第6話 夫の帰宅

私は、夫の寝室の扉を閉める。

勇気、覚悟……。

そんなものをまだきちんと持てていない自分を感じる。


「相変わらずね。いたっ……」


私の部屋に飾ってある薔薇を触った瞬間、指先を棘がさす。


「切ってなかったのね……。いや、たまたまね」


他の棘を見ながら、私の指先を傷つけた1つだけが切れていなかったのがわかる。


「ハンカチ……ハンカチ……」


鞄からハンカチを取り出そうとして彼女に貸した事を忘れていた。

仕方ない。

リビングで、救急箱を借りるしかないわね。

立ち上がって、部屋を出る。

指先には、プクリと小さな丸い血が出ている。

血をつけないようにしながら、扉を閉めた。


「あれ?早いね。夕貴」

「えっ?何で?」

「薔薇で怪我した?救急箱もらってくるから、部屋で待ってて」


何で……?

あなたがいるの……?


私は、もう一度部屋に戻り椅子に腰掛ける。


「大丈夫?借りてきたよ」

「ありがとう」

「見せて、指」

「あっ、はい」


いつもなら、触れられるだけでドキドキするのに……。

今日は、吐き気が襲いそうになっている。


「薔薇、飾ってもらうのやめたら?ほら、こうやって怪我しちゃったら大変だろ?夕貴の指は、綺麗なんだから……」

「薔薇は、私みたいだから……。置いてもらいたいの」

「私みたいって、夕貴はもう薔薇じゃないだろ?俺には、棘なんか見えないよ」


【愛してるよ、陽人……】

夫が、私の顔を覗き込むように話した瞬間。

その声が、脳内を流れてきた。


「泣くぐらい痛かった?」

「えっ……あっ……。久しぶりに怪我なんかしたからかな?」

「だったら、薔薇を置くのはもうやめてもらいなよ」


夫は、救急箱をしまうと立ち上がる。

夫が、手当てしてくれた右手の人差し指で涙を拭おうとするとカタカタと小刻みに手が震えてきた。


怒り……悲しみ……憎しみ……。

私の体をうごめいている感情の正体を言語か出来ない。

ただ、この震えが嫌悪を示しているのだけはわかる。


「これ、持っていくよ。また、夕貴が怪我をしたら大変だから……」


善人ぶって、優しくするな……。

私の大事なものに触るな……。

気持ち悪い。

気持ち悪い。

気持ち悪い。


「触らないで」


薔薇の花瓶を持って行こうとする夫に私は大声をあげていた。


「そんなに嫌なの?薔薇がなくなるの……」

「ごめん」


カタッと花瓶を戻した夫は、何故か私の方にやってくる。

私の頬に手を当てて涙を優しく拭ってきた。


触れられた所から黒く染まる気がする。

触るな。

触るな。

気持ち悪い。

気持ち悪い。

あんなに触れて欲しかったのに……。

あんなに愛していたのに……。


「夕貴。泣く程痛いなら、置かないでいいじゃん」


私は、夫の目を見れずにいた。


「ちゃんとこっちみてよ……。夕貴に涙は似合わないよ」


だったら、何が似合うの?

私は、夫の目を頑張って見つめる。


「夕貴。キスしようか?」

「えっ……?」

「キスしたら、涙止まるかも知れないだろ?」


夫が何を考えているのか理解が出来ない。

今、夫とキスをするなんて考えられない。


「夕貴……」

「ごめん……なさい」


キスを拒む事しか出来ない惨めで小さな私。


「大丈夫。涙が止まるから、ほら」


拒絶した唇を奪われる。


【陽人、愛してる】

脳内にさっきの言葉が流れる。

夫があいつに捧げた吐息や甘い囁きが頭を駆け巡って、胸の奥の深い場所に落ちていく。


「夕貴……ずっとしたかったんだろ?言ってたじゃん。私は、子供が欲しいのって……」

「……できないんでしょ?」

「出来ないよ。最後までは絶対に……だけど、夕貴の欲求を満たしてあげるぐらいなら出来るよ」


私は、夫に馬鹿にされている。


「コウキ、私を愛してる?」


答えを知りたくない問題を口に出してしまった。


「決まってるだろ。じゃなきゃ、こんな事しないよ」


愛してるとは、言ってくれなかった。


「もう、やめて……。今日は、そんな気分じゃない」

「毎日、毎日言ってくるのに何だよそれ……」


どうして、自分が傷つけられた顔をするの?


