第15話、ぼくのやったこと 上

 その少し前、シガンは絵に向かってうんうんと考えていた。例の吸血鬼の絵だ。一度は捨ててしまおうと思ったができず、また描かなければならない気になってひっぱり出してきた。


 描きたいと思ったはずなのに視線がぼんやりと紙の上をさまよう。絵の具を出したはいいが、どうも筆が進まない。エネルギーに満ちた、すさまじく強大な吸血鬼のイメージができない。どんなものも届かないすごい存在だったというのに。


 その後ろで、コウがそっと引き戸を開けて入って来た。夕ご飯の時間をずいぶんすぎたのにアオもユエンも帰ってこなかった。シガンを呼んでも出てこないので、コウはこわごわと部屋をのぞいてみた。そこにはさまざまな色があちこちにあって、描く道具がたくさんあった。それなのに、その中心だけが黒かった。


「あ……」


 真っ黒い空間の中央に金の獣がいた。吸血鬼だ。暗い色の太い爪がこちらをとらえた。するどい青い目がにらむ。怖いと思った。それは怖いもので、痛くするもので、そして悪いものだ。悪いものは倒されなくてはならない。


 コウは自分が「悪い」と言われているようで嫌だった。絵の前で丸くしたシガンの背中を見る。こんな悪そうな吸血鬼の絵を描いて、コウを悪者にしようとしている。ひどいと思った。そんな感情が一気に膨らむ。爆発する。


 その手がふしくれだって、爪が獣のものに変わる。その爪をシガンの首の後ろに伸ばした。シガンを潰して、絵を壊して、そうしたらきっと全部なかったことになる。コウは悪い子じゃなくなる。


 その時、コウの首の後ろに痛みが生まれた。それでもいい、自分が壊れてしまってもこれを壊さなきゃならない。無理矢理に手を動かしてシガンの首を掻き切ろうとした。


 爪が肉に食い込み、嫌な感触があった。コウの爪はシガンの首ではなくスーツの腕をつかんでいた。後ろから左腕を回されている。彼の右手の短刀がコウの首すじにあたっていた。アオは帰ってきたままの格好だった。コウはじわりと指先が濡れるのを感じた。


「爪、おろせ」


 耳元でささやかれて、ゆっくりと手をおろす。手はすぐに子供の手に戻る。指に少し、血がついていた。何をしようとしたのか自分でもわからない。ただ首元の刃物が怖くて泣きそうだった。


「シガン、たすけて……」


 呼ばれたシガンがようやく気づいて頭をあげた。コウを振り返ったとたん、メガネの奥の目が見開かれる。ガタンと絵を放り投げるようにして立ちあがった。


「なにやってんだ!」


 はじめ、自分が怒られたのだとコウは思った。でも、そうではないとすぐにわかった。アオは、はっとして短刀を首元から離した。シガンがコウの手を引いてかばうように引き寄せる。


「コウが何したっていうんだ、おい」


 低い声で責められて、アオはあわてて短刀を腰におさめる。シガンがコウを抱き、首に手を当てケガがないことを確かめる。それを見て、アオは傷のある腕をそっとおろした。


「ごめん!」


 アオは勢いよく頭を下げた。深く頭を垂れて謝る。


「ごめんなさい、勘違いでした。俺が悪かった。申し訳ありませんでした」

「アオさん……」


 いつも調子よく動く表情が、今は影になってよくわからない。


「ちょっと頭冷やしてくるわ。ゲンゲン、コウくんとこ、よろしくな」


 するりと影から出てきたゲンにあとをまかせて、アオは部屋を出ていった。その後、すぐに玄関のドアを開けて、閉める音が響く。いまいち事情が飲み込めないシガンを置いて、ゲンがコウを見つめていた。






 もう日は落ちていて、頭上は濃紺色に変わっていた。近くの小さな公園。誰もいないジャングルジムがさびしそうにたたずんでいる。

 アオは頭が真っ白で、土を踏む足とつながっている気がしなかった。ただぼんやりと歩いていって、目に止まったところに逃げ込んだ。


 そこにあったベンチに腰掛けて、胸を押さえて震える息を整える。目を閉じる。大丈夫、コウは爪をおろした。もうやらない。そう思う。そう信じる。ゲンもいるからもう大丈夫。ぎゅっと左手を握ると、つうっと血が流れて土に落ちた。


 逃げてきてしまった。アオはゆっくり深く呼吸するうち落ち着いてきて、やっぱりまずいことをしたと思った。コウがなんであれ、アオがそばについていなければならなかったはずだ。戻らなければ。戻って……どうする。勘違いということにして何もなかったようにふるまうのか?


