第2話 二重人格と躁鬱症
ちあきは、高校では、あまり友達を作らなかった。
同じ部活の人たちは、あくまでも、
「同じ目標を持った、同志」
であり友達とは違った。
逆に彼女たちを友達と思うと、今度は、同志ではなくなってしまうような気がして、友達になることを、自分から否定する気分だった。
それは、他の部員も同じであり、決して自分から友達になろうという人はいなかった。
LINEで繋がってはいたが、それはあくまでも、業務連絡という程度にしか使っておらず、何かの相談などはありえない。
そもそも、何かを相談したいと思うとすれば、今のところは、
「作曲活動について」
ということになり、一番相談しにくいのが、彼女たちだといっても、過言ではないだろう。
ライバルというわけではないが、同じ意味でも、
「好敵手」
と言った方が、何かしっくりくる気がする。
好敵手というと、そこには、
「嫉妬ややっかみがないから」
ということであるが、実際に、自分が強気になっている時は、
「嫉妬ややっかみがあるから、自分も、頑張れるんだ」
といえるのだった。
人間は、精神的に、浮き沈みがあり、それが極端だと、躁鬱症になってしまうのだろう。言い方の問題ではあるが、躁鬱症というと、あまりいいイメージがない病気だということになるのだろうが、果たしてそうだろうか?
いつも、
「可もなく不可もなく」
という状態で、嫉妬ややっかみもない中で、どこに、自分の探求心や、好奇心を求めればいいというのか、
「嫉妬ややっかみを怖がっていてが、好奇心や探求心を得ることはできないのではないだろうか?」
と感じるが、果たしてこの考えは間違いなのだろうか?
ちあきは、中学時代から。自分のことを、
「躁鬱症なんじゃないか?」
と思っていた。
それは、急に寂しくなり、その寂しさがあっという間に、
「かなり前から、寂しかったような気がする」
という錯覚にも似た感覚になっていたからであって、その錯覚が、もっとリアルに感じられるようになったのが、
「嫉妬ややっかみを露骨に感じるようになったのを意識した時と、その嫉妬ややっかみを持つことが本当は、いいことなんだ」
と感じるようになったのを、交互に感じたからであった。
同じものでっても、かたや、自分が持っていることに、苛立ちや、焦りのようなものを感じる時、そのくせ、今度は、それらが、自分の中にあることを、まるで、
「必要悪」
であるかのような、正反対の感覚になることを、最初は、
「私って、どうかしてしまったのかしら?」
と感じたのだが、それを最初は、
「二重人格ではないか?」
と思ったのだ。
二重人格と聞いて最初に思い浮かべるのが、
「ジキルとハイド」
であった。
正反対の性格が、薬の影響で、定期的に普段は裏に籠っている悪しき性格が顔を出す。それが二重人格だというものだと思っていたのだ。
つまり、二重人格というのは、
「必ず、正反対の性格でないといけない」
と思っていたがそうではないだろう。
正反対の性格の方が、分かりやすいし、説明もしやすい。そういう、
「本人の都合」
から来ているものではないだろうか?
二重人格は、別に正反対の性格である必要などない。ただ、二重人格者のほとんどが、正反対の性格なのかも知れないとも思った。
「ジキルとハイド」
に関しては、話の内容から、正反対の人格でなければ話をしては繋がらないというものだろう。
だから、わざと、正反対の性格を出したのだが、これでは、まるで大どんでん返しというものを描いているということになる。
それ以外の二重人格も当然にあるものであり、ひょっとすると、あまりにも近い性格だから、分かっていても、一つの性格の派生型だと思うことで、一見、二重人格だと思えないと言えるのではないだろうか?
二重人格というのは、あまりいい表現で使われることはない、それはやはり、
「ジキルとハイド」
という物語が、二重人格の代表作だということだろう。
だから、二重人格というと、
「正反対の性格が、一つの身体に宿っているものだ」
ということの証明なのかも知れない。
だが、果たしてそうなのだろうか?
二重人格というものが、表に出る性格だとすると、同じようにまったく正反対の性格を自分の中で籠らせてしまうのが、
「躁鬱症」
ということになるのだろう。
そういう意味で、
「躁鬱症と、二重人格というのは、同じような意味ではないか?」
と考える人もいるかの知れないが、ここでいう、
「表に向けて」
あるいは、
「内に向けて」
という意味で、まったく違っているのだ。
というのも、表に向けてというのは、
「自分を目立たせたいという自分が出ている」
ということであり、内に向けてというのは、今度は、
「なるべく、人に知られたくない」
という部分の自分が出てきているのである。
だから、目立たせたいと思っている自分が表に出ていて、まわりに知らせようとしていることを、裏に隠れている自分は分かっていないだろうし、逆に、今度は、内に向けて考えているなど、目立たせようと思っている人が考えるようなことではないのではないだろうか?
