第30話、ぼくのやったこと 下
「コウ、お風呂入るぞ。寒いだろ」
シガンの服は血で汚れている。冷え切った体を震わせて脱衣所に入った。
あの後、組合にはシガンが通報した。やってきたナヨシに食人鬼とアオのことを話す。左手のケガのことも聞かれたが、浅く切られた程度で問題はなかった。
コウのことも話さなければならないけれど、もう少し待ってほしいと思う。コウがシガンの後ろからナヨシを見つめた。虹の色が違和感を遠ざける。ナヨシはそれ以上聞かなかった。二人を家まで送った後、折れた矛と短刀を持ってオフィスに帰った。
「ほら、脱いで」
「……うん」
コウとお風呂に入るのはアオの仕事だったから、シガンとは初めてだ。シャツを脱いだシガンの背に、コウは見た。傷。大きな引っかき傷がいくつも。皮膚はくっついているが、赤みがあって薄く光ってみえる。その周りが少し盛りあがって、ひきつれたようにしわを作っていた。
思わずコウは後ろから抱きつこうとする。不意に傷に触れられて、びくりとシガンの体が震えた。耐えるような呼吸。触られたくないと緊張する。コウは慌てて手を離した。振りかえったシガンは怒るでもなく安心させるように笑ってみせた。
「ごめんなさい」
コウがそっとシガンの腕に触れると、肌の奥に血を感じた。爪を入れたら簡単に切り裂けるだろう。それだけの力が自分にあることを、コウはもう知っていた。
「シガンはだいじ。だから、いたいのはいや」
言った言葉に、ずんと胸が重くなる。
「ぼくはわるい子だ」
「……そっか。悪いことしたんだな」
シガンは静かにそれだけを返した。コウの肩を抱いて風呂場のドアを開ける。
「コウ、助けてくれてありがとう。さ、風呂入るぞ」
頭を洗ってコウは目の前の鏡を見た。コウの姿は鏡に映っていない。奥のドアだけがそのまま見える。シガンからは鏡に映ったコウが見えているのに。
風呂からあがった二人は新しい服に着替えた。シガンはコウの髪をタオルで拭き、とかしてまとめた。いつものように三つ編みにして赤いゴムでとめる。
「……よくがんばった」
キッチンに戻りながら、シガンはまだ湿っている頭をなでてやった。泣きそうな顔なのが背中からでもわかった。「う……ぁ……」押し殺した声が響く。怖かっただけではない。彼なりに思うことがたくさんあるのだ。
「ごめん、『やめろ』だなんて……。おまえがケガしてもいいってわけじゃないんだ」
開けっぱなしのシガンの部屋が見えた。部屋にはあの絵が転がっている。慌てて外に出たとき放り投げた、そのままだ。絵だけがなにも変わらずにある。
「シガン、ごめんなさい」
金の毛の大きな獣がこちらを見ている。不気味な青い目が見ている。
「ぼくは……」
それ以上、コウはなにも言えなかった。言ったら終わってしまうと思った。シガンはそっと息を吐いてうつむき、そのまま後ろからコウを抱きしめた。腕をまわしてぎゅうっと力をこめる。
「……ぼくは、怖かった。あの吸血鬼が怖かった」
そしてシガンから告白した。ずっとそうでないようにふるまっていたことを。自分でも気づかないうちに必死で隠そうとしていた気持ちを。
「でも、怖がっている自分が嫌だった。弱くて情けない自分を認めたくなくて、それがなにかすごいものだと思おうとした。それならしかたないってごまかした。自分が想像する怖いやつを描いて納得しようとしたんだ」
コウはそれを聞いて、シガンの腕のなかで身を縮めている。
「どうしようなあ、あの絵……」
シガンは絵を眺めて苦笑する。恐怖から逃げるために描き続けた絵。コウに壊され、自分を否定されたように思って怒りがわいたのだ。わかってしまえば、すべてみっともないごまかしだった。
そんな言い訳は捨てていいのかもしれない。「怖かった」と口にしたことで、かっこ悪い自分を受けいれられた。ずっとひとりで怖がっていた自分が救われる気がした。
コウは抱かれるままじっと考えていたが、ようやく口を開く。
「ねえ、シガン。あのね、たぶん、あの子も怖かったの。怖くて、どうしようもなくて、シガンのことを考えられなかった。でも、もう、怖くないってわかった。だいじなものがあるから。だいじなものを壊すのはいやだ」
「そっか……」
シガンはコウの言葉をゆっくりと飲みこんだ。
「なあ、コウ、こっちおいで」
シガンは部屋まで行って、散らばった絵の具を拾いあげた。適当に紙パレットへと色を出す。筆をとって鮮やかな色をすくいあげる。なにをするかは決まった。なにをしたいか、もうわかっていた。
「いいよ。怖くないもの、いっぱい描こう」
シガンは右手で絵筆をとって、黒い空に星を描く。赤い星、青い星、黄色い星。絵のなかの重い空気が変わる。獣の手には犬のぬいぐるみ。鋭い爪が優しくぬいぐるみを抱いている。あっという間に絵の雰囲気がかわいらしくなった。大きくまばたきをしたコウにもう一本の筆を渡し、続きをうながす。
「ほら、好きなように描いてみろ」
