スライム

@ChiharaYukai

第1話

別に特別になりたい訳じゃない。

今更空を自由に飛べるだなんて思ってはいない。

気の許せる仲間と、世界を救う旅に出たい訳でもない。

魔法学校からの入学証が送られてきたり、森の奥で妖精に出会いひと夏の大冒険を経験出来るだなんて思ってもいない。


それでも、何か予感がする。

この退屈な日々がいつか覆るのだと。

私がいつか''何者か''になるかもしれないことを。

退屈な人間に成り下がってしまった、そんな自分に失望しながらも、それでも奥底では信じている。

私は、このままでは終わらないのだと。





ピピッピ トゥルットゥ トゥルットゥトゥルットゥ

スマホのアラームが鳴る。覚醒とほぼ同時に、無意識に枕元に手を伸ばす。

アラームを止め、薄目の中時間を確認する。

午前6時。スヌーズ設定がオンになっていることを確認し、もう一度布団に潜り込む。

またアラーム。午前6時5分。

同様の流れをもう2度繰り返し、ようやく目をしっかりと開ける。午前6時15分。


手早くシャワーを浴び、トーストとホットミルクの軽い朝食を片付けた後、ふと鏡に映った自分の顔に見入る。

今年で25歳。鏡の中の私は20歳の頃と何ら変わりないようで、少し大人びても見える。いや、やつれたのかな。口元にぶつぶつと点在するニキビをファンデーションで覆う。

無理やりに口角を上げながらメイクを終え、急いで着替えて出勤。午前7時15分。


仕事を終えれば午後6時。

スーパーでお弁当と缶チューハイを買って帰宅。午後7時。

スマホで退屈しのぎのYouTubeを流しながら夕食を摂る。惣菜のチキンカツはソースが衣にべっとりと染み込んでいる。

もそもそと旨みの抜けた肉は最早味が分からず、分かりやすいソースと油の味で何とか喉を通る。これでもか、と叩き付けるほどの濃い味付けで喉が渇く。缶チューハイを流し込み、香料と誤魔化しきれない安いアルコールが香る。それでも喉は潤うし、まだ尾を引いていた仕事中の緊張感が少しずつ緩んでいくのを感じた。


ふんわりと解けていく頭の中で、虚しさが顔をもたげた。

明日も、明後日もこの繰り返し。

誰にでも出来る仕事に一日の半分を費やし、帰れば疲労で何も出来ず、ただ分かりやすい娯楽で脳を誤魔化す毎日。

安酒と塩分過多の弁当で身体をすり減らしながら、それでも仕事の後は自分の生活を充足させる余力が残っていない。

このままではいけないと思いながらも、生活を改善する気力も、何かしらの資格をとって条件の良い仕事に転職する体力もない。

必死で社会生活を送りながら、その実、自分の人生は半分死んでいる。


私はこのまま、歳をとり老いていくのだろうか?

25歳。もう責任のない学生でも、初々しい新社会人でもない。

周りはもう、恋人を作り、結婚し、留学し、転職し、''何か''を積み上げている。

今更、有名人や偉人や、特別な人間になりたいとは思っていない。

それでも周りの同年代が着実に当たり前の幸せを積み上げていっているなか、今の生活を維持するだけでも精一杯の現状が恐ろしくなる。

このままでは、人生において大きく遅れを取ってしまうのではないだろうか。

何か取り返しのつかない、今後の人生を大きく左右するような過ちを正に犯している最中なのでは無いだろうか。

今こうしてスマホを無為に弄っているこの数時間が、10年後20年後に悔やんでも悔やみきれないほどの貴重な時間なのではないだろうか。

勉強なり、パートナー探しなり、何かをすべきなのではないだろうか。

でも、一体何を、どうやって?


