第31話 side ○○

私は、ずっと兄が疎ましかった。



「君千嘉さん、これ美味しいですよ」

「佳代子。いただくよ」



佳代子も、また兄を気に入っているのだと私はずっと勘違いしていた。



「馬鹿じゃないの栄野田君。佳代子と離婚するなんて勿体無いわね」

「所詮、佳代子も兄さんが好きだったんだ」

「何馬鹿な事言ってるのよ!佳代子は、ずっと栄野田君推しだったじゃない」


佳代子の友人で、同級生の河内真理恵かわうちまりえは、私の手を叩いて笑った。

あんなにも一緒にいたのに……。

私は、佳代子の愛をずっと疑っていた。



「佳代子は、兄さんが好きだったんじゃないのか?だから、私のプロポーズを受け入れたんじゃ……」

「何言ってるのよ。佳代子は、ずっと栄野田君が好きだったわよ。同級生達が、鷹道さん派って言ってるなかで。佳代子は、いつも。私は栄野田君千嘉君の方がいいわって言ってたのよ」

「そんな事は、知らなかったな」

「言うわけないじゃないの。初恋の人に振られたら佳代子は生きていけなくなっちゃうんだから」

「初恋か……。そんな話を結婚して暫くした頃に話してくれたのかも知れない。だけど、覚えていないな」

「栄野田君。佳代子とちゃんと向き合っていた?ただ、一緒にいただけだったんじゃないの?」

「そうかも知れないね。それじゃあ、帰るよ。これ」

「いつでも来てよ。場末のスナックだけど……。栄野田君の愚痴ぐらい聞くわよ」

「ありがとう」



河内さんの店であるスナック真理恵は、とても居心地がよかった。



「君千嘉様、お疲れさまでした」

「別に待っていなくてよかったんだけど……」

「どうしてですか?」

「栄野田の屋敷を出て行った私についてなど来なくてよかったんだよ。松村」

「そんな事をおっしゃらないでください。私は、ずっと君千嘉様の運転手ですから……」



松村は、お父様が私につけた運転手だ。

佳代子と別れ、栄野田の屋敷を出る時に財産分与をしてもらった。

一棟のビルも分けてもらったけれど、私はアパートに暮らしている。



「君千嘉様、どうしてアパートに住んだのですか?」

「様は、やめてくれよ。もう、栄野田の屋敷にはいないんだから。松村、今の私達は対等だよ」

「君千嘉さ……ん」

「それでいいんだよ。あっ、さっきのアパートの話だけど。お祖父様がアパートから始めたって話をいつもしてくれたのは覚えてるだろう?」

「覚えています」

「それだよ、それ。だから、アパートってのに住んでみたかったんだ」

「住んでみてどうでしたか?」

「自由だよ。前よりも」


アパートの前で、松村におろしてもらってから家に入る。


私は、ずっと自由だった。

何も期待されていなかったから。

いつも、両親に好きにすればいいと言われていた。

だけど、栄野田にいながらの自由は私をただ苦しめるだけだった。


幼少期の頃から、期待されている兄とは違う事をまざまざと見せつけられ……。

お父様とお祖父様は、口々に「鷹道が栄野田を継いだら」と嬉しそうに話していた。


私は、誰にもされていない。

兄が憎い。

大嫌いだ。

そんな気持ちは、成長する度に増えていった。


恋愛だって自由なのに……。


「栄野田君、これお兄さんに渡してくれない?」

「うん」



学校帰りに兄を好きな女の子に声をかけられて、私は兄に手紙を渡す係だった。

中学二年になり、私は初めての彼女が出来た。

ようやく、兄に手紙を渡す係を卒業できる。

兄ではなく、私を好きだと言ってくれる人が現れた。

喜んだ私の気持ちは、一瞬で崩れた。



佳南かなみって、栄野田君千嘉と付き合ってるんでしょ?」

「よしてよ。大声で言わないで」

「どうして?」

「だって……。鷹道さんに近づきたくて付き合ったのがバレたら困るじゃない」

「何だ。そういう事」

「顔はいくぶん似てるからと思ったけど。弟君は駄目ね」

「どうして?」

「何か陰気臭いのよ。話をしていてもつまらないし……。だからと言って、別れたら鷹道さんと話せないじゃない」


がっかりした。

私をなど、どこにも存在しないのがわかった。

私は、佳南ちゃんと別れる事を決めた。


別れたいと言った私に佳南ちゃんが吐き捨てるように「あんたなんか好きじゃなかったんだから。勘違いして、誰かに付き合ってたなんて言わないでよ」と言うと走って帰って行く。

