5章、旅立ちと帰還

第20話、終わってしまったこと 上

 吸血鬼が去った夜から一週間。鬼害事件は終わった。そのニュースは人々の恐怖をおさめ、すぐに消えていった。きゃあきゃあと子供が笑い転げる声がする。


「傘、折れちまったよ」

「折ったんだろ。雨なんてねえのに持ってくるんだもん」


 学生が連れ立って歩いていく。それを避けて自転車が走りさった。

 その場所は探さなければもう血の痕すらわからず、事件のことなど忘れたかのようだ。道路脇にささやかに供えられた花が首を垂れていた。


 殺された人には身寄りがなかったと聞いた。友人と同僚が葬儀を出したのだと。シガンは悲しむ人がいたのだと思ってやりきれない気持ちになる。それと同時に、悲しむ人がいなければ殺していいというのも違うだろうと首を横に振った。


「……ごめんなさい」


 シガンのマネをしてコウが手をあわせた。どんな形式でもいいが、形を取ることは必要だ。コウはそっと目を閉じて、あの世があればいいと思った。ユエンも誰もあの世を見たことがないという。それでも、彼が救われてほしいと願った。彼の差し出した傘が意味のあるものであって欲しかった。


「悲しいな」


 シガンがつぶやいた。放っておけば、コウは自分で自分を責めるだろう。彼の頭の中で死者がどう怒るのか想像する。答えの出ない想像はどこまでも膨らんでいく。それほどつらいことはないし、死んだ人の心を勝手に決めるなんてできない。


「……うん、悲しい」


 帰り道にカマキリの卵があった。あっちにはミノムシが下がっている。木の枝に小さいカエルと甲虫が突き刺さってひからびていた。みな、それぞれに生きて死んでいく。そして次のものになる。彼らは良くも悪くもない。そういうものだ。


 あの世や来世があるかどうかなんてわからない。でも、あの世のために今生を生きるのも、あの世なんてないからと生きるのも、たいして違いはないように思われた。






 新幹線をおりて、在来線に乗りかえた。アオは窓の外を通り過ぎる山々を眺めながら思い出す。今まではっきりと考えないようにしていたことを。簡単に報告書をあげたあと、無理を言って休みを取った。弟に会わなければならない。


 アオが育ったのは小さな集落だった。山の奥、谷間にある唐犂からすき集落だ。父は酒が入ると殴る人だった。母は見ているだけか、父に従ってアオを責めた。アオは父の言うとおりにしなかったのでよけいに殴られた。


 そんな生活が変わったのは弟が産まれてからだ。小さな弟は親の言うとおりにするのでかわいがられた。「あんなふうになったらダメだ」。賢い弟はそのとおりにした。「近づくな。仲良くするな」。だからアオと弟は仲良くはなかったと思う。


 弟が五つの時のことだ。「やめて!」。普段叫ぶことのない弟の声がした。走って二階にあがってくる。アオが見に行くと、階段を見おろしておびえていた。弟も殴られたのだとはっきりわかった。階段の下には父と母がいて、弟を追ってのぼってくる。手には……何か持っていたんだと思う。その顔はもう思い出せない。


 とにかく、アオは弟をかばって手にしていたものを投げた。それは父にはあたらなかったけれど、予期せぬ反撃に酔っていた父は足をすべらせた。そして母を下敷きに落ちていった。


 それからどうしたのか、はっきり覚えていない。とにかく、動かなくなった両親を見て誰かを呼んできた。酒を飲んでいたことから事故だということになって、ともかく、アオは何も言われなかった。アオも混乱していて、弟にどう声をかけて良いかわからなくて、とにかく落ち着かせなきゃと思ったのは覚えている。


「チグサ、もう大丈夫だからな」


 弟は、しばらくぼうぜんとしていた。兄のほうを見ようとはしなかった。


「……ひとごろし」






 バスに乗って着いた集落は、あまり変わっていないように見えた。二十年前と同じように、山ぎわに田畑が並んでいる。空が広く、ぽっかりと空いているようだ。住人に顔を見られないようにして山に向かった。犬のほえる声から身を隠すように、山を登っていく。


 山の上、崖の近くに小さな神社があった。隅江すみのえ神社、三つ星の紋が懐かしい。あの後、弟あてに手紙を出した。弟は二人だけで会いたいと書いていたから、日時と「神社で待っていてくれ」とだけ書いた。


 神社では矛と剣、を使って神楽をする。アオも矛を持って舞った。神楽をアオに教えてくれたのは表瀬ヨウカクだった。ヨウカクは両親を亡くした兄弟の面倒をよく見てくれた。当時二十くらいだったか、ずいぶん大人に見えたものだ。「生きていればいいことあるからな」と言ってはげましてくれた。


 ヨウカクは何かと世話を焼いてくれて、頼りになる男だった。神さまのようとさえ思った。アオが高校に行くことができたのはヨウカクがいたからだと思っている。弟を食わせなければならなかったアオが働くのを助けたのもヨウカクだった。弟だって懐いていた。


 そのヨウカクも結婚して、娘が生まれた。その娘が一歳半になった時だ。ヨウカクに会いに来たアオは、家の前の水路にその娘が落ちているのを見つけた。うつ伏せになっていて、溺れてしまうとアオは慌てて持ち上げた。娘は水を飲んだらしく、むせては何があったかわからないと言う顔をした。


 そこをちょうどヨウカクは見た。そして、アオが誘拐して殺そうとしたのだと考えた。赤子がそんな遠くまで行けるはずがないと。違うと言ってはみたが、ヨウカクは聞き入れなかった。「親を殺すようなのは信用できない」と。被害がなかったため訴えることはしないが、縁を切ると告げられた。


 アオはひとりで集落を出ることにした。弟に迷惑はかけられなかった。ひとたび人殺しの弟ということになれば、この狭い集落に居場所はない。その弟のことだけはヨウカクに頭を下げた。もともとヨウカクは弟をかわいがっていたので信頼できた。


 さしあたって都市に出たあと、名前を変えて仕事を探した。生きていればいいことがあると信じた。

 夜の街をふらついているとき、食人鬼が出た。逃げ惑う人のなかに、子供を守る若い父親を見つける。食人鬼がそこに爪を立てようとしたとき、アオは近くから物干し竿をとり食人鬼の背中に振り下ろした。無我夢中で親子が逃げる時間を稼ごうとする。


 ……そんなことできなかった。すぐに大きな爪が降ってきて、アオは避けることもできずにそれを眺めていた。

 食人鬼の腕を一刀で切り落としたのは老年の男。たすきに袴といったその当時でも珍しいいでたちで打刀を返した男は、なめらかに食人鬼の首を切り落とし、再生しはじめたと見るやすぐさま頭を平突きにした。塵の中、アオは男から目を離せなかった。


 もろもろの始末が終わったあと、髪の薄い男はあの親子が礼を言っていたことを教えてくれた。アオは少し救われた気がした。たとえわかってもらえなかったとしても自分はいいことをしたのだと。人を助けるなら、生きていてもいい気がした。

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