第15話、ぼくのやったこと 下

「コウ、お風呂入るぞ。寒いだろ」


 シガンもコウも血で汚れている。冷え切った体を震わせて脱衣所に入った。


 あのあと、組合にはシガンが通報した。ナヨシに食人鬼とアオのことを話す。左腕のケガの程度を聞かれたけれど、痛いが動くし問題はなかった。

 コウのことは話さなければならないけれど、もう少し待ってほしいと思う。コウがシガンの後ろからナヨシを見た。一瞬、虹の色がちらつく。ナヨシはそれ以上何も聞かなかった。二人を家まで送ったあと、折れた矛と短刀を持って組合に帰っていった。


「ほら、脱いで」

「……うん」


 ここ二ヶ月半、コウとお風呂に入るのはアオの仕事だったから、シガンと入るのは初めてだ。血の染みがついたシャツを脱いだシガンの背に、コウは見た。傷。大きな引っかき傷がいくつも。皮膚はくっついているが、赤みがあって薄く光ってみえる。そのまわりが少し盛り上がって、ひきつれたようにしわを作っていた。


 思わずコウは後ろから抱きしめようとする。傷に触れて、びくりとシガンの体が震えた。押し殺した呼吸。触られたくないように体が緊張する。コウは慌てて手を離した。振り返ったシガンは怒るでもなく、振り返って安心させるように笑って見せる。


「ごめんなさい」


 そっとシガンの腕に触れると、肌の奥に血を感じた。少し爪を入れたら切り裂けるだろう。それだけの力が自分にあることを、コウはもう知っていた。


「シガンはだいじ。だから、いたいのはいや」


 言った言葉に、ずんと胸が重くなる。


「ぼくはわるい子だ」

「……そっか。悪いことしたんだな」


 シガンは静かにそれだけを返した。コウの肩を抱いて風呂場のドアを開ける。


「コウ、助けてくれてありがとな。さ、風呂入るぞ」


 コウが頭を洗って体を洗って顔を洗うのを、風呂桶からシガンがぼんやりと見ていた。コウは目の前の鏡に目を向ける。鏡にはコウの姿は映っていない。奥のドアだけがそのまま見える。シガンからは鏡に映ったコウが見えているのに。


 風呂からあがった二人は、新しい服に着替えた。シガンはコウの髪をタオルで拭いて乾かし、よくとかしてまとめた。いつものようにみつあみにして赤いゴムで留める。


「……よくがんばった」


 キッチンに戻りながら、シガンはまだ湿っている頭をつかんで撫でてやった。ほめられたのに泣きそうな顔をしているのが背中からでもわかった。「う……ぁ……」と押し殺した声だけが響く。単に怖かっただけではないのだろう。彼なりに思うことがたくさんあるのだ。


「ごめんな、『やめろ』なんて言って。おまえが……ケガしてもいいってわけじゃないんだ」


 コウはしゃくりあげ、引き戸が開けっぱなしのシガンの部屋を見た。キッチンから見える部屋のまんなかにはあの絵が転がっている。慌てて外に出た時放り投げた、そのままだ。絵だけが何も変わらずにある。


「シガン、ごめんなさい」


 金の毛の大きな獣がこちらを見ている。不気味な青い目が見ている。


「ぼくは……」


 それ以上、コウはなにも言えなかった。言ったら終わってしまうと思った。もうシガンやアオといられないんだと思った。シガンは息を吐いてうつむき、そのまま後ろからコウを抱きしめた。腕を回してぎゅうっと力をこめ、確かにここにいると伝える。


「……ぼくは、怖かった。あの吸血鬼が怖かった」


 そしてシガンから告白した。ずっとそうでないようにふるまっていたことを。自分でも気づかないうちに必死で隠そうとしていた気持ちを。


「怖かった。でも、怖がって、おびえている自分が嫌だった。弱くて情けない自分を認めたくなくて、それがなにかすごいものと思おうとした。それならしかたないってごまかした。自分の手の届かない、すごい大きなものを描いて納得しようとしたんだ」


 コウはそれを聞いてぽつりぽつりと涙をこぼした。シガンの腕の中で身をかがめて小さくなっている。


「どうしようなあ、あの絵……」


 シガンは絵を眺めて苦笑する。怖さから逃げるために描き続けた絵。コウに壊されたことで自分の気持ちを否定されたように思って、あれほどに怒ったのだ。わかってしまえば、全てみっともないごまかしだった。


 ……そのごまかしはそろそろ絵と一緒に捨てるべき時なのかもしれない。「怖かった」と口にしたことで、弱い自分を受け入れられた。ずっとひとりで怖がっていた自分が救われる気がした。


 コウはじっと絵を見て何かを考えていた。シガンに抱かれるままじっと体を震わせていたが、ようやく口を開く。どう言えば一番いいのか、考えながら。


「ねえ、シガン。あのね、たぶん、あの子も怖かったの。怖くて、どうしようもなくて、シガンのことを考えられなかったの。でも、もう、怖くないってわかった。だいじなものがあるから。だいじを壊すのも嫌だと思う」

「そっか……」


 シガンはコウの言葉をゆっくりと飲み込んだ。


「なあ、コウ、こっちおいで」


 シガンは自分の部屋まで行って、散らばった絵の具を拾いあげた。適当に紙パレットへと色を出す。筆をとって鮮やかな色をすくいあげる。なにをするかは決まった。なにをしたいか、もうわかっていた。


