第38話、決着。そして 下

 舞い落ちる塵のなか、残されたのは人の形。黒髪の少女のように見える。


「ねえ。これ、きみじゃない?」


 その近くにしゃがみこんだコウが絵を見せる。気づいた少女がゆっくりと頭をあげると、そこには顔がなかった。少女は無い目でじっと絵を見た。思いだせないものを思いだそうとするように。


 絵のなかの女の子はひかえめに笑っていた。あいまいだったその少女に、人の顔が作られていく。目の色は紫色だったが、少女は絵に描かれた子と同じ顔だった。


「……違う。こんなの、わたしじゃない」

「そうかなあ?」


 コウが絵を見てまた少女に目を移し、首をかしげた。絵の柔らかな空気と恐ろしい肉塊はぜんぜん似ていないけれど、内側にあるなにかが同じだと思った。


「違う……」

「これはきみだと思う。きみのぜんぶじゃないかもしれないけど」


 その言葉に、少女は言葉をのんだ。うつむいて、かすかに震えている。


「……おかえり、エルセ」


 名前を呼んだのは竜老公。コウから絵を受けとって少女の前に立つ。少女は思わず竜を見あげ、両手で顔をおおった。本人も忘れていた名前を返した竜は、穏やかな表情をしていた。ただ静かに、頭を抱いてなでる。


「お父さん。わたしは……」


 その子は泣き崩れた。きれいな紫の目が濡れている。「ごめんなさい、ごめんなさい、見捨てないで……」。しゃくりあげながら竜老公にとりすがる姿を見て、思わずコウの口からこぼれた。


「……なんだ、あるのに気づいてなかっただけじゃないか」


 アオが静かにコウの後ろにやってきて「がんばったなあ」と頭に左手を置く。コウが恥ずかしそうに笑う。「うん……」。自分で決めるのは怖かったけれど、少しだけかっこいいことができた気がした。




 夜明け前、都市の人間が活動をはじめる時間。大きな穴の前に、少女を抱えて竜老公が立っていた。少女は竜の胸に顔を埋めて動かない。


 ミトラは竜の動きを待った。このまま逃げるのか、それともむりやり力でねじ伏せるのか。争いになった場合、こちらにはアオ以外の戦力がない。ユエンはどう出る?


「娘は連れ帰る。よいな?」


 出された言葉は、大きな声でもないのに人をたじろがせた。威圧だ。息をするのさえはばかられるような圧倒的な存在感が場を満たした。ミトラは平然を装って見かえす。人間をみくびられては困る。ゆっくりと呼吸を整え、腹に力をこめた。


「ああ。自分の行為をかえりみることができる状態ではないと判断した。いったん、そちらに預ける」


 そう言えば、竜は少し驚いたように目を見開いた。それから人間たちに背を向ける。


「遠くて近い隣人たちに感謝しよう」


 竜老公は一度だけ振りかえった。


「コウ、よくやった。……我と来たいなら来なさい」


 呼ばれたコウはすぐに「うん」とは言えなかった。吸血鬼として生きることは、きっとコウにとっていいことだろう。そう思うのに、決められなかった。自分が本当に竜のところに行きたいのか、まだわからなかった。


「……その気になったら、死の守り神に言えばよい。迎えを出そう」


 竜老公はひとりでうなずくと、娘ごと蛾の群れに変わった。音をたてていっせいに飛びあがる。雲のような黒い蛾が闇のなかを飛んでいく。それは高く星を隠したかと思うと、どこかへ消えていった。




「吸血鬼の始祖相手に恩を売れた。上々だ」


 ミトラが夜空を見あげて息をついた。蛾の群れがかき消えた後には星が広がっている。これももう少しすれば朝の光に塗りつぶされていく。しばらくは後始末に追われることになるなと穴に視線を移した。


「それは人間に都合のいい解釈です。信用しすぎるのは危険かと」

「まあな」


 人間と吸血鬼は互いのため交渉した。竜老公は人間の立場を考えてくれたのだとミトラは思っている。吸血鬼を見逃したというより、強大で恐ろしい始祖に脅されて手が出せなかったとしたほうが言い訳がきくからだ。


