第16話、死からのおかえり 下

「アオ、どこ?」


 呼んだ声は闇にまぎれていった。ひとつも反射することなく、消えた。返ってくる声はない。「アオ」。コウは黒の向こうにアオを見つけようとする。透明な暗闇に一瞬ゆらいだものがあった。それはコウの知るアオよりずっと弱っていたが、確かにアオの形をしていた。


「アオ!」


 大声で呼びかける。それと同時に、そのゆらぎに手を伸ばす。あやふやな存在に指が触れると、ぼんやりとアオの形をつくった。そこでぎゅっと体を丸めている。「アオ」ともう一度呼ぶと、首をあげてコウを見た。その目はうつろでコウを通りすぎる。


「アオ、帰ろう? みんな待ってるから、帰ろうよ」


 コウの手が優しくアオの輪郭を包んだ。他に何もないところで、それだけが確かにあった。アオは動かない。こんなところにアオがずっといるなんて、嫌だった。


「一緒に帰ろう?」


 そのとたん、逆に手をつかまれた。強い力で引き寄せられる。アオの表情が変わった。大きくひきつってゆがんでいる。一緒にここにいてくれというように。アオのこんなひどい顔、見たことがなかった。


「……力くらべなら、負けないから」


 つかまれた手をつかみ返して、力ずくで引っ張る。ただの人間が吸血鬼にかなうはずもない。アオの体がぐらりと動いた。しっかりとアオの手首をにぎりしめ、そのまま来た方向に進む。コウはしっかりと顔をあげ、前を向いた。後ろを振り向かずに走る。


 後ろから暗いもやのような手がいくつも追ってきた。その手は伸びてからみついてくる。足をからめとられて転びそうになった。コウがぐらついた拍子に、ポケットから潰れたドングリが落ちる。空間を転がっていくドングリを取り合うように、その手は離れておった。


 そのとたん、足が軽くなった。闇に追いつかれないように走る。アオの手を離さないように、つかむ指に力を入れた。アオがつらそうにうめいた。コウは思わず振り返りそうになって、あわてて前を見る。出口はまだ見えない。でも、きっとこの先にある。シガンとユエンが待っている。


 また黒い手がせまってくる。コウの腰まできて引きこもうとした時、ポケットから今度はおまもりがするりと落ちた。絡みつこうとした手は、おまもりから逃げるように離れていく。


 コウはもっと走る。まだ着かない。あとどのくらいかかるんだろう。振り向きそうになって唇を噛んだ。さらに走った。もう足がまともに動いているのかわからなくなってくる。アオの手がすり抜けそうになって固く握りなおした


「コウ! こっちだ!」


 その声とともに、暗闇に丸く光の穴が空いた。その光から両手が伸びてくる。コウはなにも考えられなかった。呼ばれるまま、ひたすらそちらに向かう。

 その時、背後から黒い手が押し寄せてきた。手はコウをつかまえようとして頭に触れた。するりと赤い髪ゴムが抜け、黒い手はそれだけを取っていく。


 コウは片手を光に伸ばす。シガンの手が手に触れた。そう思ったとたん、一気に引き上げられる。






 気づいたら畳に転がっていた。アオの部屋だった。コウが引っ張ってきた手の先を見ると、ぐったりとアオが倒れている。あわてて触れれば、浅く息をしていた。その右腕は食人鬼のように筋が浮きあがり、乾いた死体の色になっている。それがびくりと跳ねて暴れようとした。アオが苦しげにうめく。


「よし、よくやったぞ」


 ユエンはその右腕を押さえ、左手の薬指に銀の指輪をむりやりはめた。吸血鬼よけの銀貨を伸ばしたものだ。根本まで押し込んでぎゅっと輪を小さくすると、右腕はびくりと跳ねて動くのをやめた。薬指は心臓とつながる指であり、心臓とは人間の心の要だ。そして銀は吸血鬼を寄せつけない。少なくとも人間たちはそう信じている。


「これで大丈夫だろう。おい、アオ、起きるといい」

「う、ん……」


 ユエンが乱暴に肩を叩くと、アオはゆっくりと目を開ける。一度痛みに顔をしかめ、うなって体をよじる。それから事情が飲み込めない顔で部屋を見まわした。アオの記憶は公園でとぎれている。暗い視界でコウに呼ばれたような気がするが……。


「アオ、ごめん!」


 コウが倒れた上に乗っかって、血だらけのシャツにしがみつく。泣きそうな顔で「ごめん」と繰り返した。


「アオは悪くないの」


 その言葉にアオの息が一瞬止まった。言葉が見つからないまま、視線がシガンに向けられる。それはコウが何者であるかということに繋がる。そうとわかったことが良いことなのか悪いことかわからず、アオはあいまいにシガンを見つめた。


「そういうことだ。……悪かった」

「……そっかあ」


 ゆっくりと息を吐き出す。気づいてしまったのだ、アオもシガンも。もしかしたら、コウもようやくわかったことなのかもしれない。今思えば最初からおかしな話だった。いろいろユエンに聞きたいことはある。しなければならないことも。けれども、まず言うべきは。


