自分の道の葛藤
森本 晃次
第1話 少女の夢
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年8月時点のものです。昔の特撮のようなものも出てきますが、想像にお任せします。
今年、18歳の栗原ちあきは、進路について悩んでいた。
音楽が好きなので、音楽学校に通いたいという気持ちは強かった。しかし、音楽学校に通ったとして、
「将来何になるか?」
ということであったが、
「どこかの学校の音楽の先生にでもなるというのか?」
ということしか、今のところ、具体的には思い浮かばない。
音楽をやりたいというのは、音楽を作ることが好きなので、作曲のようなことができればいいのだろうが、実際に、作曲ができるほど、楽器の演奏がうまいわけでも、真剣にそう思って、高校三年生になったわけでもない。
だが、なかなか独学では難しい。少なくとも、ピアノかギターくらいできなければ、難しいかも知れない。最近では、いろいろなアプリやツールもあり、昔ほどハードルが高いわけではないだろうが、それでも、趣味として曲を作れればいいと思っていても、さすがに、楽器ができないのは致命的だ。
しかも、楽器ができないということは、楽譜が読めるわけでもない。
小学生の頃、大体は、ハーモニカから入り、リコーダーというのが、普通の音楽の授業ではないだろうか?
ちあきは、ハーモニカは何とかなったが、リコーダーあたりで挫折してしまった。正直いうと、小柄だったちあきは、指の長さが、極端といってもいいくらい短かったのだ。
だから、リコーダーを引く時、指を開くと痛くてたまらないということで、音楽を嫌いになったのだ。
だから、楽譜を習う時点では、すでに、音楽の授業に興味はなく、
「早く終わってくれ」
と、苦痛な時間を過ごしていた。
それでも、不思議なもので、今は小柄というわけでもなく、スラリとした体形で、どちらかというと、高身長になってきたこともあってか、指もおかげさまで、人並みになってきた。
いや、皆に言わせると、
「ちあきのような指を、白魚のような指っていうんでしょうね。実に羨ましいわ」
ということのようだ。
もちろん、幼馴染であっても、よほど親しい人でもなければ、この時の、ちあきの悩みを知っている人はいないだろう。だから、高校の同級生は、何も知らずに、好き勝手言っているのだ」
と考えていた、
その顔を見ながら、苦笑いしかできない自分の気持ちなんか、皆分かってくれたりはしないのだろう。
そんなちあきの気持ちをもし、分かってくれている人がいるとすれば、杉田君だけであろう。
杉田君――
彼は、幼稚園の頃からいつも一緒にいた幼馴染で、ちあきから言わせると、
「腐れ縁よ」
ということであったが、考えてみれば、一番ずっと一緒にいたのは、その杉田君だけだったのだ。
「杉田明彦」
これが、杉田の本名だが、
「明彦君」
という呼び方をしたのは、幼稚園の時だけだった。
小学生の頃から、気が付けばそばいいた相手だったが、露骨にいつも一緒にいるわけではないので、よほど注意して見ていなければ、二人が幼馴染だなどと、知っている人はいないに違いない。
幼馴染の杉田君とは、中学校までは、同じ学校で、高校になって変わってしまった。なぜなら、ちあきが、女子高に通うことになったので、どんなにあがいても、杉田君と一緒に通うことはできなかったのだ。
だが、二人ともそれでいいと思っていた。ちあきの方は、
「腐れ縁が取れただけ」
と普段から言っていることと変わりはないが、杉田君の方は、
「まあ、少し、離れて見てみるのもいいか?」
と、口では腐れ縁と言いがらも、実際には、ちあきに比べれば、意識をしていたのだ。
ある意味、
「これが、男女の違いというものではないか?」
と、男女間に対して、普段から考えている人は、そう思うことだろう。
ただ、これはある意味、女の子の方が、男性を意識していることの現れのようで、二人のことを昔から知っている人がいるとすれば、その人には分かっていて。
「なんて、微笑ましいカップルなんだろう?」
と感じるに違いない。
