第9話
「お嬢様の様態が悪化した」
男の言葉に一瞬2人とも氷ついてしまった。
様態が悪化したというのは、梓の病気が悪くなったという意味で間違いない。
海斗は無意識のうちに拳を握りしめていた。
さっきまで平気だったのに、心臓がドクンッと大きく跳ねて背中に嫌な汗が吹き出してくる。
「それって、どういう……」
どういう状況なのか質問しようとしたとき、男が車の後部座席のドアを開けた。
「行けばわかる」
低い声で言われて全身からサッと血の気が引いていく。
男がざわざわ学校まで自分たちを迎えに来たのだ。
ただ事ではないことは明白だった。
海斗と健は顔を見合わせて頷きあい、車に乗り込んだのだった。
男の車が停車したのはこのへんでは一番大きな相好病院の駐車場だった。
いつもの屋敷じゃないことに困惑して、緊張が走る。
男と共に院内へ足を踏み入れると、消毒液などの病院どくとくの香りが鼻腔をくすぐって海斗は思わず顔をしかめた。
あまり慣れていない匂いだ。
エレベーターで5階まで上がると、そこは内科の入院病棟になっていた。
梓の部屋はナースステーションから近い一人部屋だった。
男が軽くノックをしてドアを開ける。
中から聞こえてきた返事は弱々しくて、海斗たちの耳には届かないくらいのものだった。
開け放たれたドアの向こう側はとても白くて眩しかった。
白い壁に白い床。
天井まで真っ白で、窓から差し込む太陽の光を反射している。
一瞬にして海斗は梓の話を思い出していた。
真っ白な空間で女神さまと出会ったときの話し。
ここに女神様がいるんじゃないかと錯覚しかけたとき、ベッドの上に横たわっている梓の姿を見つけた。
梓は家とは違い、薄いピンク色のパジャマを着ていて、そこだけ色がついているように見えた。
梓は目があった瞬間微笑んでくれた。
しかしその細い腕は点滴で繋がれていて、点滴の横にはよくわからない機械が置かれている。
その様子を見て海斗は絶句してしまう。
昨日会ったばかりでほとんどなにも変わっていないはずなのに、場所や機材が変わるだけで目の前にいる梓は病人になってしまった。
1日にして雰囲気が変わることに愕然としてしまう。
「2人とも来てくれたんだ」
ベッドの上に座ろうとする梓を、男が止める。
「横になっていたほうがいいです」
その言葉に梓は素直に従った。
鈴のような声色は相変わらずでも、その声量は随分と小さい。
近くにいないと聞き取れないくらいだ。
「女神様との約束はどうしたんだよ」
海斗はベッドの横に立ち、梓を見下ろすか形になってそう言った。
梓は少し視線を泳がせて「約束、したよ?」と首をかしげてみせる。
「それならどうして……」
そこまで言って右手で口を塞ぐ。
どうしてこんなに弱ってるんだよと聞きたかったけれど、胸に熱いものがこみ上げてきて言葉が途切れてしまった。
梓は微笑んで「約束はした。でも、いつまで生き続けられるのかは聞いてない」
じゃあ、もう梓の命の期限はギリギリのところまで来ているんだろうか?
せっかくこうして仲良くなれたのに、もうお別れが近いんだろうか。
そんなの……。
「そんなのわからないだろ」
後ろから健が呟いた。
その声は少し怒っているようで、海斗は振り向く。
健はベッドの中の梓をジッと見つめていた。
「まだまだこれから生き続ける可能性もあるってことだろ」
健の言葉に梓が大きく目を見開いた。
痩せてしまった梓は目だけが大きくて、それを見開くと目玉がこぼれ落ちてしまいそうに見える。
それから梓はふふっと声を漏らして笑った。
「うん。そうだね」
その笑顔に海斗はホッと胸をなでおろす。
梓のつらそうな顔は見ていたくない。
「それに、もう1度女神様に会えるかもしれない。2回でも3回でもお願いをすればいい」
海斗は思いつくままに言葉をつなげる。
「何度でも予知夢を見て、俺たちが解決してやるから」
「うん。そうなったらいいよね」
梓は夢見るように目を閉じる。
その右手がゆっくりと浮き上がり、海斗の手を握りしめた。
その手の暖かさ、細さにビクリと体を震わせる。
震えは梓にまで伝わったのか、少し躊躇するような雰囲気が伝わってきた後、手をギュッと握りしめられた。
目を閉じた梓の目頭から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「あなたたちに出会えてよかった」
梓の声は微かに震えていて、海斗の胸がギュッと締め付けられる。
こんなに小さくてか細い少女がどうしてこんなめに遭わないといけないのか。
そんな不満が胸に膨らんでくる。
このまま梓の様態がよくならなかったらどうする?
このまま目を開けなかったら……?
そう考えた瞬間ゾッと全身が寒くなった。
血の気が引き、立っていることもできなくなるほど強くメマイを感じる。
咄嗟に海斗は病室から駆け出して男子トイレへ駆け込んでいた。
便器に座ると自然と嗚咽が漏れでてきてしまう。
必死に両手で自分の口をおおって声が漏れるのを隠した。
梓がいなくなってしまうかもしれない。
そんな恐怖が全身を包み込んでいる。
そんなの嫌だ。
絶対に嫌だ……!
それでも病魔は刻一刻と、無情にも梓の体を蝕み続けているのだった。
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