3章、罪の自覚
第11話、だいじなもの 上
ニュースでは、警察からの呼びかけがされていた。「血が地面に流れると吸血鬼を引き寄せるので、速やかに通報するように」。保育園、学校では外での運動をしばらく禁止するらしい。
「地面に染みた血を見つけるか。考えられないこともないが……」
「ユエンさんでもつかめないんだなあ」
「そうだな……私の影のように、感覚を伸ばしているのかもしれない」
その一方で、シガンはキッチンにいる。部屋にこもって絵を描くのに飽きたというわけでもなさそうだが。まだ例の吸血鬼を描いているのだろうか。ひとりになりたければまた勝手に部屋に入るだろうから、嫌ではないらしい。
シガンがぬいぐるみを抱いたコウに声をかける。
「コウくん、『みなと』の冬至祭に行くって言ってただろ?」
「うん」
「そのとき使うドングリ取りに行かないか? 追加で取ってきてほしいって」
「ドングリ……?」
言われてもピンとこない様子だ。シガンはコウの持っているスケッチブックに楕円を描く。片方の端がとがっていて、もう片方には丸い帽子をかぶっていた。
「見たことないか? こんな……コロコロしてる木の実」
コウが絵を見て首を振った。アオが絵をのぞきながら聞く。
「もう十二月だけど、あるかな?」
「まあ……どっかにはあるだろ」
「ふーん……どう? ドングリ取りに行く?」
コウはむーと口を引き結んでいる。
「どんぐりころころだよ、ころころ」
シガンがクロの両手をつかんで左右に振った。リズムよく踊るように誘う。コウは目で追って手で動きをまねした。見ているうちにわくわくしてきたようで聞いてきた。
「ドングリはおもしろいの?」
「どうかな? 見てみないとわからないなー、面白いかなー?」
「コウ、ドングリとりにいく!」
うまくひっかかったとシガンが笑う。アオはスマホで調べていたが、ドングリがある場所がわからない。いくつか公園を回ってみるかと思ったとき、知ってそうな人を思い出した。
「ちょっとショウケンさんに聞いてみるわ。あの人、よく知ってるみたいだし」
検査技師のショウケンは虫好きで、植物にも詳しいと言っていた。この時期でもドングリが取れるところを知っているかもしれない。「よかったな、ドングリあるぞ」と言ったシガンに、楽しみだねというようにコウが笑った。
ドングリ取りを控えたある日のことだった。
突然、バリッと何かが破れる大きな音がした。「なにしてんだ!」。シガンが叫んだ。「コウ!」。アオがキッチンをのぞけば、シガンがコウを怒鳴りつけている。
「なんでこんなことしたんだ、ひどいだろ!」
コウは黙りこくったままうつむいている。クロを抱いて縮こまってしまっている。
「ちがう……」
「やったじゃないか! 見てたからな!」
「どうした、どうした」
慌ててアオが出ていくと、コウはその背中に隠れた。その背をぬいぐるみで叩く。
「痛い、痛いよ。どうしたの?」
クロを振りまわし、バシバシとアオにぶつける。言いたいことがあるのだろうが、自分では言葉にできないらしい。口をぎゅむっと曲げている。ぬいぐるみの頭を優しく押さえながら、今度はシガンのほうに聞く。
「ええと、コウくんがどうしたの?」
「どうも何も……これだよ。ぶん殴って穴開けやがった」
そう言って両手で抱えられるくらいのカンバスを見せてくる。キッチンに絵を置いていたら、コウがやってきていきなり破ったのだと言う。それはダメだなあとアオはコウに困った顔を向けた。
「あちゃあ……。あれ、コウくんがやったの?」
コウは気まずそうに視線をそらし、ぬいぐるみをぎゅうと抱き潰すようにして言った。
「やった……けど、ちがう……」
「ほら、やったんじゃないか」
コウが絵を見たのは気になったからだ。けれども、そこにいたのは金の獣だった。それに気味の悪い色がまとわりついていた。周りはずっと黒くぬられ、赤黒い丸が浮かんでいる。すごく嫌な気持ちになった。こんなもの見たくない。こんなのがあってはいけない。だから殴って穴を開けた。
「ごめんな、シガンさん。ほんとごめん……」
「ぼくが怒ってるのはコウくんだ。アオさんじゃない」
シガンも引くつもりはない。子供相手とは思うが、それでも許せないことはある。見ていなかった自分が悪かった、子供だから許してあげてというようなアオの態度が気に入らない。アオに謝られてもどうにもならない。
「ん。そうだなあ。……コウくん、なにが気に入らなかったの? ほら、ごめんなさいしよ?」
