第6話 プロとして
審査は、人がどんどん絞られてくると、感覚も短くなってきた。
次第に短くなってくることで、本来なら、合格への希望と、落とされることへの不安とが葛藤を起こし、その先が、妄想という形で、膨れ上がってくるものだろうと、ちあきは思っていた。
しかし、実際に自分がその渦中に入ると、まったく別の思いを巡らせることになるのだ。
「自分は一体何をやっているのだろう?」
という感覚で、自分が、
「ひょっとすれば、オーディションに合格するのではないか?」
という思いと、逆に、
「落ちるかも知れない。その時はどうすればいいんだ?」
という思いとで、頭の中がいっぱいになっていた。
最初は、
「自分がアイドルなんて、考えてもいない。応募した友達を恨んだ」
というものだった。
しかし、それが、次第に目論見とは違い、合格していくにしたがって、
「私は求められているのかしら?」
と考えるようになると、
「もし合格すれば、その先のことを考えないとすれば、この状況を楽しみたい」
と思うようになった。
どうせ合格できなかったとしても、自分が望んで出たものではないのだ。
こんなことを、最初から真剣に考えて応募した人で、自分よりも先に不合格になった大多数の人たちが聞けば、大いに腹を立てるだろう。
しかし、今残っている人の中で、ちあき一人くらいが、合格不合格という一喜一憂は、ナンセンスだった。
落ちた人からすれば、
「あの人一人がいなければ、私が、通貨していたかも知れない」
と、まるで。
「次点で落選した」
ということを信じて疑わない人であった。
そもそも、
「そんな甘いことを考えているから、合格なんかできないんだ」
というくらいの気持ちがあって、やっと審査を受けるだけの技量があるというもので、たった一人のことで、自分が不合格にされてしまったというのは、ある意味、審査員に対しての侮辱であり、それは、評価を受ける人間が行ってはいけない、ルールのようなものではないだろうか。
それを考えると、逆に、そんな人たちを押しのけて自分が審査を潜り抜けてきたのだから、堂々としていなければいけないだろう。
これは、もし、このコンクールでなければ、普段は思っていたことだったのだ。
「審査に応募をした以上、まわりとは平等であり、勝ち残った場合は、落ちた人の代表でもなければいけない」
という思いだった。
だが、逆な発想もある、
「お互いに最初から正々堂々と勝負をしてきたのだから、勝ち残っても、敗れ去っても、遺恨を残さない。つまり、勝ち残ったものが、敗れたものに同情するというのは、ある意味、冒涜にすぐない」
という思いだった。
これは、精神的に平常時であれば、後者であろう。
しかし、何か勝ち残ったことに、何かの因縁めいたものがあったとすれば、勝ち残った人間は、
「敗れ去った人たちの思いを引き継いでいかなければいけない」
という考えを持つべきなのだろう。
状況によって、精神の持っていき方も変わってくる。当然、正反対のことでも、状況が変わることで、正論となるのだ。
その思いが、今の世の中を形成していて、特に、今のような、民主主義による、
「自由」
という名の競争を生んできたのだ。
それを正当化するために、
「敗れ去った者たちのためにも」
という考えが、欺瞞として使われているとすれば、あまりいいものだと言えるわけではないだろう。
オーディションでも、コンクールでも、いくつかの審査を経て、最期に最終選考となるのだろうが、最終選考までいけば、普通に考えれば、ほぼ、合格という感覚になるだろう。
数千人、數万人の中から、数名しか選ばれないのだから、そこまでくれば、グランプリに選ばれなくても、
「それこそ、その時の運だ」
といってもいいように感じるのだ。
つまり、下から見ていると、最終選考に残った人は、
「誰が選ばれても、文句をいう人などいない」
というところまで来ている人だという考え方だ。
しかし、実際の当事者とすれば、
「ここまで来たんだから、グランプリになれなければ、同じことではないか?」
と感じるのも、無理もないことである。
短距離走の競技をしていて、目の前にテープがあって、テープしか見ずに走ってきた人が、あと少しでテープに触れると思った瞬間。普通なら、
「俺の勝ちだ」
と思うだろう。
しかし、実際に目の前で切れてしまうと、
「あっ、俺のテープが」
と思うのではないだろうか。
十中八九自分のものだと思ったのに、他の人に切られた。これほど悔しいことはない。
確かに、まわりを見ずに、自分だけが猪突猛進になるのは、作戦上いかがなものかと思うだろうが、まわりを見ずに自分だけを信じることで、最大の力を発揮する人であれば、これも仕方がない。
しかし、ゴールの瞬間の悔しさはどうしようもなく、逆にそれだけ必死でやっていたともいえる。
それなのに、
「二番であっても、タッチの差だったんだから、一位の価値は十分にある」
と言われても、それは、言い訳にしか聞こえない。
下手をすれば、欺瞞にしか聞こえないといってもいいだろう。
「何も知らないくせに、何も分からないくせに、勝手なことを言いやがって」
と心の中では思うだろう。
冷静になれば、
「ああ、二番でも、よくやった」
と自分を褒めてやれる時が来るかも知れない。
しかし、それができるのは、本人である自分しかないのだ。
だから、グランプリに入った人間が、もし、その後の進路を辞退したとして、まわりからは、
「せっかくグランプリになったのに、辞退なんてもったいない。他に落選した人の気持ちを考えると、そんなことは簡単にできるわけないわよ」
というに違いない。
