4章、将来への取り引き

第16話、死からのおかえり 上

 コウはゆっくりと黒の中に沈んでいった。闇はただずっとそこに広がっている。コウが生まれる以前から、死んだ後までずっと同じようにそこにある。そんな気がする。


 いくつかの光が見えた。それはどんどん近づいてくる。夜を照らす街路灯だ。公園の近くの路地を男の子二人が歩いている。その向こうに吸血鬼がいた。金色の毛のオオカミのようなそれは、光のあたらない影から男の子たちが笑いあっているのを見ている。


 コウはその獣の気持ちがわかる気がした。男の子が楽しそうだと思った。なんであいつらは笑っていられるんだろう。どうして「わたし」がこんなになにもないのに全ては何事もなく存在しているのだろう。許してはならないと思った。「わたし」が苦しいのなら、みんな苦しむべきだ。


 そんな気持ちが湧きあがるまま飛び出していき、気がついたら爪に柔らかい肉を裂く感触があった。コウは思わず自分の手をにぎった。赤色が散る、悲鳴があがる。押し倒されたその首にするどい爪が触れた。コウはそれを止めたかった。けれども、体が動かなかった。


 その光景はコウなどいないもののように展開していく。これはコウの記憶だ。いや、記憶よりもっと深いところで覚えていることだった。いまさら変えようのない、もう終わってしまったことだった。


 離れたところから笛が鳴って、吸血鬼は首をもたげた。その目はひどく怒っていて、見るもの全てが気に入らないと言っていた。とにかく彼らをずたずたにしてやらなければ気がすまなかった。「わたし」は知らなかったから、そこにそれがあってはいけなかった。


「よう。はじめまして、こんばんは。いい夜かな?」


 やってきたアオに、うなって吠えた。近寄るなというように。その人間が怖かった。獣は逃げようと地面を蹴る。けれども矛の方が早く伸びて、その肩をえぐった。


 逃げられない。おかあさん助けて。吸血鬼はアオに向きなおって飛びかかる。爪のついた手を伸ばし、引き裂こうとした。ただ嫌だった。それを表す言葉を他に知らなかった。


 ぷつんと一本、紐が切れて青いビーズが散らばった。ユエンのネックレスだったビーズはばらばらと闇に落ちて見えなくなった。そこでその風景はとぎれ、暗がりに消えていく。コウは残ったネックレスを握りしめる。進まなければ。アオを助けなければならない。






 また光が揺らいだ。その記憶はコウを迎え入れる。見たくないと思った。けれど、そうしなければここを通ることができないこともわかっていた。


 そのとき、「わたし」はひとりきりでさびしくて吠えた。赤い月が見ていた。おまえは悪い子だと言っていた。おかあさんを見捨てて逃げた悪い子だと言われているようだった。怖くなって、いても立ってもいられなくて走った。早くおかあさんを見つけて、いい子だよって言われたかった。


 トンネルを男がひとり歩いている。コウにはすぐにそれがシガンだとわかった。シガンはうつむきぎみに歩いてきて、ふっと顔をあげた。目があった。見つかったと「わたし」は思った。シガンは気づいていなかっただろうとコウは思う。けれども「わたし」は悪いやつだと思った。おかあさんが言っていた、外にいる悪いやつだと。


 これを壊せば、おかあさんはきっと帰ってきてくれる。闇夜から抜けて、通り過ぎるその背中に爪を食い込ませた。悲鳴は出なかった。驚いたようなうめき声がもれただけだ。上にのしかかって深くえぐる。そうだ、こうすればおかあさんは喜んでくれる。男はうめいてもがいていた。早く動かなくしなければ。


 笛が鳴った。そちらを見ると、棒を持った人形がいた。人形が「わたし」を見た。それは「わたし」が悪いと怒っていた。慌てて「わたし」は逃げる。暗い闇のなかにぽっかりと白い月だけが浮かんでいた。


 コウは「わたし」の逃げた暗がりをじっと見ていた。ネックレスの紐が切れた。青い陶器のビーズが散らばって闇に消えていく。コウはそっと息を吐いた。アオがいるのはもっと奥底、死に近い部分だ。そこで何を見ることになるのだろうか。