ぐるぐると行き場のない焦燥感が頭を巡る。

足先が震え、言いようの無い不安が押し寄せてくる。もう何も、考えたくない。


死にたい、という考えが湧き上がった時に、ふと大昔にネットで見かけたおまじないのことを思い出した。

もうこんな人生は嫌だ、と思った時には、「飽きた」と書いた紙を枕の下に置いて寝ると、異世界に転生するというものだ。

当時はまだアンダーグラウンドなネットの世界で、10代の私にとってそれは非常に真実味のある書き込みだった。

死ぬ勇気もない、されどももうこの人生に、自分に、失望しかけている今の私が試すのにはちょうど良い遊びのように思えた。


もうどうにでもなれという思いで、スマホのメモアプリに「飽きた」とだけ入力し枕の下に入れて眠ることにした。それでも、アラームだけはしっかりと午前6時にセットする。

そんな私の小心者さ加減に少し呆れながらも、それでも、目が覚めたら異世界かもしれない。

退屈な人生を送っている自分に、ちょっとした悪戯を仕掛けてやったのだ。些細な遊び心。

だが、枯れていた心に、幼い頃のような想像力が少しだけ沸き起こるのを感じた。異世界転生するなら、色々な魔法が使える世界がいいな…

そうして仲間と旅をして、様々な街や国を訪ね、世界を見て回るんだ。

ふと、小さい頃寝る前にはこうしていつも空想をしていたことを思い出した。いつから、睡眠の時間がただの休息になってしまったのだろう。幼き日に紡いだ拙くも華々しい冒険譚を思い出しながら、私は夢の世界へ微睡んでいった。



----------いつの間にか深い眠りに沈んでいたようで、薄目を開けるとまだ視界は薄暗かった。

時間を確認しようと枕元に手を伸ばす。が、腕の感覚がいつもと違う。まるで、体の一部を''引き延ばす''ようにびよん、と身体が変形するのを感じ、あまりの異様さに私は飛び起きた。

覚醒した私の視界に真っ先に飛び込んできたのは、青色の軟体と、地面。

いつの間にか私は地面に横たわっていたようだ。

青色の軟体は…私の身体に繋がっている。

いや、違う。私の身体そのものが青色の軟体になっている。

これは、これは…スライム?

周囲を見渡すと、普通の雑木林のようにも見えるが、あけぼのの空に、月が…ふたつ、怪物のまなこのように並んで浮かんでいる。

何が起きているか分からず、必死に記憶を辿る。

最後の記憶は間違いなく、自室のベッドで眠りについたのだ。さらに記憶を遡って…あのおまじないに思い当たった。

「異世界転生」、等という聞き飽きたワードが頭に浮かぶ。あの与太話のおまじないが、まさか、本当に異世界転生に?

言い知れぬ不安に襲われ、足元の地面が揺らいだように感じた。

そんな、今まで当たり前として生きてきた自分の世界が、こんなに簡単に大きく変わってしまうなんて…

この世の根幹の不確かさに触れ、あまりの恐怖に震える。家族にももう会えない。お父さん、お母さん…優しい両親の顔が真っ先に浮かぶ。私の身体はどうなってしまったのだろう。元に戻れるのだろうか。人間の体を失い、私はこれからどうなってしまうのだ。

混乱する心に相反して、頭は必死に目の前の情報を処理しようとしている。何か自分にも理解出来ることは無いか、何か少しでも分かることは無いか。冷静になれ、冷静になれ…

ふと、自分の周りが不自然に開けていることに気付いた。木々も草も密集しているのに、私の周りだけ生えていない。

よくよく周りを見てみると、どうやら私は大きな道の真ん中にいるようだった。

地面は土がむき出しになっており、誰かの手によって整備されたのだろう、綺麗な一本道になっている。

…はっきりと分かるのは、ここは人為的に作られた道で、まだ利用されているということだ。

目の前の事実を咀嚼するにつれ、目が覚めた時の混乱とは違う、底冷えするような恐怖感が沸き起こってきた。

少なくとも、ここには道を作るレベルの知的な生命体がいるのだ。それらは、どんな存在なのだろう。敵か、味方か。文明はあるのだろうか。話は通じるのだろうか。もしかしたら、私を捕食対象として認識するモンスターかもしれない…

全てが分からない。自分が何故ここにいるのか、自分の身体がどうなっているのか、この世界はどんな風に形作られているのか、

今まで自分を定義していたものを全て失い、自分の存在が脅かされる中で、心の奥底から湧き上がってきたのは「生きたい」、という本能だった。

眠りにつく前の私は、社会の体裁やしがらみであんなに生きることが苦しく、いっそ死んでしまいたいと思っていた。

しかし、全てを失い見知らぬ世界にいる今、達成すべきは「自己の生存」、ただひとつである。目的が明瞭になった今、頭がいつもより冴え渡り、心は澄み切っている。

もう周囲の目や同年代の幸福に怯えずに、これからは自分のことだけ考えていいのだ。いや、そうするしかないのだ。

改めて空を見上げる。

真っ直ぐに私を見つめるふたつの満月を、挑むように見つめ返す。

極限に追い詰められて初めて気付く自分の強さに、ほんの少しだけ、頼もしいな、と感じた。




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