第3話 勧善懲悪

 ほとんど、友達のいなかったちあきに、友達ができたのは、高校二年生になってからだった。

 その子は、まわりから完全に隔絶していて、まったく目立たない。まわりも意識をまったくしておらず、まるで石ころのような女の子だった。

 ちあきは、そんな人間がいるということを意識していた。

「自分のまわりにはいないだろう」

 という意識があるから、考えることができたのだ。

 つまりは、

「自分が、そんな石ころのような人間になれればいいのに」

 という思いがあったからだ。

 つまり、石ころというのは、

「すぐ目の前にあっても、誰にも気にされない。あることが、当たり前になってしまうと、下手をすると、そこになければいけないものがなくても、意識しなくなるでしょう? でも、なかなかそこまで気配を消すということは難しい。でも、世の中には、そんな石ころと同じような、誰にも意識されない存在のものが、思ったよりも、多く存在しているんじゃないかな? 俺はね、そんな存在になりたいと時々思うことがあるんだ」

 といっていたのは、幼馴染の、杉田明彦だった。

 彼は、結構な文学青年で、よくポエムを書いたりして、公募に出したりしていた。

 時々入選していたりしたようだが、、入選したことを、明彦はあまりまわりに言わない。

 それどころか、ポエムを書いていることすら、ごく一部の人しか知らない。

 最近では、小説に食指を伸ばしているのを知っている人は、ひょっとすると、ちあきだけなのかも知れない。

 そんな明彦は、自分が小説を書くということを、本当は、ポエムよりも、強く思っていたのかも知れない。

「ポエムはあくまでも、小説を書くための。準備段階だった」

 と思っているに違いない。

 どうしてそこまで思うのかというと、

 中学時代の作文で、明彦は、先生から褒められていた。明彦は小学生の頃から勉強が嫌いで、いつも成績はビリの方。しかし、中学に入ってから、作文を褒められたことで、勉強が好きになったのか、それから成績がウナギ登りでよくなっていった。

 だから、いつのまにか成績も追い越されてしまい、今では自身学校に入学した。

 ちあきの足元にも及ばないと言われるほどの進学校だ。

 中学校に入ると、それまでの成績が急に落ち始め、気が付けば、クラスでもいつも、いわゆる、

「落第点」

 を取っていた。

 夏休みの補習など当たり前で、つき合う人も、同じような底辺の連中ばかりになった。

 とりあえず高校は、何とか、普通の高校に入れたが、成績は相変わらずだった。

 しかし、そうは言っても、まわりは、あまり優秀とは言えない連中の中にあって、さらに劣等生である。

そうなると、成績は最悪であり、勉強など、傍からしたいと思っているわけでもなく、将来についても、まったく見えてこなかった。

 そのくせ、

「作曲をしたい」

 というのだから、他の人から見れば、

「どうせ無理だろう」

 ということになるだろう。

 しかし、実際に作曲を始めると、不思議なことに、成績も上がってきた。ちあき曰く、

「今まで分からなかったものが、分かる気がするんだ。そして、どうしてわからなかったのか? ということが分からなくなるって感じなのよ」

 と自分でも、よく分かっていないという感じだった。

 作曲というように、

「何かを創作しよう」

 という考えは、それまで後ろ向き、

「どうせ私になんか」

 という捻くれた思いを、払拭してくれたのかも知れない。

 それを思うと、今まで思ってきた、

「勉強なんかできない」

 という、

「否定から入る」

 という感覚が、おかしかったということに気づいたのだ。

「そうか、自分は何でも、否定から入るというくせがあったんだ」

 と考えたことで、勉強も作曲もうまくいくようになったのかも知れない。

 つまり、最初からマイナスだったのだ。

 考え方には、加算法と、減算法というものがある。

 加算法は、ゼロに近いものから、どんどん積み重ねていって、次第に、形を作っていくもので、減算法は、テストなどの考え方だといってもいいのだろうが、

「最初に百があって、間違えれば、点数がそこから引かれていく」

 という考えだ。

 これは、元々が百点で設定されているのだから、ゼロから正解を積み重ねていっても、結果は同じである。

 しかし、結果が同じだといってもプロセスが違うのだから、当然違う考え方だといってもいいだろう。

 減算法などは、相手を攻める時などに用いられる考えだ。

 たとえば、

「将棋で、一番隙のない布陣というのは、どういう布陣なのか、分かるかい?」

 と言われ、

「分かりません」

 と答えると、

「最初に並べた布陣なんだよ」

 という答えが返ってくるのだ。

 これはどういうことかというと、最初に並べた布陣が隙がないわけなので、その布陣を動かさないと勝負にならない。攻めるということは、防御をほどいていくわけなので、相手に攻め込まれる前に、いかにこちらが攻め込むか? という勝負である。

