第20話、殺人鬼 下
満月が見おろしていた。トモエはクナドの前に立ち、怖い顔をしてみせた。不満そうにため息をひとつ、どなりたいのを押し殺して話しかける。
「クナドくん。私、危険なことするなって言ったよな?」
「……言った」
「まあまあ、トモエさん。無事だったし、よかったじゃないか。な?」
横にいたアオがなだめる。クナドはトモエが護衛についている平坂サエの長男だ。サエが吸血鬼に襲われたとき、叫んで追いはらったのは彼だった。金のオオカミのような吸血鬼を見たのも彼だ。クナドは反論したそうにしながらも黙ってしまう。
「コウくんも助けてもらったし、そう怒らんでも……」
「そもそも、探しにいかなければよかった。本当に吸血鬼だったらどうする。バットで倒せるものじゃない。ひとりでなんとかしようとするな」
「そりゃそうだけど、でも誰かが襲われてるのに、逃げるのはおかしい!」
悲鳴の主はすでに殺されていた。助けを呼ぶのが一番よい方法だったとわかっていても、納得できない。「死体が増えるだけなんだぞ」とトモエは悪態をついた。言っても聞かないならこれしかない。
「サエさんがすごく心配してた」
母のことを出されるとクナドも困る。いつもしっかりしていて、あれこれ叱ってきて、言いかえしてもびくともしないと思っていた母が、思っていたより弱い人だったのがショックだった。なぐさめている弟の背中を思いだす。妹も母のそばを離れられずにいる。そんな家族を見ているのがつらくて、クナドは吸血鬼が出ないか公園に行っては見張っていたのだ。
「ごめんなさい」
「それはお母さんに言ってくれ」
「……うん」
「コウくんを助けてくれてありがとな。がんばったな。……だろ? トモエさん」
「それは……よく逃げた。人に助けを頼めた。えらい」
トモエは素直に褒めるのが苦手なようで、ぼそぼそと短く言っただけだった。クナドがようやくおかしげに笑みをもらす。トモエがその背中を軽くこづいた。
「怒ってるんだからな」
「うん」
「無事でよかった」
「……うん」
コウはクナドに言いたいことがたくさんあった。もぞもぞと体をよじると、手がポケットに触れた。小さな膨らみはアオに貰ったアメだった。それをとりだし、ぐいとクナドにつきつける。クナドは驚いて、アメとコウを交互に見た。
「アメ? ええと……くれるの?」
「……うん」
クナドの手がアメをとる。それからにこっと笑った。
「ありがとう」
「あのね、あの……クナド、ありがと」
クナドの言葉の意味が、すとんとコウの心の深いところに落ちた。
アオは簡単な報告の後、コウを連れて帰ってきた。組合のみなが気づかってくれたのはありがたい。クナドにはトモエがついて家まで送ったという。
「これで三体目。一体はまだいると。ほかにもいるのか? いそうだな」
「空に跳ばれては留めておけなかった。あのままでは地面に逃げられていたな……」
「いや、まあ……強かったなあ……」
あれは多く人を食った個体なのかもしれない。そんなことを考えたアオの後ろから、ぎゅっとコウがひっついてきた。顔を背中に埋めている。コウは自分でもよくわからないが苦しいと思った。胸がじわじわと熱くなって締めつけられるようだった。
「お、おい。どうした?」
シガンが慌てて聞くと「わかんない」と答えた。顔をこわばらせ「うあ……」と顔をシャツに押しつけてくる。
「あー……えーっと、怖かった?」
アオは横に座り、問いかけた。平気そうに見えたのだが、帰ってから一気にきたらしい。あまり表情に出さない子だから、もう少し気にかけてやればよかった。そうっと手を当てると、小さな背中がひくりと震えた。ゆっくりなでてやる。
「そうだなあ……怖かったなあ……」
よくわからない、ざわざわとした心の動きに名前がついた。そうだ、怖かったんだ。アオが軽く背中を叩く。恐怖を全部吐きださせようとするように。
「大丈夫。もう大丈夫だからな」
「怖がるのはいいことだ。身を守る方法だからよく怖がるといい」
ユエンが穏やかにうなずいた。
「コウ、そういうときは泣くものだよ」
ひくっとコウはしゃくりあげ、腕をまわしてアオに抱きついた。
「もうこわいことない?」
「ないよ。ほら、大丈夫だ」
アオが手を添えてぎゅっと引き寄せる。コウは声をあげて泣きだした。急にほっとして、温かくて、自分でもわからないくらい目元が熱くなって涙が溢れてきた。困ったようにシガンがティッシュを差しだした。コウは頭を擦りつけ、泣いて、泣いて、そのまま眠ってしまった。
翌日にはもう、コウは平気な顔をしてご飯を食べていた。
「コウくん、遊ぶか?」
「あそぶ」
朝食後、コウとシガンはマンカラを始める。最近はシガンが緩めなくても勝てるようになった。豆をつかもうとしたコウの手が一瞬止まる。シガンが口を出そうとすると「今、かんがえてるの!」とコウが叫んだ。「おや、そうかい。じゃ、ゆっくり考えてくれ」とシガンは笑う。
テレビの情報番組では昨夜の殺人と鬼害の話題がはじまったところだった。アオはチャンネルを変えるがどこも似たりよったりだ。
アオがスマホを見ると「家が近いから心配」「人を巻きこまないでひとりで死んでくれ」「吸血鬼より人が怖い」「彼を殺人鬼にしたのは社会だ。今の政治はどうなってるんだ」……などと市民の率直な感想をとりあげている。
「殺人ね……吸血鬼のマネだって?」
テレビを横目にシガンが鼻で笑った。
「どうだろなあ……」
報告書は後でもっていく。いろいろと考えながらも皿洗いを終え、アオはエプロンをはずして振りかえった。ユエンと目があう。こちらを見ていたのだろうか?
「お。ユエンさん、どした?」
「怖いとはやっかいだ」
「コウくんのこと?」
ユエンはそれには答えず話を続ける。
「恐怖とは自分の存在――通常の状態を揺るがすものへの感情だろう? 生命として当然の反応だ。だが、人は生きているあいだ絶えず変化し続けている。すべての変化に怖がり続けていては耐えられない」
「……うん?」
「アオ。神はなにもしないが、思うようにそこにいる。だから大丈夫だ」
その会話の端が聞こえたのか、シガンが声を荒げた。
「ユエンさん、人ん家で宗教の勧誘しないでくれるか?」
「おや。愛せよと言っても愛されやしない。信じることも同じだろう?」
「この、屁理屈」
ユエンはわざとらしく困った顔を作ってみせた。
「ときに害だが必要だ。『信じないこと』を信じている人間もいるからな」
「人間のほうは捕まった」
「少なくとも二件の殺人ですねえ」
組合のオフィス。新聞をめくるナヨシにシァオミンが大げさなため息をついた。つけっぱなしのテレビからは「姿をあまり見なかった」という近所の人のインタビューが流れる。「吸血鬼に自分を重ねて強くなったつもりでいたのかもしれない」とコメンテーターの意見が耳に入った。
「鬼害は解決してないですよ」
「食人鬼が少なくとも一体残っている。吸血鬼もだな」
東京駅の食人鬼とは「別人」だった。シァオミンががっくりと肩を落とした。情けない声を出してナヨシにすがってみせる。
「ボク、やっと家に帰ったら娘に『おじちゃん』って言われてさあ……」
「……追いだされないようになんとかしよう」
「お願いしますよ」
一方、テレビは被疑者の半生を追っている。「中学になじめなかったみたいですね」「両親に暴力を振るうようになって」「あれこれ命令して、そのとおりにしなければ怒って自殺をほのめかしたそうで……」。
そこに速報が入ってきた。被疑者の供述だ。「ずっとみじめだった。そうなったのは親のせいで、学校のせいだ。それなのに俺だけ悪者なのは不公平だ」そうだ。
動機とは意味づけだとナヨシは思う。後から納得できる理由を探すものだ。彼が本当に求めていたものは、もう本人にもわからないのかもしれない。
ニュースでは「心の闇」「社会の歪み」と解説している。同じような状況でも人を殺す人と殺さない人がいる。むしろ大多数はそうしない。誰もが犯罪者になるわけではない。それと同時に誰もが犯罪者になる可能性をもっている。
「……人を殺したやつも守るのが法で人ですか。自分で死ぬことも、まっとうに生きることもできず、『人』でいることすらやめようとしたのにねえ」
シァオミンがやれやれとチャンネルを変えた。「二体駆除、吸血鬼のゆくえは」と字幕が出て、昨日の現場から中継が始まる。規制線の向こうに警察官が動いていた。
「不満か?」
「いーえー、トモエさんのマネですー」
おどけたように首をすくめたシァオミン。そのトモエは人に斧を振ったので注意を受けた。相手が殺人犯であったとはいえ、空振りでよかったといったところである。
「そいつのとった方法が、社会では犯罪とされる行為だっただけだ」
「なんであろうと、こっちとしては捕まえますけど。他人をぞんざいに扱うから蔑ろにされるのか、蔑ろにされたからぞんざいにするのか? どっちですかね?」
もしかしたら、彼だって救われたかったのかもしれない。しかし彼を訴えるのも裁くのも弁護するのもナヨシの仕事ではない。もちろん税を払い投票をする。それは間接的に彼と関わることだ。けれどもこれ以上は自分のやることではない。ナヨシはこめかみを押さえてため息をついた。
「シァオミン。その食人鬼の情報を頼む」
「東京駅とは別個体です。ユエンさんによると、被害者の流した血を嗅ぎつけてきたようです。アスファルトではなく地面に直接染みこんだので」
「地面か……」
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