ただ、逆にもどかしさもあるだろう。それぞれに焦らしているようで、青春マンガや小説に出てきそうな設定だ。
しかし、これって意外と、
「淡い初恋」
に繋がってしまいそうで、お互いに好きだという意識は、無意識にかも知れないが、あるのだとすれば、下手をすると、お互いにその気持ちにきづかないまま、終わってしまうということになるかも知れない。
そう、
「まだ始まってもいないのに、終わってしまった」
ということである。
最近のテレビドラマは、昔と違って、マンガが原作のものがほとんどだ。
あまりマンガというものを読んでこなかった、ちあきだったが、中学に入って、テレビドラマを見るようになってから、逆に、原作のマンガを見るようになったという、他の人とは、逆のパターンだった。
その時に読んだマンガが、ちあきにとって、結構胸に残った。
もちろん、最初にドラマを見ているので、内容は分かっていたが、後から原作を読むと、結構楽しめるものだった。
だが、これは、ドラマを見始めてから気づいたことであったが、
「最初に原作を見て、それから映像化された、特に実写のドラマのようなものを見ると、どうしても、面白くない」
と感じるのだった。
何が面白くないのか、正直分からないが、
「マンガの世界は、二次元という、我々三次元の世界との間に何か結界のようなものがあるに違いない」
と思ったのだ。
だが、その頃からだろうか?
「原作であっても原作でなくても、何か本を読むというのは、想像力が膨らんで楽しいものだ」
と思うようになった。
だから、その時代には、小説を原作にしたドラマや映画というのは、ほとんど見なくなった。
そういう意味でも、映像作品がないだけに、小説を読むということは、
「想像力に縛りはない」
ということになり、
「実に楽しいものだ」
と感じるようになっていた。
それまで、図書館も、本屋も、雰囲気は好きだったが、立ち寄ることのなかったところに、高校になってから行くことが多くなったのだ。
そういう意味で、美術館にもいくようになった。あの、耳がツーンとくるような、無駄にだだっ広い空間が、何とも言えず、好きだったのだ。
そのために耳鳴りを起こすのだが、それはそれで嫌いではなかった。
「絵にしても、小説にしても、マンガにしても、文化という芸術に変わりはないんだろうな」
と感じたのであった。
いずれは、小説を読むことになるのだが、今回のドラマの原作はマンガだった。
そのマンガというのは、主人公が、軽音楽部に所属していて、最初はクラシックなどを普通に演奏していたのっだが、その子は女の子で、しかも性格的に活発な子だったこともあって、
「クラシックばかりでは面白くないな」
と思っていたのだ。
なぜ、そんなことを考えるのか自分で分からなかったが、彼女は、自分に創作意欲があることに気づくと、
「そうか、曲を私は作りたいんだ」
と思ったのだ。
そうなると、さすがにクラシックを作曲するなど、できっこない。しかも、クラシックの曲を作ったとしても、それを誰が演奏してくれるというのか、高校の軽音楽部でできるはずもない。
そう考えると、
「クラシックではダメなんだ」
と思うようになった。
ただ、クラシックが嫌いだというわけではない。それに今まで軽音楽部に入る前も、ほとんどクラシックしか聴いてこなかった。それだけに、他の音楽をいまさら聴いたとしても、頭に入るだろうか?
そのあたりが気になっていたのだが、
ちょうど、街の楽器屋さんに立ち寄った時に流れていた音楽が、ちょうと、彼女の気持ちを揺さぶった。
時代としては、少し前のレトロな曲調なのだが、そんなことは他のジャンルの音楽を聴いたことのない、彼女に分かるはずもない。
そもそも、クラシック自体が、古い音楽ではないか。
といっても、
「古き良き時代」
の音楽である。
彼女は、さっそく、ちょうど家にあった電子ピアノで、いろいろな音を出してみた。
掃除の電子ピアノは、結構な能力があり、電子音によって、いろいろな楽器の音が出せるようになっていた。
時代背景からすれば、ちょうど、世紀末くらいだっただろうか?