兄の代わりだったなんて、恥ずかしくて誰かに言えるわけがない。

それからも、私に交際を申し込んでくる人はだった。

私は、誰かと付き合うのが怖くなり……。

告白や遊びの誘いも、全て断るようになった。


いろんな人と付き合ったのに、私は誰とも手を繋ぐ事すらしていなかった。

そんな事をする前に、兄の代わりだとわかってしまっていた。

女の人を信じるのは、やめよう。

そう誓った時に、現れたのが佳代子だった。


「あ、あの……。栄野田君の事が好きなんです。付き合ってください」


佳代子の気持ちに答えたのは、化けの皮を剥がしてやろうという気持ちとどうせ兄を好きなのだから都合よく使ってやろう。

そう思ったからだった。


だが、佳代子はいつもの子達と違って、兄の話をしなかった。

もしかしたら、信じてもいいのかも知れない。

そう思った私は、佳代子にプロポーズした。



「本当ですか?」

「俺なんかでよければ……」

「俺なんかって言わないでくださいよ。私は、君千嘉さんと一緒にいるのが幸せなんですから」



佳代子の恥ずかしそうに笑う仕草を見ながら、私はこの愛を守っていこうと決めたのだ。



しかし、栄野田の屋敷に住み始めると私は佳代子を疑うようになり始めた。

疑心暗鬼というやつだ。

鷹道は、私の兄なのだから挨拶を交わしたり話す事など当たり前の事。

今なら、それがわかるけれど……。

若い頃の私には、理解出来なかった。


「若さ故ってやつだろうか……」


結婚して暫くして、私は副社長になり……。

佳代子が、子供を身籠った頃から言い寄ってくる女性と食事やデートに行った。

それを繰り返していくうちに、最初にあった罪悪感は薄れていき。

私は、重大な裏切りを繰り返した。

それをあの日、夕貴にバラされたのだ。

私は、裏切りを繰り返していたくせに、の二文字にはなかなか応じなかった。



佳代子の愛を信じる事が出来ていれば、未来は変わった事だろう。

でも、信じられなかった。

他の女性達と佳代子も同じだと思ってばかりで。

兄と話しているのを見る度に、佳代子も兄が好きなのじゃないかと思ったんだ。



「君千嘉さんも、苦しんでいるのですね」

「お義姉ねえさん……わかりますか?」

「わかりますよ。私も鷹道さんに愛されていないので」

「花井……ですか?」

「やはり、同じ屋根の下に住んでいればわかるものなのですね」

「兄さんは、きちんとお義姉さんを愛していますから大丈夫ですよ」

「そうでしょうか?私は、愛してるとも一度も言われた事はありませんから。わかりません……」



栄野田での私の唯一の理解者は、兄の奥さんである早苗さんだけだった。

私達は、度々こうして話をした。

愛されていないと感じるもの同士。

この栄野田で、唯一早苗さんと話す時だけが息が出来た。

早苗さんには、本当に感謝している。



あれから、一年半の時が流れた。

私は、佳代子から一本の連絡を受けた。

まさか、花井智子が亡くなるとは思ってなかった。



「久しぶりだな」

「お久しぶりですね。君千嘉さん」

「思ったよりも、元気そうでよかったよ」

「君千嘉さんも元気そうでよかったです」

「ありがとう」


通夜の式典が終わったあと、佳代子と話をした。

佳代子が、喪主をつとめているという事は花井とうまくいったのであろう。


「君千嘉さんが、花井が亡くなって泣くとは思いませんでした」

「佳代子は、私を何だと思ってるんだね。花井と過ごした時間は、とても長かった……。亡くなる事は、とても悲しいよ」

「そうですよね。酷い言い方をしてすみません」

「いや、わかってる。私には、血の通った人間らしい部分がないと思っていただろ?私は、お父様の葬儀でも泣く事はなかったから」 

「お義父様の場合は、悲しみが深すぎて泣けなかったのでしょう」

「どうだろうね。悲しみよりも憎しみが上だったのかも知れないね」

「憎しみですか?」

「別れた夫の愚痴など聞かなくていいんだよ。忘れてくれ」



佳代子は、不思議そうな顔で私を見つめている。



「どうした?」

「いえ。結婚生活では君千嘉さんは、自分の事をあまり話さなかったから……。少し驚きました」

「あの頃は、佳代子の……。いや、佳代子さんの気持ちを疑っていたからね。弱味を見せたら負けだとばかり思っていた」

「どうして、今は?」

「河内真理恵さんのお店に行ってね。色々話を聞いたんだ。私は、佳代子さんを信じればよかった」



ぎこちない笑みを浮かべて笑ってみせる。

花井のお通夜で、私は何を話しているんだ。



「よかったら、今度。真理恵さんに会いに行かないか?」

「……」

「すまない。気にしないでくれ。忘れてくれ」

「……友達としてなら一緒に行ってもいいですよ」

「本当か?」

「はい」

「それは、嬉しいよ。友達として、今度一緒に行こう」

「わかりました」


佳代子が柔らかい笑顔を浮かべてくれる。


「それじゃあ、また明日来るよ」

「わかりました」

「子供達は、夜には来ると言っていたから無理しないようにしてくれ」

「ありがとうございます」



初めて、を言えた気がする。

もしかすると、花井が近くにいたのだろうか?

私が、本心を話せるようにしてくれたのだろうか?




「君千嘉様、佳代子様にきちんと想いを打ち明けるべきです」

「想いなどない。ちゃんと伝えている」

「そんな言い方をなさらずに、どうして裏切ったのか説明するべきです」

「花井……。私が佳代子とお前の事を気づいてないとでも思っているのか?」

「君千嘉様……申し訳ございません。自分の身分をわきまえず佳代子様にお近づきになってしまい……」

「私は、怒っていないよ。佳代子の事をこれからも支えてあげて欲しい」

「君千嘉様」

「栄野田の屋敷の中の出来事だ。見なかった事にするし、口外しない」

「ありがとうございます」

「その代わり……。佳代子を笑顔にしてやって欲しい」

「わかりました。君千嘉様」



花井は、私との約束を守ってくれた。

最期の時間も、佳代子を笑わせてくれていたに違いない。

花井、私はようやく自分の気持ちを素直に打ち明けられそうだ。

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