それを思うと、
「二重人格と、躁鬱症は、同じように解釈されるかも知れないが、そもそも表に出ている時で、違っているのだ」
と考えられるのであり、これも当たり前のことでいまさらなのだろうが、
「片方が表に出ている時は、片方は絶対に隠れているものである」
といえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、世の中というものが、
「いかに勘違いの巣窟であるか?」
ということである。
自分のことですら分からないのだ。
「いや、逆にいえば、自分のことだから分からない」
といえるのではないだろうか?
それが、躁鬱症の正体であり、二重人格の正体なのだ。
案外、同じところから派生しているものであり、
「誰もが、躁鬱状態や、二重人格性というものを隠し持っているのではないだろうか?」
といえるのであろうと思うのだ。
躁鬱症というのは、一定期間は、表に出ているが、
「自分のことを二重人格ではないか?」
と考える発想は、突発的なものなのかも知れない。
そんな中で、ちあきは、作曲サークルで、いくつかの曲を作曲し、作曲コンクールに応募したりした。
とはいえ、まだ高校生ということもあり、それほど先のことを考えているわけでもない、そこが、控えめに見られる、
「ちあきらしいところだ」
と言われるゆえんなのだろうが、
「私は別にプロになろうとまでは思っていない」
と口では言っているが、もちろん、
「あわやくば」
という気持ちがあるのも、否定できない。
そんなものは、ちあきに限ったことではなく、
「プロになれるわけはない」
と思っている人の中には、彼女のように、
「プロになってしまうと、自由に作曲を楽しむことができなくなるだろうな」
という思いを持っている人は多いだろう。
お金をもらって、生業にするわけだから、一番は、
「発注者の要望」
である。
相手の求めているものと違うものを作っても、それはただの駄作でしかなく、自己満足でしかない。
そんなものに、相手が金を出すわけもないし、それを押し通すほどの、昭和時代の、いわゆる、
「匠」
と言われるような、頑固な気質があるわけでもない。
そもそも、今はそんな時代ではないのだ。金を貰う以上、相手の要望に応えるのが、一番の義務である。それができずに、プロを名乗る資格はないというものだろう。
とはいえ、まだまだそんな域に達しているわけでもない。
自分がどの位置にいるのかということすら分からない。
最初なんだから、まだまだだということは分かっている。しかし、これは面白いもので、まだまだだと思っている時期ほど、夢を見て楽しむものだ。
先がまったく見えていないと、
「ひょっとすると、気付かない間に、自分がゴール手前まで来ていて、ゴールのテープを切ると、そこは、満点の極楽が待っているに違いないと思うのだろう」
と感じる、
それが、少し慣れてくると、少しだけは進むだろう、そして、最初は、
「順調に進んでいる」
と思っている間は、精神的にも穏やかなのだが、そのうちに、
「ここまで来たんだから、どれくらい来たんだろう?」
と思って後ろを見ると、
「なんだ、ほとんど来てないじゃないか?」
と思い、失望してしまうかも知れない。
そんな中、もう一度前を向いて歩き出そうとするのだが、今まで前を見て歩いていたはずの、その道が分からなくなるのだ。
これは、何とも感じることのはずなのに、その時々で違っているのだ。
前を見て、
「道がなくなっている」
と感じる時、そして、逆に、道が放射状に、無数に広がっていて、
「自分が進むべき道が分からなくなった」
と感じる時、さまざまだということだ。
つまり、自分の目標というものが、
「見えている時と、見えない時で、その心境の違いも、さまざまだ」
と感じるというものだった。
目標が見えている時でも、
「どこか、急に心配になって、一旦心配になると、それまでとは打って変わって、ロクなことを考えないようになるのが、躁状態から鬱に変わるときだろう」
と考えていた。
躁鬱症の、躁状態から鬱に変わる時というのは、何かきっかけがなければ、気付くことはない。
逆に、鬱状態から躁状態になる時というのは、予感めいたものがあり、何もなくとも分かるというもので、そういう時に限って、何もないというものなのではないだろうか?