 つまり、

「攻撃こそ最大の防御」

 という言葉があるが、逆の真なりで、

「防御あっての攻撃だということは、今の言葉の、一番隙のない布陣が、一番最初に並べた布陣だということが証明しているではないか?」

 それを考えると、

 まずは、防御を完璧にしておいて、そこからいかに攻めるかということが問題になってくる。

 城を攻める時に、攻め手を、

「攻城」

 といい、攻められて、守る方を、

「籠城」

 という。

 籠城というと、まわりを囲まれていることから、補給路はほとんどないといってもいい。それでも、籠城を選ぶというのは、

「攻める方も、かなり難しい」

 ということだ。

 戦国時代などで言われていたこととして、

「攻城戦には、籠城戦の三倍の兵力が必要だ」

 ということであった。

 守る方には地の利もあれば、城の中に。いろいろな罠を仕掛けることもできる。

 攻める方とて、兵力があればいいというものではない。下手に兵が多ければ、狭いところに誘い込まれて身動きが取れず、まわりから、集中砲火を受けて、全滅するということだって普通にある。

 それほど、城の建設には注意が図られていて、

「いかに、敵の攻勢を防ぐか?」

 ということだけを考えて作られている。

 心理的に、敵に対して、錯覚を与えたり、近づいているはずなのに、遠ざかっているかのように見せかけるなどして、先に進めなくするという方法もあったりする。

 特に天守閣などというものは、その心理トリックの罠に使われることも多く、そういうことは、軍師であったり、城の縄張りを築くことが天才的にうまい人がいることから成立しているのだった。

 そんな攻城や、籠城において、一緒にできることは競技や戦争ではできないことで、これはある意味会話とも似ているといえよう。

 よく、

「会話のキャッチボール」

 という言葉を聴くことがある。

 人に話をする時、自分の話をする場合も、相手がちゃんと聞いてくれるかということを意識しておかないと、こっちが考えているほど、相手は聞いてくれていないということになるだろう。

 つまり、相手とのキャッチボールは、

「ひょっとすると、もう一人の自分に話掛けるのと、同じなのかも知れない」

 といえるのではないだろうか?

 それが二重人格の自分なのか、それとも、鬱状態の時の躁状態のように、正反対の性格の自分なのだろうか、ただ、どちらも、普段は表に出てくるものではない。

 自分に話しかける時、相手を、自分だと思って話しかけて、うまくいくだろうか?

