第37話、決着。そして 上
「人間の情念、ね。なにがあったか聞いてもいいのか?」
ミトラが小声で耳元の小さな蛾……竜老公に問う。ほかに聞くものはいない。ナヨシから一時撤退させたとの報告が来て、一夜木がゆっくりと掘りおこされていた。
「あの娘は我と三番目の妻との子だよ。人の大きな戦争が始まるころだ。彼女は人間に振られたようだった。振られたというのは、つまり、恋愛感情を相互にもっていると思っていた相手に、その感情がもうないと告げられたという……」
「ああ、わかるよ。振られてどうした」
「当時、吸血鬼とは敵国や敵軍を指す言葉でもあった。ただの人間が吸血鬼だと告発されることもあった。自分に都合の悪い相手を呼ぶ言葉だったんだ。振られたのが実際、そのためだったのかはわからない。だが、彼女は父が吸血鬼であるのを気にしていたようだ」
強い風の音だけがそれに答えた。コウは少し離れたところで絵を見ている。
「しかし死ぬ寸前の娘を『あれ』は吸血鬼に変えた。彼女は人間であったことを捨て、より『吸血鬼』らしくあろうとした。愛しく思っていた相手を殺し、母を殺し、友人たちを殺した。だから我は彼女を封じた。木槍で貫き、放り投げて落ちたのが、偶然ここだったというわけだ」
「あの木がそれか」
「そうだ。槍は木になり、地中に彼女を封じこめた。しかし、たくさんの人の情念を引き寄せてしまったようだ。情念のほうもまた、自分たちの思いをなしてくれる相手を欲していた。それで、あの子は他人の情念に飲まれて自分自身のことも忘れてしまった。ただ人をのろうだけのものになった……」
隅田にある学校の校庭。ミトラから連絡が来て、ヤマは地面に血をまいた。そのとたん、大きく揺れて地割れが起こり、肉塊が現れた。乾いた肉の間から目と牙がのぞく。それは血をすすりながらそこにいる人間を見つめた。
同時に、夜空からアオが到着する。
牙のあいだから肉塊がほえた。ヤマとモモカは手を切りはらい、さらに増える腕を叩き切って、アオが動く空間を作る。アオは槍を持って突き刺し、飛び回っては手を切り落とす。あちこちで腕が塵になって消えていく。血が飛び散り、肉が切られるたび、それは悲鳴をあげた。人のような悲痛な叫びだ。
一瞬、たじろいだモモカに手が迫ってくる。ヤマが駆けよって剣で切りこんだ。つかみかかる手を受け流し、剣を振りあげてまっすぐに切りつける。切ったそばから伸
びてきたのを跳ねあげ、さらに切り裂いた。モモカが息をのむ。
「いくぞ、モモカ」
「はい!」
モモカは気を引き締めなおすと薙刀を振るい、他の手に切りかかる。
腕を貫かれ、引きちぎられて、肉塊は嫌がるように震えた。めちゃくちゃに手が振りまわされる。ヤマが柄頭で腕をからめて引きずりおろし、そのまま打ちはらう。モモカが巻くようにいなして下から薙ぎはらい、返す刀で切りおろした。
肉塊は特にアオの槍を避けるように身をよじった。上から勢いよくふってくる槍を止めようと腕をいっせいにアオに向ける。
アオが飲みこまれないよう、ヤマとモモカができるかぎり切り飛ばして腕を減らす。
モモカの動きが少し遅れたところに、腕が狙って飛んできた。とっさに薙刀で受けるが、刃がうまくたたなかった。衝撃に手がしびれてとり落としそうになるのをぎりぎりで握りなおす。そこに数多くの腕が押しよせた。
発砲音。ヤマが右腰の拳銃を抜いて撃った。銀弾が腕にめりこみ、そこから先の手が塵に変わって弾け、ぱらぱらと落ちていった。次から次に向かってくる手を、モモカが落ちついて切り捨てた。血しぶきのなか、ヤマが左手の剣で振りはらう。
アオは肉塊から離れて上空へと飛んだ。そこに多くの腕が勢いよく突きあがっていく。まるで太い肉の柱のようだ。
その様子を、イチコは校舎の窓から見つめていた。上へと伸びた腕たちのつけ根、ややくびれた一点を狙う。腕の動きに呼吸をあわせ、引き金を引いた。
瞬間、破裂音がして腕の根元が吹っ飛んだ。伸びきった腕がバラバラに落ち、塵となって舞いあがる。飛び散った血も塵に変わり、見えなくなった。
塵のなかをアオの槍が肉塊に吸いこまれていく。重力にまかせ、肉の中心を刺し貫いた。腕いっぱいにざっくりと振りぬく。肉塊はいっぺんに塵に変わった。
すぐにアオが飛びたった。地上ではヤマがスマホをとる。ここでやるべきことはやった、次で決まる。
「来るぞ」
ミトラが張り詰めた声でつぶやいた。木の根はきれいに掘りおこされている。作業員はすでに遠くへ行っているはずだ。
ぐらぐらと地面が揺れる。まともに立っていられない。土の匂いがむせかえるほどに立ちのぼる。地面が割れ、不吉な音をたてて一夜木があった穴が口を開けた。
ずるりと大きな肉塊が這いでてくる。これが本体か。それが抜けでた穴をさっと陰が覆い隠した。地中に戻れないようユエンが塞いだのだろう。