 さらに深く沈んでいく。どこまで来たのかなどとうにわからなかった。ときどきアオを助けにいくことも、シガンとユエンが待っていることも忘れそうになり、必死で覚えていようとした。


 街の影に「わたし」はいた。ずっとさまよっていた気がする。おかあさんがいなくて、おかあさんが言っていた悪いやつだってどこにもいなかった。同じ顔をした人形がたくさん歩いているだけだった。人形は「わたし」に気づかず歩いていく。


 そんなとき、おかあさんを見つけた。細い道をひとり歩いている。よかった、やっと見つけた。もう大丈夫だよ。「わたし」を見たおかあさんは悲鳴をあげた。転ぶように走って逃げようとする。思わずその足にすがりつく。皮膚がやぶれて血がしたたる。また悲鳴。はって離れていこうとする。どうして逃げるの。


 足をにぎりしめると、ぼきりと音がして中身が折れた。おかあさんは泣きじゃくって暴れる。それを上から押さえつける。なんでわかってくれないの。


「母さん!」


 声がした。クナドだとコウは知っていた。クナドはなにも持ってないのに、かけよってきてそれを追い払おうとする。それはあわてて女の人から離れた。おびえたようにクナドを見て後ずさり、建物の陰へと消えていく。


 違う、「わたし」のおかあさんなのに。「わたし」だけの。なんで「わたし」から離れていくの。腹が熱くなる。おかあさんは「わたし」を嫌いになったんだろうか。わたしがおかあさんを見捨てて逃げた悪い子だからだろうか。


 コウの手からばらばらとビーズがこぼれて黒色に隠れていく。そこでこの記憶は終わりだ。






 暗闇に粒がきらきらと光った。夜の雨だった。その子供は道路の隅にしゃがんでいた。その子はどうしたらいいのかわからなかった。おかあさんは「外には悪いものがいっぱいいる」と言っていたから。


 雨のなかを男がひとり通りすぎようとして、ぎょっとして戻ってきた。なんでこんなところにとでもいうように。とっさに自分のビニール傘を子供の上にかざす。ばらばらと雨粒の当たる音が響いた。子供はゆっくりと頭を上げて男を見た。


「どうしたんだ? 大丈夫か?」


 子供は答えない。初めてみたかのように目を丸くしている。


「ええと、おうちどこ? おうちの人いる?」


 答えない。じっと男を見上げている。


「うーんと、そうだ、警察呼んだほうがいいかな? もしかしてケガしてる?」


 けいさつ。警察は悪いもの。見つかったらどこかに連れていかれておかあさんと会えなくなっちゃう。子供は手を押しのけた。「大丈夫だよ」。ちょっとおどろいた後、また手が近づいてくる。子供がその手をふりはらったとき、ざっくりと肉を切った感触があった。暗がりに血が舞って、水たまりに落ちてじわりと溶けていった。


 突然の痛みに男は思わず手をひっこめた。手を出しておいて逃げるのか。その態度がむかむかとして壊してやりたいと思った。勢いよく、男の肩に手を振り下ろした。血。固い肉のかたまりが裂かれる感触。子供の心がざわつく。そうか、これが「気持ちいい」んだ。


 ……「わたし」は強くなった。おかあさんはもう「わたし」を守らなくてもいい。急に自分がすごいものになった気がした。なんでもできるようになった気がした。強くなって外の悪いものをやっつけたら、おかあさんはしあわせになれる。


 男は子供を転がるように逃げだした。子供の青い目に虹色が浮かぶ。距離感が狂う。男の足がもつれて転んだ。起きあがろうとしたその脇腹を子供が蹴って、濡れた路面に叩きつけた。背中をついた男が必死で逃げようとしたが、足が進まなかった。

 子供は男の腕を引き寄せ、顔をとがった爪のついた手でつかんでぐしゃりと潰した。そのまま乱暴に首をねじり切って投げ捨てた。首が赤の混じった水を跳ね上げる。


 金色の獣はにんまりと笑った。そこに残された傘をつかんで首に叩きつける。首をぐしゃぐしゃに踏みつけて、骨もシャフトも折れ大きくひしゃげるまで壊した。すごくいい気分だった。