彼女の生まれる前の時代設定で、きっと、
「作者が子供の頃の自分を想い出しながら、描いたマンガなのではないか?」
と感じたのだ。
そんな時代を知らないちあきは、自分でも感じていたのだが、知らない時代を自分なりに創造するのが好きだった。
自分が生まれるちょっと前の時代、歴史的には聞いたことがある。
ちょうど、パソコンやケイタイなどが、発展したころで、いわゆる、
「インターネット」
というものが普及してきた頃で、
「誰もが、表を歩きながら、ケイタイの画面を見ていた時期だった」
という話を聞いたものだ。
そんな頃を頭の中に思い浮かべてくると、ちょうど流れてきた曲が、バラードのような曲だった。
「どこかで聞いたことがあるような」
と思ったが、確かに、どこかレトロな感じがした。
それもそのはず、実はその曲は、カバー曲であり、元々は、昭和歌謡だったのだ。
ちょうどあの頃は、カバー曲を歌う人も結構いて、曲の感じは、現代風にアレンジしていたが、やはり、曲は昔のイメージだったのだ。
そのギャップがよかったのか、ちあきは、すっかり気に入ってしまい、店の人に、
「あの曲は?」
と聞くと、カバー曲だということまで教えてくれた。
「ありがとうございます」
といって、さっそく、家で音楽サイトから、ダウンロードしたのだった。
これだって、最近のことで、さっきの時代だったら、まだまだ、CDが主流で、街のあちこちに、CDショップが本屋と同じくらいに、あったものだ。
しかし、今は、CDショップどころか、本屋だって、街の大きな本屋くらいしか、なくなってきた。
「昔は、電車の駅前にある商店街に、必ず一軒はあったものだ」
という話であった。
CDショップで、CDを買い、本屋で作曲関係の本を買ってきて、実際に作曲してみた。その曲でデモテープを作成し、それを音楽プロデューサーに持っていくと、採用されるというウソのような話しだった。
このあたりが、マンガのマンガたるゆえんであり、さすがにドラマでは、そこは、
「コンクール入選」
という形になっていた。
そこで彼女が作曲家デビューをするという話であり、その後、その世界での葛藤や悩みを乗り越えていくという、日本人が好きそうなサクセスストーリーであった。
そんなものを中学時代に見てしまうと、
「私も作曲でもしてみたいな」
と思うのも無理はない。
かといって、
「プロのなりたい」
などというのは、考えられない。
さすがに、そんな甘い世界ではないと思っていたし、何か実績でもあれば、いいのだろう。
「コンクールがあれば、応募してみて、その結果、万が一にも入選でもすれば、これからも作曲をしてもいいんだというお墨付きをもらったというような感覚になることだろう」
と考えた。
ただ、このマンガは、ちあきにとって、人生の分岐点になりそうな気がして、仕方がなかった。
というのは、
「ものをつくる」
ということの楽しさを、まだ何も作っていない段階から教えられた。
いわゆる、
「目からうろこが落ちた」
という感覚にさせられたものだったということであろう。
ただ、さすがにマンガと現実世界では、実際にはそうもいかない。
ちあきも、マンガのように、本を買ってきて、作曲の勉強をしてみたが、さすがに一度挫折しただけあって、なかなかうまく理解できない。
中学時代だったこともあってか、なぜ、自分に作曲ができないのかということがよく分かっていなかった。
なかなか作曲ができないでいたが、ちあきは諦めることはなかった。
これだけ本を読んだりして勉強していたのに、できないと分かると、普通だったら諦めて、もっとできることを目指してみようというのが、中学時代という多感な時期であり、思春期ど真ん中だと言えるだろう。
だが、思春期にいるのは分かっていて、そんなにしつこい性格でもないと思っていたのに、作曲というものに対しては、なぜか執着があった。
「学校の部活にでもあれば、入部するかも知れない」
と考えたが、楽器を演奏したり、歌を歌うというような部活はあるが、作曲関係の部活はなかった。
それだけ、作曲をしてみたいという人が少ないということなのかと感じたのだ。
「実際に作曲してみても、それを披露する場所もない」
ということなのかも知れないが、それだけ、難しいことなのだろうか?