「ありがとう、コウ。ごめんな。シガンさんも……左手……」

「いいよ、たいしたケガじゃない」

「だけど、利き手だろ?」

「ぼく、もともと右利きだし。……どうする? 風呂入ってから寝るか?」


 いつもどおりのような口調で聞かれ、アオは「はは……」と力無く笑った。どうがんばってもこれ以上指一本動かせる気がしなかった。だるそうに目と口だけで答える。


「動けん……」

「わかった。布団敷くから待ってろ」


 シガンが敷いた布団にむりやり押し込めれば、アオはそこに場所を作るように丸まって眠った。やらなければならないことはあるけれども、それは明日でいい。寝て起きたら全部解決しているなんてありえないが、きっと今日より上手くいくだろう。そう願った。


「ゆりかごゆらゆら。おやすみなさい……」


 電灯を消した部屋でコウがひとり歌っている。手を優しくアオに被せ、軽くリズムをとって叩きながら。そのうち覆い被さるようにして一緒に眠ってしまった。シガンがそうっと抱き上げて、コウをとなりの布団にいれる。少し身じろぐが、掛け布団をかけてやるとそのまま眠りについた。






「これでひとつは片づいたわけだ」

「よく言うよ」


 少し離れたキッチンで、ユエンとシガンがひそひそと話している。シガンが右手でコップを持って、水を飲む。中学生の頃、左利きに訓練した。左利きのほうが芸術的なセンスがあると誰かが言っていたから。そんなことが懐かしく、バカらしく思えた。


「……ひどいじゃないか」

「ひどい、とは? 邪視でコウの正体を隠したことか? そうだな、人間にしてみれば悪いことだ」


 悪気なく言い切ったユエンに、シガンは顔を固くしたままだ。ユエンは妖精で、コウはシガンを傷つけた吸血鬼で、その他に多くの人を襲った吸血鬼がいる。そこまではわかったが、どうにも釈然としない気分だ。軽んじられていたようで腹が立つ。


「やられた側に、やったやつの面倒をみさせるなんてひどい、と言っている」


 人の家に勝手に子供を連れてきて住むようなマネもだが、ユエンの行為は決していいことではない。……もっとも人間からすればだ。神はそんな人間ひとりのことなど考えもしないのだろう。


「そうか」

「あの子は一度、誰かに守られなければならなかったんだろ? それはわかった。でも、ぼくの気持ちを考えていない」


 ユエンのほうは当然わかっているというようにうなずいた。


「私は、もしシガンが気づいてあれを殺すようならそれでもいいと思ったよ。それは相応の報いだろう?」

「おまえ、そういうところが……」


 シガンは言いかけて、途中でため息に変えた。ユエンは人間ではないと先ほど納得したはずだ。神を名乗る何かは彼女なりに人間のことを知っているし好んでいるが、人間のように感じることはないのだろう。


「ひどいか。『すまなかった』……このやりかたであっているだろうか」


 シガンの眉が何か言いたそうに動いたが、言葉にならなかった。それは人間の言葉をマネしているだけだ。本心からすまないと思っているわけではない。それでも一応謝ってきたものをそれ以上とがめるのは気が進まなかった。シガンはいらだちまぎれに吐き捨てる。


「そう言われたら、これ以上責められなくなるだろ。おまえはずるい」

「……そうか? 怒っていいと思うが」

「そういうところだぞ……」


 シガンは頭を抱えた。それからこう思い直す。人間同士だって何を思っているか、何を考えているかわからないことばかりだ。ましてや妖精のことなんて。


「……吸血鬼はすごく強いものだと思っていたよ。怖いものなんてないんだろうって」

「吸血鬼は強くなければ存在できない。弱くても怖くても生きていく人間のほうが強い」


 それを聞いて、少しだけシガンの目尻が下がった。怖がりな自分は情けないと思っていたが、それでいいのだろうか。……そして、これからどうしようかという本題を思い出した。


「コウをどうする気だ?」

「人として死にきれず迷うものだから私は守った。私はそういう神だからな。だが、あれは自分がもう人ではないことに気づいた。きちんと人として生きて死んできた。人でなくなれば私の領分ではない」

「見捨てる気か」

「手を放すのさ。ひとりで歩いていけるように。まあ、たまにつまずくだろうが、それもよい」


 シガンは口を曲げて考えた。そしてユエンから視線を外して、そっと息を吐き出す。「それもよい」と簡単に言えない自分がいた。


「あの子が……これからどれだけ『いい人』になったとしても、何かにつけて『あのとき襲いやがってこのやろう、ふざけんな』って思うんだろうな、ぼくは。きっと、ずっとそうだ。いつだってそれが引っかかって『それでもいい』とは思えない」

「そうか」


 ユエンは肯定も否定もしなかった。けれどもシガンは自分でも自分の気持ちに納得できないのだと大げさに天井を仰いでみる。


「それでも、今、こっちから何かしようとは思わない。できれば、あいつにはしあわせに生きてほしい。それをジャマはしない。でも、できればぼくの目の届かないところでにしてほしい。……ぼくの勝手だけど」


 ユエンはもう一度うなずいて、そっと話題を戻す。


「どうするか、か。組合や鬼害対には話さなければならないだろう。アオはきっとそう言う」

「ああ」

「その後は……竜の小童に頼んだ。この事件の協力とひきかえにな。あれは吸血鬼の始祖だ。竜に従って吸血鬼としての生きかたを学べばよい。あいつらは人のことをわかっているし、人間に害を及ぼすこともない。人間がよしとするなら、そのうち引き渡す」

「……それ、コウには言ったのか?」

「いや?」


 ユエンが来てから一番の大きなため息が出た。


「だから、そういうところだ。クソ神さまが」

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