新しい生活

 

 マグナ・マールでの新しい生活は、ダンテに知識を与えた。少年の小さな脳は、ティルマン医師の教えを恐るべき速度で吸収して自分のものにしていった。ティルマンはそのことについてはあまり驚かなかった。問題は一個人がダンテに教えてやれることへの限界があることだった。やがて訪れるその時を予感したティルマンは、ある日の夕食の席でダンテに学校へ通うことを勧めた。


「学校、ですか?」

「うん。どうも君は学業を修めることに才能があるようだ。それに学校へ行けば、勉強以外にも君の将来にとって、もっと大事なことが学べると思う」

「だけど……」

「ベアトリーチェに会えなくなることを心配しているのかい?そんな事にはならないから、安心しなさい」

 ティルマンはダンテの気持ちにいつでも寄り添った。彼は勉学の他にも物事の道理や道徳の大切さをダンテに説いた。高い教養と知識を有する彼だったが、時には低俗な言葉や笑いを用いることがあった。ティルマンの持つ二面性と矛盾にダンテは夢中になった。自分の失敗や弱さを隠そうともしない不思議な大人で、なによりも温かい心を持つティルマンのことがダンテはとても好きになれた。

「とはいっても、今すぐの話じゃない。試験は来年だ。それまでにできることはすべてやっておこう。もちろん、ベアトリーチェにもきちんと説明してあげてないといけないよ?」

「はい」

 ダンテが返事をした時、心の中は不安一色だった。しかしその日の夜、ベッドの中で学校へ通う自分を想像して、少しだけその色が柔らかくなるのを彼は感じた。





 ダンテはティルマン医師の勤める病院で毎日手伝いをしていた。医療材料の消毒、院内の清掃、お年を召された婦人たちの話し相手、出来ることは何でもやった。それは少年にとっては何よりも得難い経験で、病院にとってもプラスの効果があった。もっとも少年からすればそんなことはどうでもよく、彼の一番の目的は別のところにあった。

「ベアトリーチェ」

「ダンテ!!」

 その日もベアトリーチェはとても治療中とは思えない明るい声でダンテの訪問を歓迎した。少女はベッドで横になり、その細い腕からは二本の太い管が生えるように伸びていた。一つの管は少女から抜き取るためのもので、もう一つは少女の体へと戻すためのものだろうか。管から機械を通して体内に溜まった毒を取り除き、それをまた管を通して少女の体内へと戻す。悲愴な場面だったが少女の明るさが少年に魔法をかけていた。

「今日も一緒にいてくれるのね?」

「うん、勉強しながらだけど」

 少女の治療には大変な時間がかかった。昼に始まれば夜に終わり、夕方から始めれば真夜中に終わる。週に二回、ベアトリーチェはその治療を受けていた。ダンテはその間、病室で彼女とともに時間を過ごすことにしていた。

「嬉しい。私、あなたに会えるのがとても楽しみなの。あなたがそばにいるだけで元気になれるの。本当よ」

「僕も君に会えるのが……君と会うと、力が湧いてくるよ」

 ダンテは言おうとした言葉を変えた。それこそが、少年がティルマン医師から学んだ思いやりの心だった。

「僕、来年から学校に通うことになりそうなんだ」

「まあ、それはとってもいいことね。先生に聞いたわ。あなた、すごく優秀なんですってね」

 ダンテはそれまで後ろめたい気持ちがあった。学校に行きたくても行けないベアトリーチェに対して、このことを告げるのが心苦しかった。しかし彼女はダンテの心配したことはすることはなかった。

「もしそうなったら……今まで通り、こうして会えなくなるかもしれない」

 ダンテは恐れていた未来を口にした。

「ねえ、ダンテ。私のこと好き?」

「うん」

 両者の気持ちには、この時はまだ少しだけ差異があった。少年が自分の本心に気がつくのはもう少しだけ先のことだった。

「じゃあ私、治療に来るのは夕方にするわ。そうすれば、学校が終わった後でもあなたと会うことができるもの」

精神的成長の鈍い少年とは反対に、少女は舞い上がるような気持ちになっていた。ベアトリーチェはダンテの答えに大いに満足した。

「ベアトリーチェ……」

 少年は使命感を胸に秘めた。

「でも無理はしないでね、ダンテ」

「うん」

 少年と少女、二人の時間はその日もゆっくりと流れていた。

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