そんな躁状態と鬱状態は、別に二重人格というわけではないので、躁状態の時に、鬱状態の意識というのは残っているのだ。もちろん、鬱状態の時も躁状態の時の意識は残っているのだが、それは、
「記憶」
という箱の中にあるものではないようなのだ。
記憶という箱から表に出すことで、出てきた記憶を活性化させ、頭の中で理解できるようにするために、意識として復活させることが、
「思い出す」
ということなのだろう。
基本的に、普通に記憶したものは、記憶の箱から表に出した時、意識が働いて、思い出すことができるというものだ。
それが、躁鬱状態の時には、スムーズに行くのであって、二重人格と思っている人には、その理屈が通用しないから、
「思い出す」
ということができないから、
「もう一つの人格が宿っているのではないか?」
と考えられるのであった。
それを考えると、やはり、
「二重人格と、躁鬱症というのは、そもそも、まったく違っているものであり、そう思うと、二重人格者に躁鬱症が存在したり、躁鬱症だと思っている人が、周りから見て、二重人格だということになるのか?」
と、考えると、ちあきは、
「二重人格と、躁鬱症は、一人の人間に両方存在することはありえない」
と言えるのではないかとおもうのだった。
自分が二重人格であるということが分かったとすると、躁鬱状態に陥った時、どう解釈すればいいというのだろう?
逆に、二重人格は、
「もう一人の自分が表に出ている時は、潜んでいるのだから、躁鬱というものを、考える必要はない」
といえるだろう。
もし自分の中に躁鬱があったとしても、その表裏は、自分ともう一人の自分のそれぞれで受け持っているということとになり、
「どちらが表なんだろう?」
と考えたあとしても、それはナンセンスな発想であり、
「どちらか、表に対して強く思った方が、表ではないか」
といえるだろう
表に出たいと思っている方は、明らかに躁状態の方であり、
「躁状態が、いい状態で、鬱状態は悪い状態だ」
といえるのも、そういうことなのだろう。
躁鬱状態というものを、
「いい悪い」
という判断で区別してしまうのは、危険を伴う。
そう思うと、二重人格と躁鬱症は、
「マイナスにマイナスを掛け合わせて、プラスになる」
という考えを含んでいるのかも知れない。
数学における、二次関数に、
「解が、プラスマイナスの二つがあるように、マイナスにマイナスを掛けてプラスになるという発想は、解というものが、無数存在する数字の世界もあり得るのではないか?」
と考えられるのだった。
そういう意味で、
「いい悪いというのを、プラスマイナスだと考えると、いいことと悪いこと、必ず二つしかないものから、一つを選ぶという発想では、見いだせない結論が待っているということではないだろうか?」
と考えられるのだった。
それは、世の中にあるすべての正対する二つのことに言えることだ。
竹を割ったように、すべてのことがうまくいくのであれば、それに超したことはないが、割った竹からも、何が出てくるのか分からない。もし、それを二次元の発想だとするのであれば、
「発想の三次元」
が、思わぬ形で潜んでいるものなのかも知れない。
ちあきは、さすがに自分のことを、
「二重人格だ」
と思ったことはない。
もし二重人格であるとすれば、自分の知らないところで、自分のもう一つの性格を知っている人がいるということになるからだ。
確かに、まわりから、
「あんた、二重人格なんじゃないの?」
と言われたことはあるが、その内容を聞いてみると、自分に心当たりのあることばかりである。
ということは、
「二重人格などではなく、躁鬱症の方なんだろうな」
と感じるのだ。
二重人格というのは、いわゆる、
「鏡のない世界」
に閉じ込められたような感覚である、
自分というものが、実際にどういう者なのか分からない。そういうことをまわりの人がいうので、自分で自分を確かめたいと思うのに、自分を見るための媒体である、鏡のようなものが存在しないのだ。
「人間というのは、鏡を使わないと自分を見ることができない。それは他の動物にも言えるかとかも知れないが、他の動物は、本能で見ることができるのかも知れない。なぜなら、鏡というものを、自分を見るための道具だという意識を持っていないからに違いない」
ということである。
そういえば、以前、お父さんが好きで、昔の特撮を、有料チャンネルで見ていたのを思い出した。
お父さんが、まだ小学生になった頃だというので、理屈を理解して、見ていたものなのかもわからない。
しかも、
「お父さんが見ていたのは、再放送だったからな」
というが、最近のテレビで、再放送という概念もあまりない。
それこそ、この間の。
「世界的なパンデミック」
によって、番組制作ができなかった時に、苦肉の策で、過去の番組を流していたことくらいしか、ちあきには意識がなかったのだ。
その番組の正義のヒーローというのが、変身するのに、特徴があったという。