 普段から、

「自分に言い聞かせるつもりで」

 とかいう人がいるが、

「本当に、自分に話しかけるなどということはできるのだろうか?」

 ということを考えてしまう。

「自分に話しかけることもできないくせに、人に話しかけることなど、できるのだろうか?」

 と思うと、

「いやいや、できるわけないだろう」

 と、どこかから聞こえてくるのを感じる。

 それこそ、もう一人の自分が、その自分に話しかけることができない自分をあざ笑っているのだ。

 昔の無線機を扱ったことがある人には分かるかも知れない。

 昔はタクシーなどに乗っていると、本部から無線が入ってきたりして、それにマイクで応答していたりした。

 さすがに普段は、そういう光景を見ることはできなくなったが、趣味として、

「アマチュア無線」

 通称、

「ハム」

 というものをやっている人には、馴染みのあることだろう。

 周波数を合わせて、チューニングし、相手と会話ができるところまで持ってくる。

 実際に、アマチュア無線は、明彦が一時期趣味でやっていた。

 明彦は、中学に入って勉強ができるようになると、いろいろなことに興味を示し始め、最初は、

「アマチュア無線の機械が高いから、自分はしないだろう」

 といっていたのだが、どうやら、おじさんという人が元々アマチュア無線をやっていて、今は別のことに趣味を持ってきたことで、機械がいらなくなった。

「明彦君、君が免許を取ったら、これそのままプレゼントするよ」

 ということだったので、明彦は、勉強し、免許を取った。

 それにより、機械を進呈されることとなり、晴れて、

「アマチュア無線を趣味」

 として、できるようになったのだ。

 やり始めると結構楽しいようで、一日数時間でも、机から離れることはないようだ。

 一度、明彦の部屋に行って、隣で見ていたことがあった。

 これが他の人だったら、すぐに飽きるのだろうが、なぜか明彦と一緒にいると、飽きるということはなかった。

 明彦と一緒にいると、飽きがこないというのは、小学生の頃からで、今から思えば、よく明彦の後ろをついていって、明彦がすることを、ただ後ろから見ていたことが多かった。

 実際に明彦は子供の頃は勉強もできず、

「面白くない人間なんだろうな」

 と思っていると、それがなんと、結構一緒にいて楽しいではないか。

 それを覚えているので、

「明彦が何かを始めるというと、それだけで、ワクワクしてくる自分がいる」

 ということを感じていた。

 明彦と自分が中学に入ると、今までの成績の立場が逆転したことで、何かバツの悪いものが、ちあきの方にあり、話しかけることができなくなっていたのだ。

 そんなアマチュア無線や、タクシー無線などを思い出していると、スピーカーからは、

「ガーガー」

 という音が、ザラザラした音に感じさせ、そこに相手の声とともに、高周波の、

「キーン」

 という音が混ざっている。

「まるで、白黒放送のテレビを見ているようだ」

 と感じた。

 これも、昔の映像が好きなおじさんが、有料放送で見ていた映画に、白黒時代の時代劇が出ていた。

 知らなかったことだが、昔の時代劇には、刃と刃が当たった時に聞こえてくる、

「カキーン」

 という音や、人間が斬られる時の、

「ブシュ」

 という音などはまったくない。

 刃が重なった時も、まるで、竹刀同士が当たった時のような、

「カツーン」

 という音が聞こえるくらいで、聴いていると、まったく迫力は感じない。

 人が斬られる時も、まったくの無音で、音がしない中での、

「うわー」

 という、斬られた人が、叫んで、倒れるだけだ。

 効果音がないとここまで大げさに殺陣シーンが見られるとは思ってもみなかった。

 いくら人間が大げさでも、実際に斬られた人が、音もなく倒れていくのは、どう考えても不自然で、迫力に欠けるといってもいいだろう。

「では、実際に、昔の斬り合いのシーンはどうだったのだろう?」

 効果音の通りだとすれば、刀が重なった時に、火花が散ってもいいくらいだが、それがない。白黒映画の時のは、静かすぎるのだが、今の時代劇の今度は大げさすぎる。

「帯に短したすきに長し」

 というのは、まさにこのことだといっておいいだろう。

 人と人が斬り合うというのがどういうことなのか、実際に戦闘シーンを見たことはない。

 時代劇のようあシーンが本当に、江戸時代にあったのかどうかも、怪しい気がする。

 時代劇というと、パターンとして、

「悪代官と、地元の大口商人が結託し、誰か庶民を騙してみたり、あるいは、禁制のモノを密輸しようとしたり、とにかく、いろいろなことをして、私腹を肥やしている」

 というのがパターンであり、そこに、奉行や、将軍が、街に出て、遊び人に化けることで、町内を偵察し、悪を懲らしめるというものだ。

 そもそも、奉行や、将軍が、勝手に城内から出て、庶民の街を出歩くなど、普通ならありえない。

 だいたい、そんなことができるような世の中であれば、それ自体が間違いではないだろうか?

 あくまでも、時代劇という庶民を楽しくするための娯楽としてのフィクションである。

 それを考えると、

「時代小説であったり、時代劇というのは、時代考証であったり、史実に関してはまったく無視してもいい」

 ということになるのだろう。

 将軍様と言えば、今では総理大臣のようなものだ。その人物が、取り巻きや、護衛の人を騙して、ホイホイと、今でいうところの、渋谷や新宿に、アロハシャツを着たチンピラ風に化けて、そこで大暴れして、警察がくると、

「こりゃあ、ヤバい」

 ということで、とんずらするのだ。

 その時に、犯人だけが捕まって、警察の取り調べが行われて、いよいよ起訴され、裁判にかけられると、そこにいきなり、総理大臣が裁判所に現れるわけだ。

 しかも、最高裁判所ではなく、一審なので、地方裁判所となるのではないか?