だが、それをいうのは、そのオーディションに関わった、参加者であれば、その資格はあるだろうが、完全な外野からすれば、一種の野次馬でしかないような気がする。
オーディションに応募した人の中には、冷やかし程度に、
「応募でもしてみるか?」
と思った人や、
「本当にそれを目的に、幼少の頃から、ずっと頑張ってきた」
という人もいるだろう。
それぞれの人の立ち位置によって、見え方は違っているだろう。
そもそも、グランプリというものを頂きとしてすべての応募者が見ているかどうか、それも怪しいものだ。
だが、真面目に応募してきている人は、少なくとも、
「誰が選ばれても、恨みっこなし」
という気持ちで、応募はしてきているはずである。
だが、実際にグランプリを受章した人が、辞退すれば、次点の人が繰り上がるのかどうかというのも、注目で、
「該当者なし」
ということもあるだろう。
そちらの方が、
「諦めがつく」
と思っている人も多いだろう。
特に、コンクールなどの場合は、それが多いかも知れない。なぜなら、接待にグランプリを出さなければいけないという状況ではない場合。
つまりグランプリの受賞が、その目的になっている、オーディションの場合は、次点でも、グランプリに格上げということはあるだろう。
例えば、何かの番組の主役を決めるオーディションや、アイドルグループで、最初から人数が決まっていて、
「一人が抜けたので、補充メンバーを募集するため」
などと、ハッキリ分かっている場合は、次点が繰り上げということは、必然なことだろう。
しかし、これが、コンクールという趣旨の元であれば、
「絶対に、誰かを選ばなければいけない」
ということでは、決してないのだ。
実際に選ばれた人は、まずは、有頂天となるだろう。まるで自分が天才にでもなったかのような気分になったり、先生と呼ばれることに素直な喜びを感じたり、それは、その人が実際に、必死になって登ってきた頂きであり、登り切らなければ見ることができない光景を見ていると実感したことが、そのような有頂天にさせるのだ。
コンクールの場合は、芸術的な賞であったり、出版社などが、その素晴らしい作品を探すというよりも、
「そんな素晴らしい作品を書ける人を発掘し、その人がこれから作る作品で、自分の出版社の本が売れる」
ということを目指している場合が多いだろう。
つまりは、作品そのものよりも、作品を製作したその人がほしいということになるのだ。だから、新人賞や文学賞に選ばれて、プロ作家としてデビューをすると、問題は、
「次回作」
になるのだ。
最初は、文学賞や新人賞という、
「プロ作家への登竜門に合格する」
ということに、死力を尽くすことになる。
いくら、次回作が問題だといっても、大賞が取ればければ、その先がないわけなので、まずは、大賞受賞が第一関門となるのだが、それがとにかく難しい。
数千の中から、一つを選ぶのだ。下手をすれば、一次審査も通らないということはざらにある。
「一次審査くらい、何度か応募していれば、そのうち通るさ」
と普通は思う、
しかし、十回以上応募して、一次審査すら通らないということで、限界を感じ、書くのを辞めるという人も多いだろう。
中には、
「プロになるのは諦めるが、趣味として、ずっと書き続けていればそれでいい」
と思う人もいることだろう。
それはそれで、立派なことだと思う。それがその人のやり方なのだからである。
それでも、応募は止めないという人もいるだろう。
「自分の実力を測るという意味で、応募し続けるのも、一つのルーティンだ」
といってもいいだろう。
応募することで、一次審査を通れば、
「やっとか」
という感じで、今度は気楽に自分を見ることができる。
気楽に見ることができるというのは、客観的に見ることができるということで、一定の距離で自分を見ることができるわけで、今まで、主人公として自分を見てきたものを、わき役から主人公を見るような形になることで、今までとは違う見方ができることが、気楽さから、余裕を生むかも知れないのだ。
だが、気楽になることで、その人本来の埋もれていた実力が開花するかも知れない。一種の、
「覚醒」
といってもいいだろう。
そうなると、作品には、まるで命があるかのようになると、審査員も、
「他の作品とは違う」
と思い、次々に審査をパスしていく。
そしていよいよ最終審査に持ち込まれるわけだが、基本的には、二次審査を通ったところまでは、
「中間発表」
として発表されるが、最終選考に残ったかどうかは、最終発表の段階dしか分からないことが多いだろう。
結果、ひょっとすると、諦めの境地にいた人が、グランプリを取ったとしても、それは無理もないことだ。
しかし、これは本人には大いに困惑させられるだろう。
これが、まだ作家を目指している時であれば、有頂天にあるだろうが、
「自分には、作家の道など見えない」
と思っている人には、
「なんて皮肉なことなんだ」
と思うだろう。
そして、新人賞を受賞したとして、プロと呼ばれるようになれば、今度は出版社の見る目が変わってくる。
これまでは、
「お客さん」
というような視線だったものが、口では、
「先生」
といって、敬ってくれるが、立場上は、
「出版社に飼われている、作家のひとりであり、締め切り厳守、守れなければ、契約解除もありえる」
ということになる。
専属に近い出版社から契約を解除されると、
「自分はプロなんだから」
といって、他の出版社が雇ってくれるとは思えない。
「あなたは、あちらで専属でやってたんですよね? それを契約解除ということは、タブーを犯したということですよね? うちでそんなことをされると困るんですよ。プロならプロらしき、しっかりやってもらわないと困ります」
と、門前払いを食らうのではないだろうか?