そんなことを考えていたが、中学三年生になると、そんなことは言っていられない。まずは高校入試に合格しなければ、どうしようもなかった。
彼女は、自分の学力を考えると、ちょうどボーダーラインよりも一段階低いラインに設定していた。
「ボーダーラインぎりぎりの学校を選んで、失敗すれば元も子もないが、それだけではなく、入学できたとしても、ついていけなければ、どうしようもない」
と考えていたのだ。
ちあきの成績は、中の上と言ったところで、それくらいを一般的な成績、
「平均的な生徒」
として見られるようだった。
だから、もし、背伸びした学校に入ると、まわりが優等生ばかり、入った瞬間に、
「劣等生」
という張り紙を貼られることになるのだ。
それは実に辛いことだ。
劣等生というものを、今まで実際に味わったことがないので、未知数という意味で、某県はできないと思ったのだ。
だから、高校は、一段階下がるレベルの学校を選択し、入試も無事に終わり、それはまるで、入試というよりも、推薦テストを受けているくらいの感覚だった。実は同じクラスからも数人受けにきていて、実際に仲の良かった子は皆合格していて、
「これなら、孤独を味わうことはないだろう」
というのが本音だった。
「また、中学と同じだね」
といって皆笑っていたが、それだけに、同じ学校から持ち上がったかのような人たちで固まってしまうというのも、まるで、
「自然の摂理」
というようなものではないか。
ただ、中学時代と違って、より専門的な授業は、科目によって、好き嫌いがハッキリしていた。
中学時代までも、得意な科目、苦手な科目というのは存在したが、
「好きな科目、嫌いな科目」
という分け方は、最初からなかった気がした。
しかし、高校に入って、習うことが、
「ここまで専門的なことだったなんて」
と考えると、
「勉強があまり好きではないのではないか?」
と考えるようになった。
例えば数学でも、数学の場合は、中三くらいからそれとなく感じていたのだが、同じ数学といっても、その内容によって、好き嫌いがあるのだ。
というのは、
「因数分解は好きだけど、展開になると嫌いだ」
というように、似たようなものでも、得手不得手につながると考えていた。
だが、中学時代は、その感覚が成績に直結していた。
しかし、高校になるとおかしなもので、
「好きな科目が成績がいいとか、嫌いな科目だから、成績が悪いということは一概に言えないのではあないか?」
と感じたのだ。
だからこそ、
「専門的なことが大きいんだ」
と感じるようになったのだった。
そういう意味で、高校に入ってからの勉強は、実にきついものだった。
「勉強すればするほど、それが成績に結びつく」
というのは、中学時代までのことで、高校に入ると、その法則はいうことを聞かないというものになっていたのだ。
そうなると、
「成績のために、勉強しているんじゃないんだ」
と感じるようになる。
このまま、受験勉強をして、大学に入っていいものだろうかと考えるようになり、
「それなら、無理することなく、自分のやりたいことを目指すという意味で、短大だったり、専門学校という選択肢だってあるんじゃないかしら?」
と感じるようになったのだ。
「なるほど、そうやって考えれば、何も成績の悪い科目を必死に勉強するというよりも、やりたい科目を勉強すると思った方が気も楽だし、自分が何になりたいかということも、おのずと見えてくるかも知れないわ」
と感じるようになってきた。
だから、中学時代の三年間と、高校時代では、気持ちのゆとりが違ってきた。
一年生の結構早い段階でそのことに気づいたので、
「部活、何かあればやってみようかしら?」
と思った。
やはり、作曲というものを忘れられないこともあって、音楽の先生に聞いてみると、
「作曲関係なら、正式な部活ではないけど、サークルならあるわよ。でも、あなたが入部すれば、ちょうど人数的に、部に昇格できる人数だわね」
ということだった。