 そんなところに、別に傍聴人も関係者くらいという、ニュースにもならない裁判で、そもそも裁判沙汰になるはずのないことを裁判にして、そこに、総理大臣が現れ、

「俺も顔を見忘れたか?」

 といって、被告人たちが、

「はっ」

 といって思い出し、別に審議も行うことなく、総理大臣の顔だけで、被告は有罪となるのだ。

 下手をすれば、検察官の求刑よりも重たい刑になることだろう。それが、

「時代劇」

 というフィクションなのだ。

 まあ、時代劇というのは、あまりにも大げさなもので、誰が最初に映像化したのか、時代が違うというのもあるだろうが、

「ああ、昔はそんな感じだったのか?」

 という思いであったり、

「昔だからこそ、ありえることだ」

 と考えるだろう。

 時代劇のテーマというのは、一貫しての、

「勧善懲悪」

 である、

 日本人というのは、昔から、

「判官びいき」

 などという言葉があるように、

「弱い者の味方」

 という意識が強い。

 ただ、本当の判官びいきというのは、若干意味が違っているのではないだろうか?

 というのは、判官びいきの判官というのは、

「源九郎義経」

 のことであり、決して彼は弱いわけではない。

 しかし、孤立してしまったことで、兄の鎌倉から遠ざけられ、多勢で向かってくる敵に対して、どうすることもできなくなった。

 彼は戦の天才と言われているが、あくまでも、

「兵を率いて、戦をさせると、その作戦面が奇抜で、それがことごとく成功した」

 というところで、英雄視されるのだ。

 しかも、集団の中にいれば、いくら一軍の将であっても、組織の中の一人であることには変わりない。しかし、彼は自分の考えを押し通すところがあり、わがままともみられるところがあるが、それでも成功するところに、日本人は共感するのである。

 戦争というのは、兵が多いから勝てるというのではない。兵が多ければ、その統制が難しい。奇抜な作戦で、まわりは困惑した中ででも、きちんとまとめて、勝利に導くのだから、少なくとも、

「統制の取れた軍を動かすことに長けていたのは間違いないだろう」

 ということは、それだけ、まわりから信頼を受けていないとできないことで、わがままでは、統制が取れるわけもない。

 それこそ、時代劇やドラマなどでは、義経というと、わがままで、

「源氏の御曹司」

 という立場が前面に出ているかのようであった。

 そんな九郎義経が、平泉では、味方に裏切られ、自害に追い込まれた。さらに、同行していた静御前を、吉野の山から、京に返すため、つけた従者が、簡単に裏切り、無一文で、静を放り出したというではないか。

 彼に従っている兵であれば、義経に忠誠を誓うのだろうが、一度落ちぶれてしまうと、鎌倉方が怖かったり、それまでの恩を忘れてしまったかのようになったりと、最終的などころで、

「皆、我が身が可愛いんだ」

 ということになるだろう。

 判官びいきというのは、義経の、

「どこか結界のようなものがあり、命を捨ててでも、義経に忠誠を誓う人もいれば、最期は自分が可愛いとして、平気で裏切る人もいる。これは義経に限ったことではあるまいが、彼ほどの波乱万丈な人生において、このような極端な例があるということで、日本人の心を打つ何かがあり、判官びいきと言われているのだろう」

 といえるのではないだろうか?