プロだからと言って、
「先生、先生」
といっておだてられるのは、結果が伴わないとできないことだ。
出版社が掛けた発注に、時間厳守で、望むものを出版社に納品してこそのプロだと言えるのだ。
時間厳守、それと、要望通りの作品の納品ができなければ、
「プロとしては失格だ」
というレッテルを貼られても仕方がない。
そうなると、当然、契約は解除。その時点で、この作家は、プロとして、出版社では、ブラックリストに載ったといってもいいだろう、
そうなると、作家として生きていくことはできなくなる。
相撲界でも、大関以下であれば、負け越せば、番付は下がるが、引退ということはない。しかし、それが横綱ともなれば、成績が下がると、
「まわりから罵詈雑言を浴びながらでも、横綱を続けるか、それとも、潔く引退するしかない」
ということしかない。
なぜなら、横綱には、負け越したとしても、番付が下がるということはない。
再度、再起を賭けて、下からやり直すということができないのだ。
それをプロの作家と考えるなら、一度なってしまって、そこで汚点を残してしまうと、それが消えることはない。出版社に対しての裏切りは、そのまま、作家としての
「死」
を意味することになるのだった。
だから、オーディションにしても、コンクールにしても、その目的は違っていても、一度プロになってしまうと、逃げることはできないという接待的な厳しさがあるのだろう。
そして、そのオーディションに合格した人の中に、
「自分は知らなかったのに、友達や家族が勝手に応募したので、仕方なくオーディションを受けたら、合格しちゃった」
という人も結構いる。
なぜ、そんなことになるのかまではよく分からないが、
「気楽にやるからいいのかな?」
という意見もあるだろう。
中には、
「プレッシャーに弱い」
という人もいて、そういう人であれば、なかなか合格できないが、
「どうせ、自分で応募したわけではない」
ということで気楽にやれば、合格したという人もいるだろう。
その人は、そういうところが自分にはあると自覚ができていれば、その後も、その世界でやっていけるだろう。しかし、問題は自分が応募したわけでもないその世界で、
「やっていこう」
を感じるかどうかというのもあるだろう。
プロを諦めた人が大賞受賞ということになったのとは、少し事情が違う。
プロを諦めた人が受賞したとしても、それ以降はないだろうと思うからだ。
「大賞をくれた人たちに悪い」
という気持ちも若干あるだろうが、だからと言って、一度はあきらめたものを、近づいたからといって、再度プロになろうと思えるかというと、無理ではないだろうか。
プロともなると、相撲界でいう横綱と同じだ。やる気が失せてしまうと、再復帰はできないといってもいい。
最初から、
「俺には無理だ」
と思うのであれば、受賞時代というのも、ありではないか?
もちろん、賞はもらえるが、プロにならなくてもいいということであれば、賞だけもらってもいいと言えるだろうが、その賞が、プロ作家としてのデビューとセットだとするならば、受賞は諦めるしかないだろう。
それが一番いい選択なのだが、この場合も、
「辞退するくらいなら、何で応募なんかしたんだ?」
という批判が出るのは、当然のことだ。
だから、
「辞退には、批判が漏れなくついてくる」
ということを自覚しておかなければいけないということになるのも当たり前のことではないだろうか?
