第40話穏やかな気持ち


 病院の駐車場に停めた車の中で、康兄ぃが待っていた。


「どうだった、信じて貰えたか?」

「多分・・半信半疑だとは言ってたけど、小説の続きを読みたいって言ってくれたし」


「この後は大学に二人を送って行けばいいんだな?」エンジンをかけた康兄ぃが、後部座席に座る藤本先輩を振り返った。


「うん、サークルの稽古があるから。悪いね、送り迎えしてもらって」


 昨日一晩寝て、流れ込んで来たジュリエットの記憶はなかなかハードな内容だった。学園祭に向けて毎日のように演劇の稽古を長時間こなしていたのだ。あたしが自分の体に居れば、ジュリエットは舞台をあたしに任せるだろう。今まではジュリエットが上手くやってくれていたけど、あたしもちゃんと台詞を覚えて頑張らないと・・。


 車が走り出して5分位経った時だった。また周囲の物音が遠ざかって行くような感覚に陥った。視界もぼんやりしてきた。


『あっ、これはまた向こうに行っちゃうのかも』

『ああ、わたくしも感じますわ。景色が歪んで見えます・・和華、向こうに行ったらライオネル様との婚約を進めて下さい。わたくしの気持ちなど・・・・』


 そこでジュリエットの声は途絶えてしまった。




_____________




「ジュリエット、気が付いたか!」

「ライオネル様・・ここは・・」


「ここはアカデミーの保健室だ。突然倒れたから心配したぞ。どうだ具合は?」

「そうですか、和華も突然、自分の世界に戻されていたんですね」


 わたくしは保健室の硬いベッドから起き上がった。突然倒れたと教えられたが、特に体に異常は感じられない。ぐっすり眠った後のように、気分もいい。


「ん? 和華って言ったか? まさか本物のジュリエットか?!」

「そうですわ。中身もジュリエットですわ」


 本物かと聞かれると、器はいつも本物で、中身だけが和華と入れ替わっていたのだ、と否定したくなってしまう。が、そんな暇を与えずライオネル様は突然、わたくしを強く抱きしめた。


「良かった、やっと戻って来たんだな。戻ってこれたんだな!」

「ラ、ライオネル様・・あ、あの・・」


 ライオネル様の腕は力強く、その胸はとても広い。そんな事を意識した途端、顔が火を噴きそうに熱くなった。


「あっ、すまない、つい・・」


 ライオネル様はすぐ私を離して謝罪した。わたくしは突然の事に驚いて、なんと返していいか分からない。でも『つい』とはなんですの? 驚きと恥ずかしさで、わたくしは腹が立って来た。


「つい‥つい、とはなんですの?」

「えっ、つい、か? ええと‥君が、本物のジュリエットが戻って来たと分かったら、嬉しさのあまりに、つい‥という『つい』だな」


 ライオネル様はいつもの自信満々な様子でも、人をからかう様な態度でもなく、明後日の方向を見ながら、恥ずかしそうに手で口元を覆っている。こんなライオネル様を見るのは初めてだわ・・。


 そういえば、和華が随分大人しいですわね。さっきからずっと黙ったままだわ。


『和華、もしかして笑いを堪えていらっしゃるの? 和華?』


「おかしいですわ。和華がおりませんの」

「ん? さっきまではいた、という意味か?」


 そう言われてみると、目覚めてから一度も和華の気配を感じなかった。もしや、わたくしだけが戻ってきたのかしら。


「あちらの世界では和華と一緒でした。でも和華は向こうに残った様ですわ」



 

 わたくしが自分の世界に戻ってから1週間が経った。だが和華は戻らないままだった。

 この1週間の間に、留守にしていた期間の記憶を夢ですべて見ることが出来た。なので和華が進めていた薬草園の事業をすんなり理解した。


 ゴードン様が自ら議会に薬草園の草案を提出してくれたので、可決がとても早かったようだ。わたくしも和華の体の中にいたおかげで、向こうの世界の様々な知識を得られた。ハウス栽培の知識も専門家ほどではないにしろ持っている。この薬草園を手始めとして、得られた知識を生かし、この国を少しでもいい方向に導く助けとなればと思う。


 アカデミーに通う傍ら、薬草園の事業に参加し、たまの余暇にわたくしはライオネル様に弓の教授をお願いした。


 今日はアカデミーではなく、王宮の広大な敷地の中にあるライオネル様のプライベートなお庭で弓を教えてもらうことになっている。


 ライオネル様の自室のフランス窓から外に出ると、陽光に照らされ青々と茂る灌木の向こうに、緩やかな流れの小川が見える。あちこちに野草の小花が咲き乱れ、蜜を求めて蝶が舞っていた。王宮内とは思えないような自然美がそこら中に溢れている。


「こちらにお招きいただくのは初めてですわ」

「そうだったか。子供のころは遊ぶ場所なんてどこでも良かったしな」


 そうですわね。その子供の頃でさえわたくしは、妃教育で遊ぶ時間も取れなくなっていましたけれど。


「素敵なプライベートガーデンですね。整形された人工的な王宮の庭園とは対照的で、まるで人の手が入っていないかの様な、自然の風景がとても美しいですわ」


 わたくしとライオネル様は並んで、小川のほとりをゆっくりと歩き出した。前方に見える大きな木の幹に弓の的が括り付けられている。


「お気に召したようで何よりだ」

「ライオネル様らしいお庭と感じました。いい意味で、ですわ」


「そうだな、俺は形式に囚われず、ありのままの姿が何よりも美しいと思っているからな」


 ライオネル様はふと足を止めて、わたくしの方へ向き直った。


「だからジュリエットは今のままでいい。俺のそばに居て好きな事をして笑っていればいい。ゴードンの事を忘れられなくてもいいんだ。ただ俺のそばに居てくれたら・・」


 この世界に戻ってきた日も、ライオネル様は見たことのない表情をわたくしに向けていた。今日もそうだわ。まるで自信がなくてなくて、切ない瞳をした子犬のような・・。


「わたくしの‥ゴードン様への気持ちを知っておいででしたのね」

「ああ。俺はずっと、ずっと君を見ていたから。ゴードンを見つめる君を」


「ライオネル様、今のわたくしは振り返る事が可能です。振り返り、わたくしを見つめる瞳を見つめ返す事が出来るのです。ですからどうかわたくしの手を取り、乞うて下さい」


「ジュリエット、俺は君が好きだ。俺と結婚して欲しい」


 ライオネル様の力強い手がわたくしの両手を包み込んだ。心の中が暖かい気持ちで満たされる。まるで手からライオネル様の感情が流れてくるように・・。


「はい、わたくしもライオネル様のお傍に居たいと思っています、心から」


 喜びにはち切れそうな笑顔のライオネル様は、わたくしを抱き寄せようとした手をサッと引っ込めた。


「あっ、あぶねー。つい嬉しくて、またいきなり抱きしめそうになった」

「ライオネル様ったら! ここはしてもいい所ですわ」


「ありがとう、ジュリエット」


 そう言ってライオネル様はわたくしを優しく抱きしめた。目を閉じると小川のせせらぎが聞こえてくる。こんなに穏やかな気持ちになったのは生まれて初めてかもしれない。

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