「コウ、いいよ。怖くないもの、いっぱい描こう」


 シガンは右手で絵筆をとって、まず背景に星を描いた。黄色い星、赤い星、青い星……。絵の中の重い空気が変わる。それから獣の手に黒い犬を描く。丸々としたぬいぐるみだ。するどい爪が優しくぬいぐるみを抱いている。あっというまに絵の雰囲気がかわいらしくなった。ぱちくりとしたコウにもう一本の筆を渡し、続きをうながす。


「ほら、好きなように描いてみろ」


 コウは筆を持って、おそるおそる人間らしきものを描いた。獣の隣、メガネをかけた人間はシガンだろうか。長い棒をもっているのはアオか。髪が長いのはユエンらしい。その下にいる犬はゲン。ずいぶん特徴をとらえて描くようになった。


 シガンの筆は赤黒い月に明るい色を入れていく。白、黄色、オレンジ、茶色……。なんだかホットケーキみたいだ。コウがその丸のまんなかに顔を描いた。にこにこと笑っている。きつくこちらを睨んでいた獣の目にも色を増やす。獣の金色だってキラキラ光ってきれいに見える。


 それは絵というにはあまりに秩序がなさすぎた。好きな色をぎゅうぎゅうに詰めこんだおもちゃ箱だ。獣はもう怖がってはいなかった。たくさんのものに囲まれて嬉しそうだった。


「ぼくはここにいるよ」


 ……獣は「自分はここにいる」と叫んでいた。痛くて苦しくてそれでものどが破れるほどに訴えていた。「おまえはどこにいる」と聞かれた。だからコウは答えた。ちゃんとここにいる。ここにいるから、ここにいない誰かを思うことができる。獣の横に描いた人間を、そっとコウの指がなぞった。


「……アオはかえってくる?」


 シガンは答えられなかった。けれども、答えははっきりしていた。


「アオにかえってきてほしい」

「うん、そうだな。帰ってきて欲しいな」






 ユエンが再び現れたのは三日目の夜だ。黒い目だけが浮き上がって見えた。その表情にぎょっとしながらも、シガンは聞かなければならないことを聞く。聞きたいことはたくさんあったが、一番重要なことからだ。


「なにがあった? アオさんは?」

「……アオが食人鬼になりきらなかったのは、私の霊気を血に入れていたからだ。私への信仰が防いだ。しかし完全に防ぐことはできなかった。……だから使い魔にした。そうするしかなかった。私とつながることで、それ以上、変異しないようにした」


 みつあみをかきあげて、ユエンは言った。


「そして傷を癒すよう影に入れたのだが……呼んでも出てこない。影に囚われてしまったようだ」


 シガンより先にコウは理解したようで、まっすぐユエンを見あげた。ユエンもそれ以上何も言わずに見かえす。


「ユエン、アオのこと助けて。これ、ぼくのだいじなものあげるから」


 そう言ってポケットから出したのはくしゃくしゃになった折り紙のおまもりと潰れてしまったドングリだ。ふぅむとユエンは微笑んでそれをつっかえす。それから真面目な表情でコウの顔をのぞきこんだ。黒く透き通った目。


「コウ、これはおまえが持っていることだ。……私から頼みがある。影に入って、アオを連れてきてもらえないか」

「なんでコウに……」


 コウが二つ返事で了承するのを抑え込み、シガンが顔をしかめた。影が何かシガンにはわからないが、きっとよいものではない。そんなところにコウを行かせるわけにはいかない。


「影とは命そのものであり死だ。影に入ることは死と向き合うこと。人間が長く触れていられるものではない」

「つまり危険だってことだろ?」

「私は自分の影を維持しなければならない」


 ユエンが影を広げている必要がある。影の中に入っていくのは、コウ以外にできるものがいない。「だからって……」。アオだけでなく、コウまで帰ってこないのではないかとシガンが食ってかかる。その当人がシガンの裾を取って止めた。


「ぼくがやる」

「なあ、コウ。危険なことをするのは、かっこいいことじゃないぞ」

「うん。でも、あやまらなきゃ……アオはきっと、さびしくて怖くて悲しくて動けないんだ。だから行く」


 シガンが目をふせた。アオに助けが必要なら、そうしたいのはシガンも同じだった。世話好きで気のいい男が、どうしようもなく打ち倒されたのに動揺した。自分とそう変わりない、もろくて弱いものだったとわかってしまった。


「……大丈夫なんだろうな?」

「わからない。だが、これをあずける」


 ユエンはつけていたネックレスを外して渡した。青いビーズがシャラと音をたててコウの手のなかにおさまる。


「通行料にはなるだろう。危ないと思ったらこれを渡してやれ」

「わかった」


 コウがうなずくとユエンはうなずいた。足元に丸く影が広がる。それは光が飲み込まれるほどの黒で、どこまでも続いていきそうなくらい深い闇だった。シガンはこくんとのどを鳴らした。


「いいか。おりていって、アオの手をつかんで帰ってくる。その時、振り返ってはいけないよ」

「うん」

「私とシガンはここで待っている。……無理だと思ったらひとりで帰ってこい」

「うん」


 コウはユエンの影に足を踏み出した。足がそのままどぼんと落ちた。コウは一瞬目を閉じ、それからゆっくりと開ける。影は暗くどこまでも透明で少しねばつく水のようだった。そのうち前後左右もわからなくなる。ゆらゆらと沈んでいくまま、こちらが下かと思った。

 ゆっくりと落ちていく感覚があるのに、いつまでたっても底がなかった。闇のなかをただようように降りていく。


 コウの消えた影を前に、ユエンがつぶやいた。


「……闇を下ることは希望を捨てることだ。けれどコウは可能性を持っている。だから大丈夫、アオを連れて帰ってくるよ」


 それからひとつ要求する。


「シガン、吸血鬼よけの銀貨があっただろう? あれを私にくれないか」

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