「……やだ!」
コウはぐずぐずと泣きそうになりながら叫んだ。アオがどうしようというように眉を下げる。コウは叫びたかった。あんな絵は嫌いだ。描いたシガンも嫌いだ。わかってくれないアオも大嫌いだ。みんななくなってしまえと思った。
それが言動に変わる前に、のんびりとした声がかかる。
「おお、こわい。牙をしまえ。……コウ、体はどんな感じがする?」
向こうからユエンが聞いてきた。場にそぐわぬ調子で。コウはちょっと動きを止めた。目をまばたかせ、よく考える。意識を外から自分の体、その内側に向ける。
「……クロちゃん。どんな感じするの?」
アオはぬいぐるみに聞いた。聞かれているのはクロであり、コウではない。だからコウはその不思議な感じを言葉にできた。
「おなか、あつい。いやだ。ぐるぐるあつくなって、あたまも、へんになってる」
コウがべしょべしょ泣きながら伝える。体の中で暴れている、いつもと違うおかしな感覚。腹がぎゅうっとなって嫌で嫌でしかたなくて苦しくてどうしようもない感じ。
聞いていたシガンはため息をついて、そこにしゃがみこんだ。がりがりと頭をかきながらコウが何を言いたいのか探す。
「ええと……つまり、何か怒ってるのか?」
名前がつくとその感情がより強くシンプルに感じられる。ぐちゃぐちゃになっていた気持ちがほどけてきれいにまとまる。自分がどうしてこんなに泣きたくて苦しくて頭が熱くてお腹が痛くなるのか言葉になった。ゲンがコウに擦り寄りクウンと鳴いた。
「ぼくが大きい声出したの、怖かった?」
コウはクロでシガンを叩いた。振り回してシガンの肩に何度も当てる。
「シガン、いやだ。こわい。くるしくて、いやだ。シガンはひどい」
「そっか、怒られて悲しかったのか」
シガンはそっとクロの頭をなでてやった。コウはずびずびと鼻をすする。
「いやなのに。えがいやだったのに」
それなのに壊したらもっと嫌な気持ちになった。シガンが怒ってきて、怖くて悲しくて、誰にもその気持ちをわかってもらえなくて怒った。
「そっかあ……」
シガンが少し考える。アオはじっとコウに背中を貸していた。
「……コウくん、マンカラやろうか。負けたほうから謝る。いいね?」
シガンが立ち上がって豆を出してくる。なんで急にゲームをやるんだろうとコウはわからない。わからないまま、ジャンケンでシガンが先手。豆をとってゴールに入れる。
コウはどう豆を動かそうか考えている間に、ざわざわする心が落ち着いてきた。ぐじゃぐじゃしていた頭がすっきりしてくる。バラバラと最後の大豆がゴールに入った。最後の豆をとって結果はコウの勝ち。
「……ごめんなさい」
負けたシガンが頭を下げた。さっきより落ち着いた声だった。
「どなって悪かった」
コウは自分も何か言わなきゃという気持ちになって口を開いた。でも何も言えなかった。また口をつぐむ。けれども、シガンが言った「ごめんなさい」で、あんなに怒っていたどうしようもない気持ちがわかってもらえて少し楽になった気がした。
「コウくん。あれは、ぼくにとってはだいじな絵だ。壊されるととても悲しいし、怒る。だから壊すのダメ」
「……だいじ」
「そう。コウくんもだいじだから、どなるのダメだな。ごめん」
その夕方。シガンがキッチンに出てくると、テーブルにあの絵が置かれていた。ゴミに出そうとしたのに、裏側から大きく布テープが貼ってあった。その横にスケッチブックの切れ端が一枚、へたくそな字で大きく「ごめんなさい」と一言だけ。
シガンは「悪いことしたな」と思った。自分で見てもこの絵はたいしたことなくて、塗りつぶしてしまおうかと思っていた。「ごめんなさい」の下に「いいよ」とだけ書く。絵を持ったシガンが部屋に入っていったあと、コウがこわごわと出てくる。テーブルの上に残された紙を見て、アオを呼んだ。
あの後、アオは絵を直しコウにお手本を渡した。コウはひとりで字を書いた。アオの部屋にはうまく書けなかった紙がたくさん残っている。
「お、どうした?」
コウはシャツのすそを引っ張って「いいよ」を指さす。
「……これ、なに?」
「ん? 許すよって。もう怒ってないよって」
「おこってない?」
「うん。おーい、シガンさん。夕ご飯つくるよ」
今日の夕飯はと冷蔵庫を見て、豆苗とエノキの肉巻きにしようと考える。呼ばれてシガンが出てきた。コウがかけよっていく。クロで顔を隠すようにして、必要な言葉を、ようやく自分のものとして口にする。
「ごめんなさい」