 アオが立ちあがった時、足元がぐらりと揺れた。縦揺れと横揺れが同時に来た。バキバキメキメキと音が鳴って地面が割れる。ジャングルジムをめくるように土が盛り上がった。土の匂いが広がる。そして、穴の中からそれは現れた。灰色の乾いた肌、人のようで獣に似た姿。頭にツノがひとつ。アオを見て、嬉しそうに吠えた。






「大丈夫か、コウ。痛くないか」

「……いたくない」

「いったい、どうしたってんだ」


 いらだたしげにシガンが玄関のほうを見る。コウは何をしようとしたのか自分でも飲み込めなかった。暗くて重いものがどろどろと胸の中から腹の底にしたたる。あれは「悪いこと」だ。コウは急に怖くなる。


 怒られなかったからいい。シガンは気づいてない。……よくない。短刀を当てたアオが悪い。……違う。アオは謝った。だからアオが悪い。……そうじゃない。コウが悪いのに、アオを傷つけたのに黙ってるのはダメだと思った。


「……シガン。ね、聞いて」

「どうした」


 落としたクロを拾ってぎゅっとつかんだ。その後ろに体を縮めて、震える手で力をこめた。悪い子は嫌だ。怒られるのも嫌だ。嫌われるのも怖い。でも、アオが痛いのも嫌だった。シガンが本当のことをわかってくれないのも嫌だった。


「アオはわるくないの。アオのせいじゃない」






 この食人鬼とは東京駅からのつきあいだ。血につられて来たのか。地面から出てきたとたん、えぐるように爪が飛んできた。半身に避けてすぐに矛を袋から出す。もう片方の腕が大ぶりに振られたのをかわし、矛をすべらせた。空を切った爪にすばやく応戦する。


 隙をついて警戒笛を鳴らしたが連絡を取る暇がない。下からななめに切り上げて、手を返して撫で切った。浅い。伸ばした腕を受け流し、軸を移してそのまま踏み込んで突きあげる。

 突き上げたとたん、アオはしまったと思った。深く入りこみすぎた。食人鬼は雑に爪で矛を払いのけ、手を返してアオを切り裂こうとした。


 避ける足が間に合わない。とっさに爪を矛で受け止めると、ガツンと嫌な音が生まれた。まずい。食人鬼は右で左で爪を叩きつけた、受けるため動きにあわせるのがやっとで、どんどん押し込まれる。受けきれず食人鬼の爪が肩を引っ掻く。のけぞったところに噛みつこうとあごがせまった。それをとっさに柄で受ける。矛の柄が折れて矛先が飛んだ。


「くっそ……!」


 追撃の腕を残った石突きでいなしたあと、アオは右腰の短刀を逆手で抜いた。ツラヌキ丸や貫丸と俗称される鎧通しだ。組合では「最後の武器」として理解されている。






 離れたところから警戒笛が聞こえ、コウとシガンはその方向を見た。二人してアオを探していたところだ。笛の音は住宅地に響いて消えた。


「おい、行くなよ。危険だから……」


 コウは片手にクロをにぎった。そして、音のしたほうに走り出した。ただ行かなければと思った。そこにアオがいる。吸血鬼と戦っている。コウにはどこから鳴ったかはっきりわかった。距離も方向も、全身で「聞いた」。だから走った。


 小さな公園だ。アメのようにぐにゃりと曲がったジャングルジム。その奥に食人鬼が立っていた。二足で立ち上がり、背を丸め、なにかをむさぼろうとしていた。よく見れば、口元に人間がぶら下がっている。


「アオ!」


 両手の爪で押さえられ、右腕が肩まで食われていた。血が彼の頬をべったりと濡らしている。すぐ下の地面は血でぬかるんでいた。食人鬼はがっちりとアオの体をつかみ、そのまま引きちぎろうとした。


