第6話

ようやくそのことに気が付いたのだ。



現実ではほんの少しでも体から離れるとアウトなんだ。



もう二度と、戻れなくなるんだ……。



両親が梓の体にすがりついて泣きじゃくる。



医師は懸命に新マッサージを続けているが、モニターの心電図はきっと回復しないのだろう。



ここからじゃ画面は見えなかったけれど、様子を見ていると理解できてしまった。



『嘘だよ、私が死ぬなんて……』



ポロリと頬に涙が流れた。



だって、やりたいことがまだまだ沢山残ってる。



あれもこれもできてない。



病気のせいで遊びに行くことだって勉强することだって中途半端なままだ。



このまま死ぬなんて嫌だ……!



強くそう願ったときだった。



途端に周囲が明るくなって、梓はなにもない真っ白な世界に来ていたのだ。



さっきまで病院の外を漂っていたのに、ここにはなにもなかった。



病院はもちろん、行き交う人々も車も緑も池もない。



ただ、真っ白でなんの音も聞こえてこない世界だ。



梓は途端に寒気を感じて身震いをした。



しかしこの空間は寒くも熱くもない、ただ恐怖心から震えたのだ。



両手で自分の体を抱きしめるようにして周囲を見回す梓。



まさか自分はもう死んでしまったんだろうか?



こんなにあっけなく、なにも成し遂げられないまま、何者にもなれないまま。



病室で泣きじゃくっていた両親の姿を思い出して胸が痛くなる。



ごめんねお父さんお母さん。



こんなに弱く生まれてしまってごめんなさい。



不甲斐なくて下唇を噛みしめる。



だけど両親はきっと自分たちのことを責めるだろう。



丈夫な体に生んであげられなくてごめんね。



助けてやれなくてごめんな。



そんな風に謝罪する姿が安易に浮かんできて、更に悔しくなった。



せめてそんなことないよ。



お父さんとお母さんのせいじゃない。



と言ってあげたい。



でももう無理なんだ。



そうやって声をかけることすら、自分にはできなくなってしまったんだ。



絶望的な気分が胸に浮かんできたとき、白い世界に更に明るい光が差し込んできて梓は視線を向けた。



それは直視するのが難しいくらいの光で、頭上から差し込んできている。



しかしそこも白い世界が続いているばかりで、梓には一体なにが起こっているのか理解できなかった。



やがて光が弱くなっていくと梓の目の前に見たことのない女性が立っていた。



女性はゆるく巻いた黒髪が腰まで流れ、黄金色に輝く絹のワンピースを着ている。



肩からは空中に浮く羽衣をかけていて、その姿は天女のようだった。



梓は呆然として女性を見つめた。



女性は柔らかくて包み込んでしまうような笑顔を浮かべて梓を見つめる。



その目を見ているとなぜか緊張や恐怖が解けていくのを感じた。



いつの間にか梓の心は穏やかになり、この白い空間にいることも違和感がなくなっていた。



女性はそうなるのを待っていたかのようなタイミングで梓に話しかけた。



『あなたはいままでよく頑張りました。これからは苦しむのない世界に行くことになります』



『苦しみのない世界?』



『そうです。私と一緒に行きましょう』



女性が梓に手を差し伸べる。



梓はまるで誘導されるように手をのばす。



しかし、その手が触れ合う寸前のところで梓は自分の手を引っ込めていた。



このままこの人について行ってしまって本当にいいんだろうか?



そんな疑問がふいに浮かんできたのだ。



同時に病室で泣き崩れていた両親の姿を思い出す。



すると胸の痛みが舞い戻ってきた。



私は病室にいる自分の体に戻るべきじゃないんだろうか?



『どうしたの?』



女性は目を見開いて梓を見つめた。



自分の手を取らなかった人など今まで1度もいなかった。



そんな様子が見て取れる。



梓は少し申し訳ない気持ちになりながらも、おずおずと口を開いた。



『私は……元の体に戻れるんですか?』



『あなたはもう苦しまなくていいんですよ』



その声はまるで麻薬のようだった。



聞くだけで女性についていきそうになってしまう。



きっと、そっちを選んだ方が楽になれるということもわかっていた。



けれど梓はっぱり女性の手を取ることができなかった。



『私は自分が苦しくても構いません。両親を悲しませたくないんです』



梓の言葉に女性はまた驚いた様子で瞬きを繰り返す。



『そんなことは気にしないで。一緒に行きましょう』



『そんなことじゃないの!!』



梓は思わず怒鳴っていた。



女性についてけば自分の苦痛はなくなるのだろう。



けれど、残された者たちはどうなるんだろう?



ずっとずっと、悲しみにくれて生きていくことになるんじゃないんだろうか。



だって、今だって両親はあんなに泣いている。



自分のせいで苦しんでいるじゃないか。



『私はまだついて行けません』



頑固としてその場を動こうとしない梓に女性はついに呆れ顔になってしまった。



最初に見せた優しい笑顔はどこかへ消えて、面倒な子を前にした母親のような表情だ。



『どうしても?』



『どうしても!』



梓は知らない間に両足を踏ん張り、拳を握りしめていた。



そうしていないとこの女性に強制的に連れて行かれてしまいそうで、怖かった。



しばらく困り顔で思案していた女性は、ついにため息をこぼした。



『わかったわ』



その言葉に梓の表情が輝く。



元の自分に戻ることができれば、両親を悲しませずにすむ!



しかし、一筋縄ではいかなかった。



『その代わりに条件を出します』



『条件?』



聞きながらも、体に戻ることができるのならどんなことでもしようと思っていた。



『あなたにはもう少しの猶予を与えます。同時に重大な任務を任せることにします』



『重大な任務?』



『えぇ。あなたは生きている間にその任務を全うしなければなりません。それでも体に戻りますか?』



その質問に梓はすぐには答えられなかった。



どんなことでもしようと決意したものの、任務の内容を聞いていなかったからだ。



『早く答えないと、あなたの体はもうもちませんよ?』



『ちょ、ちょっと待って! 任務ってなに!?』



『体に戻ればわかります。さぁ、決めなさい』



女性の声が梓を急かす。



梓は額に汗が滲んでくるのを感じて手のこうで拭った。



どうしよう。



任務ってなんだろう。



自分にできることだろうか。



もしできなかったらどうなるんだろう。



聞きたいことは山のように合った。



だけどもう時間が無いことも梓自身が理解していた。



きっと自分の体はもうあと数分ももたないだろう。



『わ、わかりました! やります!!』



梓は勢いをつけてそう答えた。



女性の表情が一瞬氷つき、そして初めて合ったときと同じような笑顔になった。



梓を包み込み、温めるような笑顔。



女性はそれ以上なにも言わず、梓は次に目が冷めた時病院のベッドの上にいたのだった。

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