 だから、決して、判官びいきというのは、

「弱い者に味方をする」

 というだけの単純なものではないのだ。

 そのような感情があるから、時代劇に嵌る人が多いのだろう。

 表にすべて出してはいけない感情を持ち続けていると、時代劇を見ていても、

「そんな単純なものではないのではないか?」

 という考えも出てきて。

「本当に判官びいきと時代劇が単純な結びつきだと思って見てもいいのだろうか?」

 と考えるようになったのだ。

 そういう意味で、頼朝、義経の兄弟の物語も、

「勧善懲悪」

 という問題から見れば、どちらが善で、どちらが悪かということを考えれば、義経が亡んでしまうのは、理不尽でしかない。

 勧善懲悪の観点からいけば、数々の義経伝説が、

「せめて、義経を英雄として語り継ごう」

 という意図が現れている。

 本当の真相はどうだったのかは定かではないが。いろいろな物語に描かれている二人の葛藤としては、

「源平合戦の中、義経は、戦の天才の名をほしいままにするような男で、まずは、都で暴れまわっていると言われている、同じ源氏の義仲軍を、琵琶湖のほとりで滅ぼしておいて、いよいよ平気積塔に乗り出す。平家は自分たちの都である、神戸の福原に陣を敷いていて、前を海、そして、左右の大阪方面からと、明石方面から攻められないように、陣地を設け、後ろは、六甲山の急こう配に守られた、要塞であった。そこを義経は、鹿なら走り下りると言われた鵯越を、馬で降りて見せるという強行軍で、平家を海に追いやった。そして、屋島の合戦を経て、壇ノ浦にて、平家を滅亡させるのだ。その時も、こぎ手を狙うという、当時の戦ではタブーであったことを平気でやってのけるという望郷もあった、つまり、成功したからよかったものの、失敗していれば、勝てば何をやってもいいというやり方に、非難ごうごうだったであろう。それを頼朝は見抜いて、叱責もあったことだろう」

 これが、戦においての九郎義経であった。

 しかし、頼朝を怒らせたのは、

「頼朝の許しを得ず、勝手に朝廷から官位をもらってはいけない」

 という命令があった。

 以前から、坂東武者は、都の官位に憧れていて、もらえるものなら何でもいいという状態だったので、朝廷とは別の坂東の政権をつくろうとした頼朝にとって、朝廷からの勝手な官位の譲渡は、

「鎌倉体制を揺るがしかねない」

 ということで、固く禁じていたのだ。

 それがなければ、義経が官位を貰うのを許したかも知れないが、ただ、本当にそうだろうか?

 自分を差し置いて、法皇に歩み寄った、義経憎しも手伝って、

「勝手に検非違使を受けた九郎を、鎌倉に入れてはならない」

 ということで、腰越から、義経を許さないまま、京に戻らせた、

 それでも、義経が自分にとって代わろうとするのを阻止するため、朝廷から、義経追討の宣旨をもらった。これで義経は朝敵となり、都にいるわけにもいかず、かつての合おだてられた場所である、奥州平泉の、藤原氏を頼っていくのであった。

 しかし、当主が死んだことで、息子たちが後を継いだが、そのうちの一人が頼朝の策に引っかかり、義経を裏切った、そして、義経を滅亡させたが、今度は義経をかくまったということで、鎌倉から攻撃を受け、あっけなく滅びることになった。

「もし、その時、義経が生きていたら、そう簡単に、頼朝軍に滅ぼされることもなかったかも知れない」

 義経、頼朝の兄弟直接対決が見れたかも知れないともいえるだろう。

 これが、義経悲劇の物語であるが、義経と弁慶に関しては、かなりの伝説が二人には残っている。

 まずは、牛若丸時代の、京の五条大橋における、弁慶との初対面で、牛若丸に対して、生涯の主従の契りを結ぶことになる。

 そして、遮那王時代の、義経が天狗に剣術を習うという伝説。そして、戦においての、鵯越、屋島、壇ノ浦と続く、奇襲による連戦連勝の伝説。八艘飛び伝説というのも、壇ノ浦であった。

 さらに、逃亡の際の、安宅関における、歌舞伎で有名な、

「勧進帳を広げて、それを読み上げる弁慶」

 というシーン。

 さらに、いざ死が迫った時の、矢が身体中に刺さっても、ぐらつくことのなかったという、

「弁慶の仁王立ち」

 というシーン。

 とにかく、歌舞伎などで演じられるシーンが、義経、弁慶の間では、目白押しだったのだ。

 そんな伝説が、今から800年前という時代に繰り広げられたのだ。武士の始まりと言われる時代のことである。

 それも、やはり、義経を理不尽さはあっても、

「勧善懲悪」

 として祀り上げたいと考える人が多いということであろう。

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