「この当時の正義のヒーローってね。変身するのに、特徴があったんだよ。いろいろなポーズがあってね、そのために、敵から変身を邪魔されるのがあったりしてね。この時のヒーローは、鏡がなければ変身できないという設定だったんだよ。まず、鏡の世界に入り込んで、そこから変身して飛び出すというようなね」
というではないか。
「じゃあ、鏡がなかったら変身できないということなのね? それって、相当な制限よね?」
と聞くと、
「そうなんだよ。でも、その代わり、光を発するものなら何でもいいって感じでもあるんだ。車のヘッドライトであったり、水たまりであったり、ガラスの破片などで、変身したものだよ」
という。
「要するに、異次元の世界に入れるのであれば、どこでもいいということなのかしら?」
と、ちあきがいうと、
「ああ、そうだね。異次元の世界が、そのヒーローの本当の世界なのかも知れない。ということは、お父さんは、子供心に、異次元の世界には、ヒーローのような人間よりの優れたヒーローがいっぱいいて、その人たちは、人間よりもたくさんいるだろうってね。特撮ドラマでは、敵のインベーダーも、鏡の世界に入れるようだったけど、基本的に、光に弱いので、少ししか、向こうの世界にいられないということだった。鏡の中の世界って、本当にすごいんだろうね。ひょっとすると、お父さんとソックリな人が、向こうにいるかも知れない」
と父がいうので、
「だから、向こうの世界には、こちらの世界よりもたくさんいるって言ったのね?」
というと、
「ああ、そうだよ。でも、向こうからきたヒーローも実はこちらの世界の誰かかも知れないしね。いろいろと想像させる特撮ドラマだったよ」
というではないか。
ちあきは、その時の父親との会話を思い出していた。
「そうか、二重人格というのは、もう一人の自分が潜んでいるのを、まわりには分かるが自分では分からないような仕掛けになっているんだ。それはまるで、お父さんから聞かされた鏡を使って変身する時のインベーダーのように、変身しないように、邪魔する勢力は、表にではなく、自分の中にあるのかも知れない」
と思うと、さらに、飛躍して、
「ということは、もう一人、変身を邪魔しようとするもう一人が潜んでいるのかも知れない」
と考えた。
「ということは、人間が多重人格だということになれば、自分の中には必ず複数誰かがいるということになるのだろうか?」
とも、考えられるのだった。
「そういえば、自分の中で、何か、自分の考えていることを邪魔しようとしている何かがいるような気がしていて、それを気のせいだというように感じることがあったような気がするんだよな」
と、感覚を覚えたことがあったのを思い出していた。
今まで、
「私は二重人格ではない」
という強い思い込みがあった。そのために、
「じゃあ、この感覚は何なんだろう?」
と思った時、そこにあるのが、
「ちょうど、躁鬱症という感覚だったのだ」
ということである。
躁鬱症と、二重人格であれば、どちらがマシかと言われると、
「躁鬱症だ」
と答えるだろう。
そうやって、躁鬱症であるということに逃げを求めると、そこには、少なくとも自分を納得させる、
「言い訳」
が、必要になってくるのだ。
その言い訳が、今回の鏡だった。
鏡がないので、もう一人の自分を見つけることができない。ただ、それでも、皆は、もう一人自分がいるような話をする。何とか、もう一人の自分を、鏡なしでも、意識できるようにするには、
「鬱状態の自分を知る必要がある」
ということになる。
そんな鬱状態の自分が、ひょっとすると、もう一人の自分の存在を、人から聞かされたことで、気持ちが揺らいでくるというそんな感覚だったのだ。
ただ、油断してしまったのか、これも昔からのくせで、
「一度悪い方に考えると、どんどん抑えが利かなくなってしまい、果てしなく、落ち込んでしまう」
というものだった。
それこそが、鬱状態への入り口ではないか?
そう思うと、以前は、落ち込んだ状態から、立ち直る時は分かる気がしていたのに、急に気持ちが落ち込む時は分からないのに、どうしてなのかと思っていたが、実際には分かっていたのだ。あまりにも、落ち込むスピードが速すぎて、自分の意識が納得しないままに、落ち込みを支えられない精神状態に陥るのだ。
それが、躁状態から鬱状態になる時の感覚で、本当は最初から分かっていたのだ。
「スピードに追い付きさえすれば、自分を納得させることができる」
この思いが、ひいては、
「自分が二重人格ではない」
ということを、自分自身で納得させることができるという、一つの技だった。
自分が二重人格ではないということが、自分にとって、
「本当によかった」
といえるのだろうか?
そんなことを考えていると、まだまだ、他にも、いろいろ考えたことがあったのだが、記憶として残っていないことから、意識に戻すことができず、
「再生不可能」
な状態になっているのではないだろうか?
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