「朝から調子が悪かったの。だから……」

「何だ。それなら、そう言ってくれればいいのに」


どうして、ホッとした顔をしたの?


「ごめんね。私、もう……」


寝るねと言おうとして、私は固まった。


「どうした、夕貴?」

「ごめん。会社に忘れ物しちゃった」

「えっ?体調悪いんじゃないの?」

「だけど、明日必要な書類だから……取りに行ってくる」

「そう。気をつけて行きなよ」

「うん。じゃあ……」


鞄をとって、私は部屋を出る。

夫に触れられた唇をスーツの袖でゴシゴシと拭いながら歩く。


汚い。

気持ち悪い。

同じ空気を吸うだけで、目眩がして吐き気がした。


「丸山」

「大丈夫ですか?お嬢様」

「【バンビ】に連れてってくれない?」

「かしこまりました」


何故だろう……。

私は、彼女から漂う別の匂いを感じていた。

フルーティーフローラルの香りとトイレの匂い。

彼女が話し出すとカフェオレとタマゴサンドの匂いがした。


「昼食ですか?」

「まあ、そんなところ」

「バンビに行くなんて珍しいですね。並ばなくちゃいけないからお嬢様は、苦手だったでしょう?」

「花井さんが持ち帰ってくれてよく食べたのが懐かしくて……。確かに、並ぶのは苦手よ。でも、たまには冒険しないとね」

「そうですか。私は、てっきり誰かに会いに行くのかと思いました」

「えっ……?」

「家を出た時よりも嬉しそうだったので……。バンビにもうすぐ着きますが、駅前なので車は別で停めてきますね」

「ここでいいわ。歩くから……。丸山、駐車場わかったら連絡して、丸山の分も買ってきてあげる」

「期待せずに待っておきます」


私は、車から降りて【バンビ】を目指した。

さっき夫につけられた【黒】を取り除きたかった。

彼女が食べたものと同じものを食べたからって綺麗になるとは思えないけれど……。


少なくとも、社長室で話した彼女は真っ黒な服とは対照的に真っ白な心を持っていると感じられた。


【バンビ】につくと昼食時のせいか、かなりの人が並んでいた。

このまま、並んでいるだけで……。

30分以上は、かかるだろう。

いつもは、この行為を無駄な時間だと切り捨てていた。

でも、今日は違う。

この時間がありがたい。


【バンビ】のご飯を食べるためだけに並んでいる列。

そこには、悪意の欠片もない。

この場所にいるだけで、さっきまでざわついていた心が静まるのを感じる。

私は、深呼吸をしながら少しだけ目を閉じた。


「そんなの駄目。栄野田さんをいじめて何が楽しいの?」

「はあ?桜さんってそっち側の人間?」

「そっち側って何?そんなのあるわけないじゃない。栄野田さんは、優しい人だよ。お金があるとか、綺麗とかそんな事関係なくて。栄野田さんは私達と同じだよ。栄野田さんは、ただの女の子なんだよ」


後ろの人から「すみません」と声をかけられて我に返った。


「あっ、すみません」


気づけば、かなり列は進んでいた。

私は、急いで進む。

二つ前の女の人が、注文を受け取っていた。


「いらっしゃいませ。ご注文は、何にしますか?」

「タマゴサンド二つとホットのカフェオレとアイスコーヒーで」

「かしこまりました。少々、お待ちください」

「はい」


コーヒーのいい香りとバターや砂糖の甘い匂いが店内を埋め尽くす。


………………。

……………………。

…………………………。



「あの、お客様」

「あっ、後で取りに来ます」


私は、慌てて店を飛び出していた。



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