小説家の世界の大賞はそうだが、他のオーディションで、合格した人は、ほぼ、そのままデビューということが多いような気がする。実際に、オーディションの世界や、芸能界の実情を知らないから何ともいえないが、オーディションの中には、まったくの素人もいれば、どこかの、タレント養成学校や、専門学校の、芸能コースの人などもいるだろう、
そして素人の中には、勝手に応募された人もいたりして、そんな人が実は、
「まだ見ぬ原石」
と呼ばれる人だった可能性もある。
それを思うと、アイドル発掘のオーディションで、合格してしまうと、有頂天になるというよりも、まわりのプレッシャーから、
「このままアイドルを目指さないといけないんじゃないか?」
と思う人もいるだろう。
しかし、審査員も、その人間を見るわけだから、大賞を受賞した人が、本人の意思ではなく、誰かが応募したとかいうことは関係ない。そもそも、そんなことを知るはずもないし、応募者を差別することになるわけで、公平に審査して、その人がグランプリを採ったのであれば、素直に、その人が素晴らしかったということだろう。
そんな人であれば、当然、人格もしっかりしているだろうから、アイドルを目指すということをひとたび考えると、本当に、アイドルを目指す体勢に、しっかりなれることだろう。
そう考えてみると、ちあきは、本当に人格者だったということだろうか?
それとも、何かを目指すということになると、先々を計算ずくで考えるようなことなく、目の前の課題をコツコツこなすことに長けているといってもいいのではないだろうか?
本当に、
「あれよあれよ」
という間に、最終審査まで残ることができた。
「ここまでくれば、合格できなくても、悔いはない」
と、ちあきは言ったが、その言葉には、
「半分本当で、半分は本当ではない」
といえるだろう。
ウソだとはどうしても言えないのは、ここまで彼女が頑張ってきて、最終選考に残ったのが、紛れもない事実だったからである。
ちあきは、そのまま合格した。まわりは、さすがに、
「あのちあきが?」
と影で言っている人もいたようだが、その声も実際に聞こえてきた。
しかし、ちあきには、その方がありがたあった。自分でも、何で合格したのか分からあにと思っていたので、それなのに、影で何も言われないのだとすれば、何かがおかしいと思うのも、無理のないことのように思えたからだ。
「そんな自分が、まわりから、陰口を叩かれないのはおかしい」
そう思うのは当たり前で、もし、自分が選ばれるような素質を持った女性であれば、まわりが嫉妬するはずであり、そうでないのなら、選ばれたこと自体を、おかしいと感じるはずだからである。
どちらも、言葉にすると、
「嫉妬」
や、
「やっかみ」
ということになるのだろうが、どちらにしても、
「もし、自分がまわりの人の立場であれば、自分の近くにオーディションに合格するような人がいたとすれば、それは、どういう形であっても、嫉妬の対象に、なりえることだろう」
と感じるに違いない。
だから、
「こんな自分が感じるのに、誰も自分に対して感じないというのは、却って不気味に思えてくる」
ということである。
そんな中で、一番ビックリしているのが、何と、応募を掛けた、はるかだった。
「鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔」
といえば、ちょうどいいだろう。
まさか、ちあきが合格するなど、思ってもいなかったという感じだ。
「どうせ、私に無断で応募させ、私のことだから、他人が応募したなんてことを言わないので、すぐに落選すれば、誰も知らないままで、この私が、まわりに知られたらどうしようという怯えた気持ちで過ごすというのを見て、楽しもうとでも思ったのかも知れない」
と感じたが、
「当てが外れたわね」
と思うと、ちあきは、逆に、はるかを追い詰めることを考えていた。
今までは、はるかが勧めてくれたということを誰にも話していなかったが、
「それを合格したことで、公表するというのも面白い」
と感じたのだ。
「私の合格は、はるかのおかげ」
と宣伝する。
もちろん、そんなことを微塵も思っていないが、宣伝することによって、はるかは、
「そっか、はるかさんがちあきさんの才能を見抜いたんだ」
ということになり、それを、自分の実力として、素直に認めるだろうか?
もし、それを自分の実力として認めるくらいであったら、黙って、応募などということはしないだろう。
「どんな方法であっても、私を陥れる」
ということに集中しているのだと思うと、はるかを、
「いかにして、今度は追い詰めようか?」
と考える。
自分が合格したことによって、その方法はいくらにでも増え、無限の可能性すら感じるほとであった。
しかし、それを叶えることはできなかった。
合格したことで、ちあきは、自分の道が見つかった気がしたのだ。
それまでは、
「将来何になる?」
と言われて、漠然としたものを抱いているだけだったが、今は、
「アイドルとして、一定の地位を、芸能界の中で築くぞ」
という思いがあり、その先を見つめているのだった。
それは、高校になって趣味として始めた、
「作曲」
だった。
アイドルをやりながら、新たな道を模索するというのは、今のアイドルの常套ではないか。それを思うと、これからの自分はアイドルをやりながら、先にあるものを目指すという考え方行こうと考えるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます