第29話、ぼくのやったこと 上
その少し前、シガンは絵に向かって考えていた。吸血鬼の絵だ。一度は捨ててしまおうと思ったができず、また描かなければならない気になって出してきた。
描きたいと思っていたはずなのに、視線がぼんやりと紙の上をさまよう。絵の具を出したはいいが、どうも筆が進まない。エネルギーに満ちた、すさまじく強大な吸血鬼のイメージができない。どんなものも届かないすごい存在だったというのに。
そんなとき、コウがそうっと引き戸を開けた。夕ご飯の時間を過ぎたのにアオもユエンも帰ってこなかった。シガンを呼んでも出てこないので、コウはこわごわと部屋をのぞいた。そこにはたくさんの色があり、それなのにその中心が黒かった。
「あ……」
黒い空間に金の獣がいた。鋭い爪がこちらをとらえた。青い目がにらんでいる。怖いと思った。それは怖いもので、悪いものだ。悪いものは倒されなければならない。
コウは自分が「悪い」と言われているようで嫌だった。コウに気づかず、絵に向かっているシガンの背中を見る。こんな悪そうな吸血鬼の絵を描いて、コウを悪者にしようとしている。ひどいと思った。そんな感情が一気に膨らむ。爆発する。
手がふしくれだち、爪が獣のものに変わった。鋭い爪をゆっくりとシガンの背に伸ばした。シガンを潰して、絵を壊して、そうしたらきっと全部なかったことになる。ぼくは悪い子じゃなくなる。
そのとき、コウの首の後ろに激しい痛みが生まれた。ユエンの打ちこんだ鏃だ。それでもいい、これを壊さなければ。コウは痛みに逆らって爪を振りおろした。
爪が肉に食いこみ、嫌な感触があった。コウの爪はスーツの腕をつかんでいた。後ろから左腕をまわされている。アオだ。右手の短刀がコウの首に当たっている。アオは帰ってきたままの格好だった。コウはじわりと指先が濡れるのを感じた。
「爪、おろせ」
耳元でささやかれて、ゆっくりと手をおろす。手はすぐに子供の手に戻る。指に少し、血がついていた。なにをしようとしたのか自分でもあいまいだ。ただ首元の刃物が怖くて泣きそうだった。
「シガン、たすけて……」
呼ばれたシガンがようやく気づいて頭をあげた。振りかえったとたん、眼鏡の奥の目が見開かれる。ガタンと絵を放り投げるように立ちあがった。
「なにやってんだ!」
自分が怒られたのだとコウは思った。でも、そうではないとすぐにわかった。アオははっとして短刀を首元から離す。シガンがコウをかばうように引き寄せた。
「コウがなにしたっていうんだ、おい」
低い声で責められ、アオは慌てて短刀を腰におさめる。シガンがコウの首に手を当て、ケガがないことを確かめる。それを見て、アオは傷のある腕をそっと隠した。
「ごめん!」
アオは勢いよく頭をさげた。深く頭を垂れて謝る。
「ごめんなさい、勘違いでした。俺が悪かった。申し訳ありませんでした!」
「アオさん……」
いつも調子よく動くアオの表情が、今は影になってよくわからない。
「ちょっと頭冷やしてくるわ。ゲンゲン、コウくんとこ、よろしくな」
するりと影から出てきたゲンに後をまかせて、アオは部屋を出ていった。その後、すぐに玄関のドアを開けて閉める音が響く。いまいち事情が飲みこめないシガンを置いて、ゲンがコウを見つめていた。
すでに日は落ちていて、頭上は濃紺色に変わっていた。シガンの家の近くにある小さな公園。誰もいないジャングルジムが寂しそうにたたずんでいる。
アオは頭が真っ白で、地面を踏む足とつながっている気がしなかった。ただぼんやりと歩いていって、たまたま目に止まったその公園に逃げこんだ。
そこにあったベンチに腰かけ、胸を押さえて震える息を整える。喉が詰まった。目を閉じる。大丈夫、コウは爪をおろした。もうやらない。そう思う。ゲンもいるから大丈夫。ぎゅっと左手を握ると、つうっと血が流れて土に落ちた。
逃げてきてしまった。コウから、シガンから、自分の仕事から。アオはゆっくり呼吸するうち落ちついてきて、やはりまずかったと思った。コウがなんであれ、アオはシガンを守らなければならなかったはずだ。戻らなければ。戻って……どうする? 勘違いということにしてなにもなかったようにふるまうのか?
アオがふらふらと立ちあがったとき、足元がぐらりと揺れた。バキバキメキメキと音が鳴って地面が割れる。ジャングルジムをめくるように土が盛りあがった。土の匂いが周囲に広がる。穴のなかからそれは現れた。灰色の乾いた肌、人のようで獣に似た姿。頭にツノがひとつ。
アオを見て、その食人鬼は嬉しそうにほえた。
「大丈夫か、コウ。痛くないか」
「……いたくない」
「いったい、どうしたってんだ」
苛立たしげにシガンが玄関のほうを見る。コウはまだ自分のしたことが飲みこめずにいた。暗くて重いものがどろどろと胸から腹の底にしたたる。あれは「悪いこと」だ。コウは急に怖くなる。
怒られなかったからいい。シガンは気づいていない。……よくない。短刀を向けたアオが悪い。……違う。アオが謝ったのだからアオのせいだ。……そうじゃない。コウが悪いのに、アオを傷つけたのに黙ってるのはダメだと思った。
「……シガン。ね、聞いて」
「どうした」
落としてしまったクロを拾ってぎゅっとにぎった。その後ろに体を縮めて、手を震わせながら言う。悪い子は嫌だ。怒られるのも嫌だ。嫌われるのも怖い。でも、アオが痛いのも嫌だった。シガンが本当のことをわかってくれないのも嫌だった。
「アオはわるくないの。アオのせいじゃない」
この食人鬼とは東京駅からのつきあいだ。血につられて来たのか。そいつは地面から出てきたとたん、えぐるように爪を繰りだしてきた。アオは半身に避けてすぐに矛を出す。空を切った爪にすばやく応戦する。
警戒笛を鳴らしたが組合に連絡をとる暇がない。下から斜めに切りあげて、ひるがえすようにしてなで切った。浅い。迫る腕を受け流し、踏みこんで突きあげる。
突きあげたとたん、アオはしまったと思った。深く入りこみすぎた。食人鬼は爪で雑に矛をはらいのけ、手首を返してアオを切り裂こうとした。
避ける足が間にあわない。とっさに矛で受けとめると嫌な音が生まれた。まずい。食人鬼は右から左から爪を叩きつけてくる。動きにあわせるのがやっとで、どんどん押しこまれる。さばききれず食人鬼の爪が肩を引っかく。のけぞったところに噛みつこうと顎が迫った。それをとっさに矛の柄で受ける。柄が噛み砕かれて矛先が飛んだ。
「くっそ……!」
追撃する腕を残った石突でいなした後、アオは右腰の短刀を抜いた。ツラヌキ丸や
警戒笛が聞こえ、コウとシガン、ゲンはそちらの方向を見た。ゲンの鼻を頼りにアオを探していたところだ。笛の音は住宅地に響いて消えた。
「おい、行くなよ。危険だから……」
ゲンが走った。コウはぎゅっとクロを握り、ゲンを追うように駆けだした。
小さな公園だ。アメのようにぐにゃりと曲がったジャングルジム。その奥に食人鬼が立っていた。二足で立ちあがり、背を丸め、なにかをむさぼろうとしていた。よく見れば、口元に人間がぶらさがっている。
「アオ!」
両手の爪で押さえられ、右腕が肩まで食われていた。血が彼の頬をべったりと濡らしている。すぐ下の地面に血が広がる。食人鬼はアオの体をつかみ、そのまま引きちぎろうとした。
ゲンが飛んでいって食人鬼の腕に噛みつく。しかし振りはらわれて地面に叩きつけられた。すぐにゲンは陰にまじり、鋭い杭となって食人鬼の足元を縫いつけた。
コウはクロを放りだして走る。大きく地面を蹴って跳びあがり、食人鬼の腕を爪で切りつけた。一度着地してすぐに向きなおり、そいつの顎をつかんでむりやりこじ開ける。思いきり鼻を殴って、口のなかに手をつっこんで開けようとした。
「はなせ! アオをはなせ!」
食人鬼を捕まえた手がアオの血でぬるりとすべる。爪をたててつかみなおし、顎を蹴ってようやく口を開かせた。
「ぐ……っ……」
アオは緩んだ口から腕を抜こうとはしなかった。踏ん張りなおし、短刀を握った腕を逆に押しこむ。肩を食人鬼の口につっこんで、頭まで入れるように奥まで手を伸ばす。刃を肉に食いこませ、ずぶずぶと裂いていく。ある一点を貫いたとたん、塵が舞いあがった。支えを失ってアオも倒れこむ。短刀が音をたてて地面に落ちた。
「アオ!」
地面に投げだされたコウが、急いで立ちあがってアオに駆けよる。助けなきゃと手を伸ばしたとき、アオの左手がコウを突き飛ばした。
「おい……なにが……」
やっと追いついたシガンが、立ちすくむ。前屈みに立つアオ、その右腕が奇妙に膨れあがり、乾いた灰褐色に変わっていた。首から額近くまで筋と血管が浮いている。指先にはかぎ爪が並んでいて、固くこわばるように開いた。アオは落ちくぼんだ右目でコウを見る。それはすでに生きているものではなかった。
「なにが……」
シガンが呆然とつぶやいた。突き飛ばされてコウがよろめいたところに、アオの右手が迫る。コウはなにがあったのかわからないというように動けなかった。シガンは反射的にそこに転がっていたクロを投げた。ぬいぐるみが真っ二つに切り裂かれて綿をこぼす。アオの右目がシガンに向けられた。
コウがアオをにらみかえす。大きく手を広げてシガンをかばう。アオの右腕が振りあげられる。コウはしっかりとアオを見て、震えながら牙をむいた。手から獣の爪を出す。「シガンを守る」と約束したから。
「やめろ! やめてくれ!」
うろたえたシガンが慌てて飛びかかり、コウを押さえこむ。思わずコウの力が緩んだ。そこにアオの右手が叩きつけられる。シガンがコウに覆いかぶさる。太い爪がシガンの左手をかすめ、皮膚が裂けて赤が飛んだ。
それだけですんだのは、ゲンが飛びかかってアオを蹴り飛ばしたからだ。ゲンが一回転して飛びおり、頭を低くしてうなる。
よろめいたアオは倒れながら、落ちていた短刀を左手でつかんだ。このまま右腕を切り落とせばいい。いや、それでは遅い。すでに顔面まで浸食されている。体重をかけて暴れる右手を地面に押さえつけ、刃を首筋に当てた。
思ったのは「もういいかな」だった。いいことだってあった。もうがんばらなくていい。刃が首をかき切ったとき。
「……遅くなった」
街灯に照らされた陰から、音もなくユエンが現れる。すぐに短刀を奪い、彼女の左手を切り裂いた。その血の流れる手で血を噴きあげるアオの傷を押さえる。血と血が混じりあう。暴れていたアオの右腕が震えだし、突然、ばさりと地面に落ちた。アオの目が閉じられる。ユエンは力の抜けたアオの体を自分の影に沈めた。
「あんなのに渡してやるものか」
「……ユエンさん?」
ユエンはシガンとコウを振りかえる。それは人のようで、人ではなかった。金と赤が混じる目が無遠慮にシガンを見ていた。シガンは動けなくなる。コウのこと、アオのこと、ユエンに聞かなければならないことがたくさんあるのに。
「あとはまかせる。……好きにしろ」
ユエンはそう言い残して自分も影のなかに溶けこみ、消えた。
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