 吸血鬼退治に協力するかわり、彼の娘とコウをまかせる。ミトラは彼を信じた。適切な距離を保った隣人として存在できればいい。友とはなれずとも。


「公表しないのですね?」

「本当のことを言ったって誰も得をしない」

「人の損得で事実は変わりません」

「……人間にはわからなくても、彼らには彼らのやりかたがある。だから被害を減らすため、それを探っていくしかない」

「気の長い話ですね」

「ああ、終わることはないだろうさ」


 タカノリは、ちらりと自分のスマホを見た。通知がいくつも来ている。せっかちな上司からだ。完了の報告をしてやらなければならない。明日はまた記者会見になるだろう。これが最後であればいい。


「……上と市民にはうまく説明しましょう」

「わかってる。言いにくいこと言わせて悪かったな。さっすが俺の弟」

「宇気比さん」

「ふはは、いいだろ。誰も聞いてやしない」


 それからタカノリは警官との連絡に追われた。ミトラはひとり、深い穴の前でヒトガタの束に火をつけた。人の情念が吸血鬼を変質させたというなら、それも弔ってやらねばならない。


 コウは立ちのぼる煙を見あげていたが、そのうちアオがいないことに気づいた。気づいたけれど、あえて探そうとはしなかった。




 街が朝を思いだしていく時間、スカイツリーの上に人の形の影があった。


「……名前か」


 名前はそれそのものだ。よくも悪くも、人間は恐れるものの名を直接呼ぶことはできない。竜は娘の名を人間に教えた。人の手が届くものにしたということだ。名を削り世界から抹消するのではなく、人に伝えることで力を弱めようとした。


 吸血鬼と称される突然変異の妖精たちが生まれたころにはもう、古い妖精は消えたか隠れてしまった。ユエンも呼び名を失った。かつて人間に捧げられたネックレスさえない。自分が神であったと証明できるものはなくなった。


「ユエンさん」


 彼女はなにもできない神だ。人が事故で死んでも、病で死んでも、ただそこにいることしかできない。すべての死は平等だからしかたがない。みなユエンと関わりなく存在し、変化し、消えていくだけだ。そのはずだった。


「ユエンさん」


 じわりと色を変える空から、アオがおりてきて声をかける。


「なんだ」

「終わったよ」

「そうか」


 疲れてるなあとアオは思った。ユエンはそんなはずがないと言うだろう。けれども影を広げたことでひどく力を失っているように感じとれた。……たぶん、使い魔としてつながっているからなのだろう。それが少し、痛ましかった。


「ありがとう、助けてくれて」

「助けるのは……」

「うん、わかってる。そういう神さんだからって言うんだろ? でも、俺は、ユエンさんが神さんでなくてもいいと思ってるよ」

「おまえは勝手なことを言う。神だから助けられた。人間がそうあれと望んだから」

「そりゃあ、俺は信じてるけど。だけど、それが理由じゃなくてもいいんだ。ユエンさんは神さんじゃなくても、ユエンさんだから」


 一度、神だからということから離れて、彼女の好きにすればいいのに。そうしたら、きっとそんな顔をしなくてすむだろうに。


「おまえは勝手だ」

「……そうだなあ、勝手にそう思っとるだけだ。でも」


 ユエンはうんざりした顔になった。伸ばされたアオの手をはらいのけ、スカイツリーの屋根の縁まで歩いていく。


「ちょ、おい、ま、まって!」


 飛びおりようとするユエンをアオが止めた。のぼるのはともかくおりるのは困らないらしい。しかしアオが困る。心臓に悪い。アオは左腕をまわし、そっとユエンを抱えた。体を近づけて膝の裏を支える。


「おりるよ。コウのこと迎えにいかなきゃな」

「……ああ」


 夜が消えていく前の東の空へと飛びたつ。風にふわりと黒い髪がなびいた。

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