5章、見送り
第39話、終わってしまったこと 上
竜老公が去った夜から一週間。鬼害事件は終わった。そのニュースは人々の恐怖をおさめ、すぐに消えていった。道端ではきゃあきゃあと子供が笑い転げる声がする。
「傘、折れちまったよ」
「折ったんだろ。雨なんてねえのに持ってくるんだもん」
学生が連れだって歩いていく。それを避けて自転車が走りさった。
その場所は探さなければもう血の跡すらわからず、事件のことなどすっかり忘れたかのようだ。道路脇にささやかに供えられた花が首を垂れていた。
殺された人には身寄りがなかったと聞いた。友人と同僚が葬儀を出したのだと。シガンは悲しむ人がいたのだと思ってやりきれない気持ちになる。それと同時に、悲しむ人がいなければ殺していいというのも違うだろうと首を横に振った。
「……ごめんなさい」
シガンのマネをしてコウが手をあわせる。どんな形式であっても、形をとることは必要だ。コウはそっと目を閉じて、あの世があればいいと思った。誰もあの世を見たことがないという。それでも、彼が救われてほしいと願った。彼の差しだした傘が意味のあるものであってほしかった。
「悲しいな」
シガンがつぶやいた。きっと、誰かに裁かれたほうが楽だっただろう。コウの頭のなかで死者がどう怒るのか想像する。答えの出ない想像はどこまでも膨らんでいく。それほどつらいことはないし、死んだ人の心を勝手に決めるなんてできないのに。
「……うん、悲しい」
コウはゆっくりと顔をあげる。
「ありがとう、ね」
届かなかったけれど、その手は確かにコウに向けられていた。あのとき、受けとることができればよかったと思う。だから、なかったことにはしたくない。
新幹線をおりて在来線に乗りかえた。アオは窓のむこうに通りすぎる海を眺めながら思いだす。今まではっきりと考えないようにしていたことを。簡単に報告書をあげた後、ムリを言って休みをとった。……弟に会わなければならない。
俺は逃げてしまった。コウの正体から逃げ、コウの聴取からも逃げた。でも、コウは逃げなかった。暗闇と向きあい帰ってきた。自分を吸血鬼にしたものに立ち向かい、決めたことをやり通した。
コウを弟のように思い、シガンを見て成長した姿を思い浮かべていた。彼らが前を向いたのを目にして、アオはようやく弟に会いにいく気持ちになった。すんだことはどうしようもないが、弟と話し、なにかを終わらせたかったのだ。
アオが育ったのは小さな集落だった。山の間にある
そんな生活が変わったのは弟が産まれてからだ。小さな弟は親の言うことをよくきいたからかわいがられた。「ああなったらダメだ」。賢い弟はそのとおりにした。「あいつに近づくな。仲よくするな」。だからアオと弟は仲よくはなかったと思う。
弟が五つのときだったか。「やめて!」。普段叫ぶことのない弟の声が響いた。走って二階にあがってくる。アオが見ると、階段を見おろしておびえていた。弟も殴られたのだとはっきりわかった。階段の下には父と母がいて、弟を追ってのぼってくる。手には……なにか持っていたんだと思う。その顔はもう思いだせない。
アオは弟をかばって手にしていたものを投げた。それは父に当たらなかったけれど、予期せぬ反撃に、酔っていた父は足をすべらせた。そして母を下敷きに階段を転げ落ちていった。
それからどうしたのか、はっきり覚えていない。たぶん、動かなくなった両親を見て誰かを呼んできたのだろう。酒を飲んでいたから事故だということになって、ともかく、アオはなにも言われなかった。アオも混乱していて、弟になんて声をかけていいかわからなくて、どうにか落ちつかせなきゃと思ったのは記憶にある。
「チグサ、もう大丈夫だからな」
弟は、しばらく呆然としていた。兄のほうを見ようとはしなかった。
「……ひとごろし」
最終バスに乗って着いた集落は、二十年前とあまり変わらないように見えた。山ぎわに田畑が並んでいる。空が広く、ぽっかりと空いているようだ。むこうで犬のほえる声がする。アオは住人に顔を見られないようにして山に向かった。
山の上、崖近くに神社があった。竜が去った後、弟宛に手紙を出した。二人だけで会いたいとあったから、日時と「神社で待っていてほしい」とだけ書いた。
この神社には矛と剣、
ナオヒは何かと世話を焼いてくれて、頼りになる男だった。アオを高校に行かせてくれたのはナオヒだ。卒業して弟を食わせなければならなかったアオが働くのを助けたのも彼だった。弟のこともかわいがっていたし、弟だって懐いていた。
そのうちナオヒが結婚して、娘が生まれた。一歳と少しになったころだろうか、ナオヒに会いに来たアオは、彼の家の前の水路にその娘が落ちているのを見つけた。うつ伏せに倒れていて、溺れてしまうとアオは慌てて持ちあげた。娘は水を飲んだらしく、むせてなにがあったかわからないという顔をした。
そこにちょうどナオヒは行きあった。そして、アオが娘を連れ去って殺そうとしたのだと考えた。小さな子がそんな遠くまで行けるはずがないと。違うと言ったが、ナオヒはまったく聞く耳をもたなかった。「親を殺すようなのは信用できない」と。
一度だけナオヒにもらした。「親を殺したのは自分だ」と。彼は話を聞いて「それはおまえのせいじゃない」と慰めてくれた。それなのに、今のナオヒは人が変わったように怖かった。訴えることはしないが、絶縁すると告げられた。
アオはひとりで集落を出た。弟に迷惑はかけられなかった。人殺しの弟と広まれば、この狭い集落に居場所はない。その弟のことだけはナオヒに頭をさげた。
とりあえず少し離れた都市に出て、住むところと仕事を探した。生きていればいいことがある。そううまくはいかなかったけれど、信じるしかなかった。
夜の街をさまよっていると、食人鬼が現れた。逃げ惑う人々のなかに、子供を守る父親を見つける。食人鬼がそちらを見た瞬間、アオは近くから物干し竿をとってきて食人鬼の足に振りおろした。無我夢中で親子が逃げる時間を稼ごうとする。
……できるはずがなかった。すぐに大きな爪がふってきて、アオは避けることもできずにそれを眺めていた。なすすべなく殺されようとしたとき。
食人鬼の腕を一刀で切り落としたのは老年の男。たすきに
後始末が終わった後、男はあの親子が礼を言っていたと教えてくれた。アオは少し救われた気がした。たとえわかってもらえなかったとしても、自分はいいことをしたのだと。人を助けるなら生きていてもいい気がした。
名前を変え、言葉遣いを変え、明るくふるまい、そうして二十年が過ぎていた。
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