭霧はこの幼馴染の機嫌を損ねるのが一番怖い。


「ずっと一緒にいると言ったでしょう?」


 十一歳の狭霧はまだ幼くて、頑なにその約束を信じていた。

 絶対に離れないのだと疑わなかった。

 

 白夜がいなくなったのは、ちょうど三ヶ月後のことだった。

 

 その日は朝から何だか大人たちが騒がしくて、狭霧はまるで邪魔者みたいに社へ追いやられた。


『白夜は? 白夜も一緒じゃないと社には行かないわ』

『わがままを言わないでちょうだい。そもそも社にあの子が上がっていることが特別なのよ。たまには一人でいってらっしゃい』


 焦るような母様の言葉はどこか不自然だった。首を傾げながら、追い立てられるように狭霧は社に籠り、家に帰ってきて初めて白夜の不在を知ったのだ。


『よく聞いて狭霧。白夜は自分の故郷に帰ったのよ』


 故郷とはなんだ。

 白夜の家はここだ。狭霧の家だ。

 

 怒っても泣き叫んでも、母様も父様も白夜がいなくなった理由を教えてはくれなかった。


 約束したのに。

 ずっと一緒にいると言ったのに。

 

 その日を境に、母様も父様も白夜の事は口に出さなくなった。狭霧が尋ねれば応じるがそれだけだ。まるで禁忌のように、その名を口にしない。

 

 ただ、白夜は都に行ったのだと、夜更けに話し込む両親の会話を漏れ聞いた。


 本来、都から遠く離れた郷に生まれた人間はその郷で一生を終える。

 白夜が都に行ったのであれば、狭霧にはそれを追う手立てはない。


 だけど一つだけ。

 一つだけ方法があった。

 

 御津地の巫女も天の巫女も、十六になると天の氏族の神巫かんなぎより龍神の祝福を授かる。そこで初めて龍の巫女として認められ、天の巫女、御津地の巫女を名乗り神事を行うことが認められるのだ。

 昇宮した巫女は天の巫女になるための選別を受けることが出来る。特別優秀であれば天の巫女として選ばれ、二年間都で龍神に奉ずることができるのだ。


(天の巫女に、なれば……)


 都に留まることができる。

 

 狭霧は今までずっと、巫女の修行から逃げてきた。

 巫女になどなるものか、と思っていた。


(だけど──)


 白夜に、会えるなら。

 

 どれだけ苦しくても。

 一生を龍神に縛り付けられる事になっても。

 

 構わない、とその日狭霧は静かに決意した。


 

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