約束

 

 ベアトリーチェの身に何が起こったのか。ダンテは病室に戻ってきたティルマン医師にすぐに質問した。すると、強い精神的ストレスが引き金となって彼女が倒れたという答えが返ってきた。それを聞いた原因を作り出した側のダンテもまた、大きなショックを受けた。

「大丈夫だ。ベアトリーチェはすぐ近くの病室にいる。少し休めばすぐに良くなる」

 ベアトリーチェが倒れた直後、右足の状態がまだ完全でないのにも関わらず、ダンテは病室を飛び出し大声で助けを求めた。すぐさま駆けつけたティルマン医師らによって、ベアトリーチェは事なきを得たのだった。

「……僕のことを怒らないんですか。先生?」

 ダンテは自らの行いを深く反省し叱責を求めたが、ティルマンはそうしなかった。

「知らなかったことだ。起こってしまったことは仕方ないさ。それに今回、彼女が倒れた原因はそれだけじゃない」

「どういうことでしょうか?」

「……少しだけ、彼女の話をしようか」

 偶然にも巡り合った少年と少女。二人の間に何かを感じたティルマンは、ベアトリーチェの事についてダンテに話すことにした。それは彼自身も定かではない、直感のようなものだった。

「彼女は生まれながらにして、重い病を抱えている。現代の医療ではどうしようもできない、いわゆる不治の病だ」

 ダンテは不意に何か硬いもので頭を打たれた気持ちになった。これまで正常に見えていた世界が歪んだ気さえした。彼女と出会ってから今日の今日まで、今さきほどまで、そんな素振りを全く見せなかった美しいベアトリーチェの姿がダンテの頭の中で浮かび上がった。

「そんな……気づきませんでした。まったく、そんな……」

 少年はただ狼狽えるばかりで他に何も言えなかった。

「投薬で痛みは消えている状態だからね。気づかないのも無理はないさ」

「……彼女は、どんな病気なんでしょうか?」

「簡単に説明すると、体内に毒が溜まっていく病気だ。今は一週間に二度、ここでその溜まった毒を取り除く治療を受けている」

 ダンテは窓の外を眺めた。その日もマグナ・マールの街は雲に閉ざされ、昼間だというのに薄暗かった。街中に機械が溢れ、張り巡らされた配管や煙突からは煙や蒸気が元気に吐き出されていた。

「そういった治療を受けて、彼女はやっと自分の家で生活することができるようになるんだ。といっても、彼女の家での生活はとても制限されたものだ。一日の中で決まった時間しか外に出られない。学校に行くことも出来ない、もちろん食事だって好きなものは食べられない。そんな生活を彼女は生まれてからずっとしている」

 ダンテは自分が大きな思い違いをしていたことに気づかされた。彼女は裕福な家庭で何不自由ない暮らしを送っているものだとばかり思っていた。しかし現実は違った。

「……彼女の病気はそんなにも重いのですか?」

「今の治療法では限界がある。今は週に二回だが、それもやがては増えていくことになるだろう」

「彼女は……あと、どれぐらい生きられるのですか?」

「……これまでの自分の人生と同じ時間を生きられるか、どうかといったところだ」

「彼女は、そのことを……」

「理解しているよ……」

 ベアトリーチェのことで質問は尽きなかった。聡明な少年は同時に疑問も抱いた。

「先生、なぜ彼女はそんな状態で僕の元へ来ているのでしょうか?」

「……さあ、なぜだろうね。ただ、君と出会ってから彼女はとても前向きに治療に臨むようになった」

 ここでティルマン医師の顔に笑顔が戻った。純粋無垢な少女が恋した相手もまた、純粋無垢だったのだ。

「どうだろう、君もそろそろ自分のことに前向きになってみるのは」

「……でも、僕には」

「身寄りがないなら私が君を引き取ろう。そう広くはないが、ちょうど家に空き部屋がある。この街で君に出来ることが見つかるまで、その間だけでも構わないよ。生憎、私は独り身でね。一人で食事なんかしていると、時折込み上げてくるものがある。どうだ?男同士、気楽に暮らしてみないか?」

 この時のティルマン医師の提案は少年にとって運命の道標であった。

「だが、その前に男としてやるべきことがある」

 そういってティルマン医師はダンテに一対の松葉杖を差し出した。





 誰もいない病室には慣れていた。父親は自分の都合で彼女のことを連れまわすことはあっても、病院に付き添うことはしなかった。ベアトリーチェは暗い気持ちで、白く清潔で一筋のしわもないベッドで横になっていた。自分はこのまま、一人ぼっちでさみしく人生を終える。そう考えながら、ベアトリーチェはダンテのさみしそうな瞳を思い出していた。それは光のない、絶望の色だった。彼への自分の思いはまったく伝わらなかった。思えば、毎日毎日自分の話ばかりして、彼の話をちっとも聞く事すらしなかった。ベアトリーチェは自分の態度を後悔し、相手を思いやる気持ちを深々と学んでいた。そこへ一つの、彼女にとっての小さな希望が近づいてきた。

「ベアトリーチェ……」

 彼女の元へやってきたのは、松葉杖をついたダンテだった。ベアトリーチェは溢れそうになった涙をこらえた。

「ダンテ……来てくれたのね。嬉しい。私、あなたに嫌われちゃったのかと思ってた」

 ベアトリーチェはこの世に生を受けてから一番幸せな気持ちになった。しかしすぐに悲観がやってきた。

「ごめんよ、ベアトリーチェ。僕」

「私、死ぬの」

「……」

「大人になる前に、私、死ぬの。そういう病気なんだって」

「……先生に聞いたよ、君のこと」

「……私、将来は素敵な大人になって……愛する人のお嫁さんになるのが夢なの……でも」

 こらえていた涙が宝石のような瞳からこぼれ落ちた。

「……僕が叶える」

 ダンテは一つの決意を胸にその事を告げた。

「約束だ、ベアトリーチェ。僕はこれから先生のところで一生懸命勉強して、医者になる」

「ダンテ……」

 ベアトリーチェは泣きながら微笑んだ。

「そしたらきっと……いや必ず、必ず君の病気を治す。だから、諦めないで。その日が来るまで」

 ベアトリーチェはベットから起き上がろうとして倒れ込みそうになったが、それを阻止し彼女の身を支えたのはダンテだった。少女は少年を抱きしめた。そして再び少女は夢を見るようになった。

「さっきは酷いことをいってごめん。もう君の優しさに甘えたりはしないよ。人はやり直せるって。先生がそういっていた。僕たちもやり直せるかな?」

「……ねえ、ダンテ。私たちって、運命の出会いだと思わない?」

「……ああ、ベアトリーチェ。これは運命の出会いだ」

 それは少年の瞳に光が灯された日でもあった。この日、少女の夢は少年の夢となった。

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