その先生は、女性の先生で、その作曲サークルの顧問をしているという。
ちあきは、その先生のことを、どちらかというと、好きな先生の部類だったので、作曲サークルに興味が出てきたのも事実だったのだ。
実際に入ってみると、現存部員は三人だけで、活動していた。
部室もあるにはあるが、実に狭いもので、
「元は、用具倉庫を改造して、部室にしたくらいのところだから」
ということであった。
そこで、楽器を使うこともできず、活動は、音楽室を借りるか、ギターなどであれば、校庭を遣うか、校舎の屋上を使うくらいしかなかった。
それでも、何とかしていたというが、ちあきには、その想像がつかなかったのだ。何しろ屋外では、暑さ寒さや、雨が降った時など、それを補うことができないので、屋外での活動には限界があったのだ。
実際に、ちあきが入部することで、部に昇格できる人数になった。そのおかげで、新たな広い部室を借りられるということで、
「こんなにまで悦びを爆発させるんだ」
と思う程、喜んでいた。
実際に部室の広さは、作曲を行うには、十分だった。ピアノを置くこともできたが、それは、さすがに部費で買うのは難しかったので、っ電子ピアノくらいの購入になったが、逆にそれくらいの方が今の音楽の作曲にはちょうどよかったのだ。
机と椅子もちゃんと何セットかあるので。机に座って、電子ピアノを操作することができた。
「これは、楽しいわ」
とちあきがいうと、
「なあ、そうだろう? こういうのができることで、やっと、作曲サークルだって、言えるようになったわけさ」
と部長は言っていた。
正直、部長がこんなにあからさまに喜ぶ表情を見せるとは思ってもみなかった。
この学校は、部長に限らず、生徒が全体的におとなしい、
「暗い雰囲気だ」
といってもいいかも知れない。
正直、最初だけ、
「こんな学校に入って、よかったのか?」
と思ったが、暗く感じたのは、全体を満遍なく見たからで、人によってはそうでもないようだ。
個々に話してみると、結構楽しい人も、個性的な人も多い、ただ、全体的に見ると、その個性的な部分が、表に出てくるのだろう。暗いと思うのは錯覚で、あくまでも、雰囲気を必要以上に思い込むということから来るものではないのだろうか?
それを思うと、勉強も苦痛ではなかった。
前述のように、成績と興味都が必ずしも結び付くものではないと気づいた時、意外と早めに、それが、
「専門的な学問だ」
ということから感じるものだということが分かったのだった。
「勉強というものは、確かに学生の本分なのだろうが、学問を、勉強という言葉にして、一括りに考えてはいけないものなのかも知れない」
ということを、感じた。
勉強というと、その先に受験であったり、結果を求めてしまうもののように感じるが、学問というのは、どこかに結論があるものではなく、先々を見ていくことで、どんどん広がっていくものではないだろうか?
と感じるのだった。
高校時代は、まだ思春期が続いていて、しかも、いわゆる、青春時代の前半に位置しているものだ。
「二十歳くらいまでは、青春といっていいのだろうか?」
と考えるが、青春の終わりというものが、一番曖昧なものなのではないかと思うと、受験勉強というものが、どうにも、無駄なものではないかと思えてきた。
もちろん、短大であっても、専門学校であっても、入学するには試験がある。
だが、普通の大学受験に比べると、
「比べられた大学受験が、鼻で笑うのが聞こえるくらいのものに感じる」
といってもいいのではないだろうか?
高校時代というのが青春時代の真っただ中だということになるのであれば、
「大学受験で、その時代を潰してもいいのか?」
とも考えたが、逆に、
「受験を犠牲にしてでも青春時代を選んだのであれば、今度は青春時代に対しての責任というものが大きくなるだろう」
ともいえるのではないだろうか?
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