上空からおりてきたアオは見た。肉塊の内に、別の存在がいることを。食人鬼の目はこの吸血鬼によってもたらされたものだ。主人を判別できるらしい。
すうっと静かに息を吸う。長く吐きだしながら、アオはそれに狙いをつける。次の瞬間、上方から槍を繰りだした。
肉塊のあちこちで見開かれた目がアオに気づいた。腕がうねりをあげてアオに襲いかかる。空中で槍をぶん回して手を切りとる。血と塵のなかを他の腕に切りかかり、打ち落としていく。
手が追いかけてくる。攻めかかる手をかわし、上から斜めに切り落とす。散らばる塵が広がって見えなくなる間に、手と手のあいだに入りこんで本体の表面に槍を突き刺した。「中身」を傷つけないように。
刺したところがぼこりと盛りあがり、切られた場所に裂け目が現れた。それは口だった。そのまま牙の並んだ大きな口をアオに近づけ、飲みこもうとする。槍を振るうが手が回りこんで逃さない。
「アオ!」
「コウくん!」
たまらずコウが飛びだした。ミトラが思わず手を伸ばしたが、そのときにはもう届かないところにいた。コウは走った。まるで飛ぶように駆け、肉塊へと向かう。
「おまえが!」
肉塊が視界に現れたコウを見つけた。その目は四色をしていて、それぞれの方向からコウをとらえて逃がさない。アオをつかもうとした手が、ゆっくりとコウのほうに向きを変えた。しかし伸ばされた手はコウをするりと避けていく。
(いまさら、わたしにどうしろっていうの? もうやりなおせないのに。それならわたしはこれでいい。このままでいい! 望まれたようになったのに!)
ここでひるんだらずっと動けなくなる気がして、コウは叫んだ。
「おまえはなんだ!」
(わかんない! わたしにはなにもないんだもの! それなら、全部なくなっちゃえ
ばいいのに! こんなにずるくて、汚くて、弱くて、悪い、嫌なやつなんて!)
コウはかつての自分を思い出した。それでもだいじだと知っていたから言い返す。
「ちがう! みんな、だいじなものだ!」
(わたしの子なのに、どうして逆らうの? わたしを裏切るの?)
「ぼくはおまえじゃない! おまえの言うことなんて知らない、聞かない!」
それは怒っていたけれど、どこか寂しそうだった。コウによく似ていた。でも、コウとそいつは違う。どれだけ同じところがあったとしても、決して同じにはなれない。
だから負けるつもりはなかった。言うとおりにしてやるものか、思いどおりになってたまるかと牙をむいた。そのとたん、いくつもの手がコウをおおった。
思わず動こうとしたミトラの肩を押さえたのは竜老公。いつのまにか人間の男の姿になっている。雪はすでにやみ、雲の合間に星が見えていた。夜明けがくればユエンの広げた陰が弱くなってしまう。この肉塊を、再び逃すわけにはいかなかった。
「コウは、血のまじないに抵抗したのだな」
竜の血にかけられた、血族を攻撃できないというまじない。それがコウの叫びとともに少しだけ弱まった。コウは自分の人生を進みはじめた。だから、それを妨げる相手を拒絶した。たとえ血のつながるものであろうとも。
「……いいのか?」
「大丈夫だよ。コウはきっとうまくやるさ」
竜はかわいい娘を否定できない。だから、ここから先は竜ではできないことだ。
肉塊の手を振りはらったアオが飛んできて、コウにからみつく腕を切りとった。コウは投げだされて地面を転がり、立ちあがる。青い目に虹が浮く。距離感を狂わせる色。手はまたコウに向かってきたが、見失ったように空をつかんだ。
「ぼくは大丈夫! だから……」
引っかきに来た手を、アオが体をずらして避けた。そのまま横から槍を当てる。混乱したように暴れくるう手を蹴りあげるように位置を変え、左手の槍で薙いだ。
腕が反応したところをアオは右手の爪で引きちぎった。破れた手袋が落ちる。左手で槍を構え、手がからみついてくるのを受けとめると、右手を伸ばしてかき切った。
アオの右手も吸血鬼の影響を受けたものだ。吸血鬼は眷属を攻撃できるが、逆はできないはずだ。それが切ったということは、伸びてくる手は吸血鬼の一部ではあるが、本体ではない。人の情念だろう。
アオは肉を引き裂き、内部の本体をあらわにしようとする。腕についた目がコウを探している。コウは肉塊から離れたところに立って、しっかりと肉塊を見すえた。鮮やかな虹色が浮かぶ。「こっちだ」というように距離感をねじ曲げる。
そちらに向かっていっせいに腕が走った。手がからみあったひとつの腕になってコウをとりこもうとした。……遅い。アオが深く身を沈める。
膨れあがった手が本体と離れたのを見て、アオは一瞬で踏みこみ、槍で大きく切り上げた。そのとたん肉がはがれ、血とともに塵が舞いあがった。落ちてきた血もすぐに塵になる。あっけなく、それは闇に消えていった。
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