「……もういいよ。よく謝れました」
人が歩いている。人が話している。自転車が通りすぎて、車が止まった。「東京の街はせわしない」とユエンが言った。コウはアオの吐く息が白いをのみてマネしようとしたが、同じようにできなくて首をかしげた。
ごめんなさいから数日後、少し離れた公園へと向かう。ショウケンが「ドングリあるよ」と教えてくれたところだ。「待て待て待て」。走り出したコウをとっさにアオが体で止める。
「なあ、あの雲、ゲンに似てないか?」
シガンがさえわたった空を指す。薄い青の空に雲が並んでいた。今日は遠くがはっきり見える日だ。
「ゲンだ! あそこがしっぽ!」
「うんうん、その横におさかなさんいるなあ」
「おさかなじゃないよ、あれはリンゴ!」
コウは何に見えるか叫んだ。そして驚いた。どうしてあれがおさかなに見えるんだろう? なんでアオにはリンゴに見えないんだろうと疑問に思った。
「ねえ。じゃ、あのくもはなんにみえる?」
コウが違う雲を指さして聞く。アオやシガンはあれをどう見ているのだろう。どういう世界を頭のなかで描くのだろう。
「うーん、クジラ?」
「靴じゃない?」
「ええー?」
クジラにも靴にも見えない。あれはくしゃみした時のアオの顔だ。
「くもは白いでしょ。なんで?」
「小さい水の粒が白く見えてるから……だったっけ」
「じゃあ、お空は? ずっとむこうまで青いの。いっぱいきらきらしてつめたい」
「うーんと。太陽は白く見えるけど、ほんとうはいろんな色をしてるんだ。空気は赤い光をあっちこっちにバラバラにしちゃう。だから、ぼくたちが見えるのは青の光だけ……なんだけど」
「じゃあ、きいろになるのもくらくなるのもバラバラになっちゃったから?」
「ええと……」
シガンは昔習ったことを思い出そうとして「ううん」とうなった。
「じゃあ、あれなに、あれ」
「ポストか? あの赤いのだろ?」
「うん、赤いの。こわいの? おこってる?」
「いや、怖くはないし怒ってもいない……手紙を出すんだよ」
歩いて三十分の道が二時間くらいかかるんじゃないだろうか、これ。別に急ぐわけでもないが、思い通りにならないのは疲れる。聞いておきながらコウは耳を向けてない。地面のまんなかにしゃがんでいる。
「もおー……とっとと行くぞー」
シガンは肩を落とし、あきらめに似た声を吐き出した。
「コウくん、ショウケンさん待ってるから……」
「これなに? きいろだ。まぶしい、いろ。ぼこぼこしてる」
「それは誘導用ブロック……見えなかったり見えにくい人が歩きやすくするためのだよ」
「ほら、交差点で音が鳴ってるだろ。あれもそうだな」
コウはでこぼこのブロックを踏んでみた。これがどうやって「わかる」のだろう。両足で何度も踏みしめて、そのでこぼこした感触を考える。これで歩くってどういうことだろう。目が見えないってどういうことなんだろう。
「コウ、『見る』ということは目だけで見るわけではない」
ユエンは闇のなかでも「見える」。妖精は目を使わなくても「見える」し、耳を使わなくても「聞こえる」。全身を使って「見て」「聞く」ものだ。鳥や蛇が人間に見えない色が見えているように、コウモリや犬が人間に聞こえない音が聞こえているように、妖精は人間とは違う世界を見ている。
「目で見ているからなんでもできるわけではない。目で見ているからわかっているわけでもない。だから、よく『見る』ことだ」
「うんと……わかんない、けど」
コウは考えて、考えて、わからないと思った。わからないけれど、自分が「見えていない」世界があることをぼんやりと感じた。自分が思うこととシガンが思うことは違った。自分が見たものとアオが見ているものも違う。
「……おもしろい、ね」
空は青くて赤や黄色、緑にきらきらと光っている。人の歩く音、話す声、車の通る音、電線に止まっている鳥の鳴き声。油の匂い、焦げた匂い、汗の匂い、店からコーヒーの匂い。道路が欠けてへこんでいる、砂利の溜まったところがすべる、道の傾き、グレーチングの固さ。
プラスチックのゴミが風に吹かれて転がっていく。それを追いかけようとコウが走り出す。アオが急いでシャツの背中をつかんだ。つかまれたままトランスボックスの落書きを見つけた。世界を知ることは自分を知ることだ。
ひゅうと冷たい風が鳴った。さあ、目的地まではもう少しかかるだろう。
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