 コウはそこにクロを放り出して走る。大きく地面を蹴って跳びあがり、そいつの腕を爪で切り飛ばした。着地してすぐに向き直り、食人鬼の頭をつかんでむりやりこじ開ける。思いきり鼻を殴って、口の中に手を突っ込んで開けようとする。


「はなせ! アオをはなせ!」


 つかまえた手が血でぬるりとすべる。爪をたててつかみなおし、あごを蹴ってようやく口を開かせた。


「ぐ……っ……」


 アオはゆるんだ口から腕を抜こうとはしなかった。踏ん張りなおし、短刀を握った腕を逆に押し込む。肩を口に突っこんで、頭まで入れるようにして奥まで手を伸ばす。刃を食い込ませ、ずぶずぶと肉を裂いていく。核に入った手ごたえがあり、塵が舞い上がり散って見えなくなった。支えを失ってアオも倒れ込む。短刀が音をたてて落ちた。


「アオ!」


 地面に投げ出されたコウが、ひょいと立ちあがってかけよる。助けなきゃと手を伸ばした時、アオの手がコウを突き飛ばした。




「おい……なにが……」


 やっと追いついたシガンが、それを見て立ちすくむ。前屈みに立つアオ、その右腕が奇妙に膨れあがり、乾いた灰褐色に変わっていた。肩から首、右目近くまで筋と血管が浮いている。指先にはかぎ爪が並んでいて、強くこわばったように開いて見せた。アオは落ちくぼんだ右目でコウを見る。それはすでに生きているものではなかった。


「なにが……」


 シガンが呆然とつぶやいた。アオに突き飛ばされてコウがよろめいたところに、右手が飛んでくる。コウは何があったのかわからないといったように立ちすくんでいた。シガンは反射的にそこに転がっていたクロを投げた。爪によって、ぬいぐるみがあっというまに真っ二つに切り裂かれて綿をこぼす。アオの右目がシガンに向けられた。


 シガンとの間に入ったコウが、アオをにらみ返す。大きく手を広げて、シガンをかばう。右腕が振り上げられる。コウはしっかりとアオを見て、震えながら牙をむいた。手をこわばらせて爪を出す。「シガンを守る」と約束したから。


「やめろ! やめてくれ!」


 後ろから飛びかかり、シガンがコウを押さえ込む。はっとして思わずコウの力がゆるんだ。そこにアオの右腕が叩きつけられる。シガンがコウにおおいかぶさる。太い爪がシガンの左腕をかすめ、皮膚が裂けて赤が飛んだ。

 それだけで済んだのは犬が飛びかかってアオを蹴り飛ばしたからだ。ゲンが一回転して飛び降り、頭を低くしてうなる。


 よろめいたアオは倒れながら、そこに落ちていた短刀を左手でつかんだ。力が入らない手でにぎりしめる。このまま右腕を切り落とせばいい。いや、それでは遅い。体重をかけて暴れる右手を地面に押さえつけながら、刃を首筋に当てた。

 思ったのは「もういいかな」だった。……いいことだってあった。もう頑張らなくていい。短刀が首に差し込まれる。血が線を描いた時、ぬるりと影が短刀を落とした。


「……遅くなった」


 街灯に照らされた陰から音もなく現れたユエンがいた。その右手で短刀をつかむとユエンの手のひらがすっぱりと切れ、人と同じく血がこぼれる。その手のひらを、血が吹き出すアオの傷に押しあてた。

 血と血が混じり合う。暴れていたアオの右腕が震え、突然糸が切れたようにばさりと落ちた。アオの目がふっと閉じられる。ユエンは力を失った体を自分の影に落とすように沈めた。


「あんなものに渡してやるものか」

「……ユエンさん?」


 ユエンはシガンとコウを振り返る。それは人のようで、明らかに人ではなかった。光の加減か金と赤に見える目が無遠慮にシガンを見ていた。シガンは動けなくなる。コウのこと、アオのこと、ユエンに聞かなければならないことがたくさんあるのに。


「あとはまかせる。……好きにしろ」


 ユエンはそう言いのこして自分も影のなかに溶け込んだ。

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