 紐が切れて、コウはようやくこれが「今」ではないと思い出した。ビーズの小さな青が水たまりだった黒色に沈んでいく。コウは一本だけ残ったネックレスをにぎった。のどがつかえて苦しいと思った。泣いて叫ぼうとしても声が出なかった。


 コウは暗がりでひとり、なにもないところを見ている。泣いて元に戻るならそうしただろう。なかったことになるのならそうしただろう。黒色はそれを受け入れなかった。誰が知らなくてもコウだけは知っていて、忘れても消えることはない。

 今は進まなければ。そこにあるとわかっているのだから、怖くはなかった。






 ぼんやりと薄暗い部屋。その真ん中に子供がひとり座っていた。部屋には布の巻かれた電灯、木のつみき、パズル、絵本、テーブルの上にはどろどろになった何かの食べ物。おかあさんは「あなたのために、いいものでつくったの」と言った。


 子供が物心ついた頃からカーテンが開けられた時などなかった。その向こうには悪いものがいて、見つかると食われてしまうのだ。外に出てはいけない。見てもいけない。おかあさんがそう言っていた。さっきまでざあざあと怖い音がしていたけれど、今は聞こえない。


 でも、今、おかあさんはいない。急に思いついたように手が動いた。カーテンをめくると、ガラスの向こうに青い空があった。本当に青いんだと思った。そしてがっかりした。もっときれいな青だと思っていたから。青のなかに虹が見えた。絵本のように鮮やかじゃなかった。

 ぼんやりと浮かび上がった虹は嫌だった。今にもなにか悪いことがおこりそうだった。おかあさんとの生活が変わってしまうんじゃないかと不安になった。


「なにしてるの!」


 勢いよくカーテンが閉められた。おかあさんが怒った顔で立っている。怒らせてしまった。「わたし」が悪い子だから。おかあさんは悪い子が嫌いだ。


「これだからオトコノコは……」


 苦々しい言葉が漏れる。「わたし」はオトコノコだからおかあさんを悲しませてしまう。


「私が悪いのかしら? どうしたらいいの……こんなにだいじに守っているのに。なんでわかってくれないの……?」


 それはしだいにすすり泣きに変わった。


「わたしが悪い子だから。おかあさんは悪くないの」


 子供がおどおどと謝ると、おかあさんはぱっと優しい顔になる。にこにことして子供を抱き寄せ、頭をなでた。


「外は怖くて、悪いものがいっぱいなんだから。警察が来たらさらわれちゃうの。もう会えなくなるのよ。だから勝手なことしたらダメ。おかあさんのジャマしないでちょうだいね」

「うん。わかった」


 おかあさんの言うとおりにしていれば大丈夫。だけど、おかあさんは「わたし」を守らなければならなくて大変なんだ。強くなれば助けてあげられるのにと思った。外の悪いのをみんなやっつけて、そうしたらきっと喜ぶだろう。


「そうね。あなたは、いい子だもの」


 そう、「わたし」はいい子だ。最近、おかあさんは吸血鬼が出たと喜んでいた。吸血鬼はオオカミみたいで、太い爪があって、とがった牙があって、キラキラ金色に光る毛を持っていて、大きくてきれいな目をしている。そして悪いやつを食べちゃう。吸血鬼が外の悪いやつを全部食べてくれて私たちは救われるのだと言った。


「さあ、祈りなさい。吸血鬼さまが来てくれるように」

「うん」

「きっとしあわせになれるから」


 子供は言われたとおり、手をあわせて祈った。吸血鬼が来てくれるように。

 部屋のゆがんだ鏡に映る、おかあさんの背中がぐるりと揺らいでねじ曲がった。それはぬるりと抜け出してきて、いくつもある大きな目と口を開いてみせた。


 コウの手からネックレスが落ち、最後のビーズが闇に溶けていった。あとはもう、何もなかった。このどこまでも広がる暗闇の中で、コウはただの塵にすぎなかった。ここではどんなものもそうなのだ。


 でも、今のコウにはやることがあったから。どこまでも冷たく透き通るような心の中をおりていく。

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