第32話、死からのおかえり 下
「アオ、どこ?」
呼んだ声は闇にまぎれ、響くことなく消えた。返ってくる声はない。「アオ」。コウは黒のむこうにアオを見つけようとする。透明な暗闇が一瞬、揺らいだ。それはコウの知るアオよりずっと弱弱しかったが、確かにアオだった。
「アオ!」
コウは大声で呼びかける。はっきりしない揺らぎに手を伸ばす。指が触れたところから、ぼんやりとアオの形が見えてきた。ぎゅっと体を丸めている。「アオ」と呼ぶと、彼はゆっくり首をあげてコウを見た。その目は虚ろでコウを通りすぎる。
「アオ、帰ろう? みんな待ってるから、帰ろうよ」
コウの手が優しくアオの輪郭を包んだ。ほかになにもないところで、それだけが確かにあった。アオは動かない。こんなアオは見ていられなかった。
「一緒に帰ろう?」
そのとたん、逆に手をつかまれた。強い力で引き寄せられる。アオの表情が変わる。ひきつって歪んでいる。おまえもここにいてくれ、そうでなければ許さないというように。アオのこんなひどい顔、見たことがなかった。
「……力くらべなら、負けないから」
つかまれた手をつかみかえし、力ずくで引っぱる。アオの体がぐらりと傾き、コウのほうに動いた。しっかりとアオの手首を握りしめて、そのまま来た方向に戻る。コウは顔をあげ、前を向いた。後ろを振り向かずに走る。
後ろから暗いもやのような手が追ってきた。コウは足をからめとられて転びそうになった。ぐらついた拍子に、ポケットから潰れたドングリが落ちる。空間を転がるドングリをとりあうように、黒い手は離れていった。
その瞬間、足が軽くなった。闇に追いつかれないように走る。アオの手を離すまいと、つかむ指に力を入れた。アオがつらそうにうめいた。コウは思わず振りかえろうとして、慌てて前を見る。出口はまだ見えない。でも、きっとこの先にある。シガンとユエンが待っている。
また黒い手が迫ってくる。コウを闇に引きこもうとしたとき、ポケットからおまもりがするりと落ちた。その手は、おまもりをつかんで消えていった。
コウはもっと走る。まだ着かない。あとどのくらいかかるんだろう。振り向きそうになって唇を噛んだ。さらに走った。もう足が動いているのかもわからない。アオの手がすり抜けそうになって、固く握りなおした。
「コウ! こっちだ!」
声とともに、暗闇に丸く光の穴が空いた。その光から両手が伸びてくる。コウはなにも考えられなかった。呼ばれるまま、ひたすらそちらに向かう。
背後から闇のような手が押し寄せてきた。手はコウを捕まえようとして髪をつかんだ。するりと赤い髪ゴムが抜け、真っ黒な手はそれだけをとって去っていく。
コウは片手を光に伸ばす。シガンの手が手に触れた。そう思ったとたん、一気に引きあげられた。
気がついたら床に転がっていた。アオの部屋だった。コウが引っぱってきた手の先を見ると、ぐったりとアオが倒れている。触れれば浅く息をしていた。右腕は食人鬼のように筋が浮きあがり、乾いた死体の色になっている。それがびくびくと震えて暴れだそうとした。アオが苦しげにうめく。
「よし、よくやったぞ」
ユエンはアオの右腕を押さえ、左手の薬指に銀の指輪をむりやりはめた。吸血鬼除けの銀貨を伸ばしたものだ。指の根本まで押しこんでぎゅっと輪を小さくすると、右腕はびくりと跳ねて動くのをやめた。薬指は心臓とつながる指であり、心臓とは人間の心の
「これで大丈夫だろう。おい、アオ、起きるといい」
「う、ん……」
ユエンが乱暴に肩を叩くと、アオはゆっくりと目を開ける。一度痛みに顔をしかめ、うなって体をよじる。それから事情が飲みこめないという顔で部屋を見まわした。アオの記憶は公園でとぎれている。暗い視界でコウに呼ばれたような気がするが……。
「アオ、ごめん!」
コウが倒れたアオの上に乗りかかって、血だらけのシャツにしがみつく。泣きそうな顔で「ごめん」と繰りかえした。
「アオは悪くないの」
その言葉にアオの息が一瞬止まった。それはコウが何者であるかという話につながる。そうとわかったことがよいことなのか悪いことなのかわからず、言葉が見つからないまま、アオは右半分が灰色に変わった顔をシガンに向けた。
「そういうことだ。……悪かった」
「……そっかあー」
アオがゆっくりと息を吐きだす。気づいてしまったのだ、アオもシガンも。もしかしたら、コウ自身もようやくわかったことなのかもしれない。
今思えば、最初からおかしかった。ユエンに聞きたいことがある。しなければならないことも。だけど、まず言うべきは。
「ありがとう、コウくん。ごめんな。シガンさんも……左手……」
「いいよ、たいしたケガじゃない」
「だけど、利き手だろ?」
「ぼく、もともと右利きだし。……どうする? 風呂入ってから寝るか?」
いつもどおりの口調で聞かれ、アオは「はは……」と力なく笑った。どうがんばってもこれ以上、指一本動かせる気がしなかった。だるそうに目と口だけで答える。