コウは筆を受けとって、おそるおそる人間らしきものを描いた。獣の隣、眼鏡をかけた人間はシガンだろうか。棒をもっているのはアオ。髪が長いのはユエンらしい。その下にいる犬はゲン。ずいぶん特徴をとらえて描くようになった。
シガンの筆は赤い月に色を増やしていく。黄色、オレンジ、茶色……。なんだかホットケーキみたいだ。コウがその上に大きな顔を描いた。にこにこ笑っている。にらんでいた獣の目にも温かな色が入り、毛の金色だってきらきら光って見える。
それは絵というには秩序がなかった。好きなものをぎゅうぎゅうに詰めこんだおもちゃ箱だ。その中心にいる獣はもう怖がってはいなかった。
「ぼくはここにいるよ」
獣は「自分はここにいる」と叫んでいた。痛くて苦しくてそれでも喉が破れるほどに訴えていた。「おまえはどこにいる」と聞かれた。だからコウは答えた。ちゃんとここにいる。ここにいるから、ここにいない誰かを思うことができる。獣の横に描いた人間を、そっとコウの指がなぞった。
「……アオはかえってくる?」
シガンは答えられなかった。けれども、コウの答えははっきりしていた。
「アオにかえってきてほしい」
「うん、そうだな。帰ってきてほしいな」
ユエンが再び現れたのは三日目の夜だ。その目が吸いこまれそうなほど深く黒く見えた。ぎょっとしながらも、シガンは聞かなければならないことを聞く。聞きたいことはたくさんあったが、一番重要なことからだ。
「なにがあった? アオさんは?」
「アオがすぐに食人鬼にならなかったのは、私の霊気を血に入れていたからだ。しかし完全に防ぐことはできなかった。……だから私の使い魔にした。そうするしかなかった。私とつなげ、それ以上、変異しないようにした」
三つ編みをかきあげて、ユエンは言った。
「傷が癒えるまで影に入れたのだが……出てこない。影に囚われてしまったようだ」
シガンより先にコウは理解したようで、まっすぐにユエンを見あげる。ユエンもそれ以上なにも言わずに見かえした。
「ユエン、アオのこと助けて。これ、ぼくのだいじなものあげるから」
コウがポケットから出したのは、くしゃくしゃになった折り紙のおまもりと潰れてしまったドングリだ。ふむとユエンは微笑んでそれをつきかえす。それから真面目な表情でコウの顔をのぞきこんだ。黒く透き通った目。
「私から頼みがある。影に入って、アオを連れてきてもらえないか」
「なんでコウに……ぼくじゃダメなのか?」
コウがためらいなく承諾するのを抑え、シガンが顔をしかめた。影がなにかシガンにはわからないが、この言いかたではきっといいものではないだろう。
「影とは命に対する死だ。影に入ることは死と向きあうことだ。人間が長く触れていられるものではない」
「つまり危険だってことだろ?」
「私は自分の影を広げなければならない」
影のなかに入っていくのは、コウ以外にできない。「だからって……!」。アオだけでなく、コウまで帰ってこないのではとシガンが食ってかかった。その当人がシガンの裾をとって止める。
「ぼくがやる。ぼくが行かなきゃいけない」
「なあ、コウ。危険なことをするのは、かっこいいことじゃないぞ」
「うん。でも、あやまらなきゃ……アオはきっと、さびしくて悲しくて怖くて動けないんだ。だから行く」
シガンが目をふせた。助けが必要なら、そうしたいのはシガンも同じだ。世話好きで気のいい男が、どうしようもなく打ちのめされたのに動揺した。自分と変わりない、もろくて弱いものだと気づいてしまった。
「……大丈夫なんだろうな?」
「わからない。だが、これを預ける」
ユエンはつけていたネックレスを外してコウに渡した。青いビーズがシャラと音をたててコウの手のなかにおさまる。
「通行料にはなるだろう」
「わかった」
コウがうなずくと彼女もまたうなずいた。ユエンの足元に影が広がる。それは光が飲みこまれるほどの黒で、どこまでも続いていきそうな深い闇だった。シガンはこくんと唾を飲んだ。
「いいか。アオの手をつかんで帰ってくるんだ。振りかえってはいけない」
「うん」
「私とシガンはここで待っている。……ムリだと思ったらひとりで帰ってこい」
「うん」
コウはユエンの影に足を踏み出す。そのまま吸い込まれるように落ちた。目を閉じ、それから静かに開ける。影は暗く、どこまでも透明で、少し粘つく水のようだった。ゆっくりと沈んでいく感覚があるのに、いつまでたっても底がなかった。前後左右もわからない。闇のなかをただようようにおりていく。
コウの消えた影を前に、ユエンがつぶやく。
「闇をおりることは希望を捨てることだ。しかしコウは可能性をもっている。だから大丈夫、アオを連れて帰ってくるよ」
それからシガンにひとつ要求する。
「吸血鬼除けの銀貨があっただろう? あれを私にくれないか」
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