「動けん……」
「わかった。ふとん敷くから待ってろ」
シガンがふとんにむりやり押しこめれば、アオはそこに丸まって眠った。やらなければならないことはあるけれども、それは明日でいい。寝て起きたら全部解決しているなんてことはないが、きっと今日よりうまくいくだろう。そう願った。
「ゆりかごゆらゆら。おやすみなさい……」
電灯を消した部屋でコウがひとり歌っている。手をアオにかぶせ、リズムをとって軽く叩きながら。やがて覆いかぶさるようにして一緒に眠ってしまった。シガンがそうっと抱きあげて、コウを隣のふとんにいれる。コウは少し身じろいだが、かけぶとんをかけてやるとそのまま眠りについた。
「これでひとつは片づいたわけだ」
「よく言うよ」
キッチンで、ユエンとシガンがひそひそと話している。シガンは右手でコップを持って水を飲む。中学生のころ左利きに訓練した。左利きのほうが芸術的なセンスがあると誰かが言っていたから。そんなことが懐かしく、バカらしく思えた。
「……ひどいじゃないか」
「ひどい、とは? 邪視でコウの正体を隠したことか?」
悪気なく言い切ったユエンに、シガンは顔を固くしたままだ。ユエンは妖精で、コウはシガンを傷つけた吸血鬼で、そのほかに多くの人を襲った吸血鬼がいる。そこまではわかったが、どうもすっきりとしない。軽んじられていたようで腹がたつ。
「やられた側に、やったやつの面倒をみさせるなんてひどい、と言っている。勝手に子供を連れてきて住むこともだ」
「そうか」
「あの子には誰かが必要だったんだろ? それはわかった。でも、ぼくの気持ちを考えていない」
ユエンのほうは当然わかっているというようにうなずいた。
「私は、もしシガンが気づいてあれを消し去るようならそれでもいいと思った。それは相応の報いだろう?」
「おまえ、そういうところが……」
シガンは言いかけて、途中でため息に変えた。ユエンは人間ではないと先ほど納得したはずだ。神を名のるなにかは彼女なりに人間を好んでいるが、人間のように感じることはないのだろう。
「ひどいか。『すまなかった』……このやりかたであっているだろうか」
シガンの眉がぴくりと動いたが、言葉にならなかった。それは人間の言葉をマネしているだけだ。本心からすまないと思っているわけではない。それでも謝ってきたものをそれ以上とがめるのは気が進まなかった。シガンは苛立ちまぎれに吐き捨てる。
「そんなこと言われたら、責められなくなるだろ。おまえはずるい」
「そうか? 思うように怒ればいい。それは私の態度とは関係がないだろう?」
「そういうところだぞ……」
シガンは頭を抱えた。それからこう思いなおす。人間同士だってなにを思っているか、なにを考えているかわからないことばかりだ。ましてや妖精のことなんて。
「……吸血鬼は強くて怖いものだと思っていたよ」
「人間のほうがよっぽど強くて怖いだろう。弱くて臆病だからここまで繁栄した」
それを聞いてシガンの目尻がさがった。自分は怖がりで情けないと思っていたが、それでもいいのだろうか。こんな自分にもできることがあるのだろうか。……そして、これからの話に思い至った。
「それで、コウをどうする気だ?」
「人として死にきれず迷うものだから私は守った。私はそういう神だからな。だが、あれは自分が人ではないことに気づいた。きちんと人として生きて死んできた。人でなくなれば私の領分ではない」
「見捨てる気か」
「手放すのさ。ひとりで歩いていけるように。まあ、たまにつまずくだろうが」
シガンはユエンから視線をそらし、そっと息を吐きだした。
「コウが……これからどれだけ『いい人』になったとしても、何かにつけて『あのとき、襲いやがってこのやろう、ふざけんな』って思うんだろうな、ぼくは。きっと、ずっとそうだ。いつだってそれがひっかかって『それでもいい』とは思えない」
「そうか」
ユエンは肯定も否定もしなかった。シガンは大げさに天井を仰いでみる。
「それでも、今、ぼくからなにかしようとは思わない。あいつにはしあわせになってほしい。それをジャマはしない。でも、できれば、ぼくの目の届かないところでにしてほしい。……それは、ぼくの勝手だけど」
ユエンはもう一度うなずいて、そっと話題を戻す。
「組合や鬼害対には話さなければならない。アオはきっとそう言う」
「ああ」
「その後は竜の小童に頼む。協力とひきかえにな。あれは吸血鬼の始祖だ。やつに吸血鬼としての生きかたを学べばよい。あいつらは人をわかっているし、人間に害を及ぼすこともそうはない。人間がよしとするなら、そのうち引き渡す」
「……それ、コウには言ったのか?」
「いや?」
ユエンが来てから三ヶ月、一番の大きなため息が出た。
「だから、そういうところだ。クソ神さまが」
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