3章、だいじなもの

第21話、だいじなもの 上

 ニュースでは、警察からの呼びかけがされていた。「血液が地面に触れると吸血鬼を引き寄せる可能性があるので速やかに通報するように」。保育園、学校では外での運動をしばらく禁止するらしい。


「ユエンさんでも捕まえられないんだなあ」

「そうだな、ゲンを振り切られてしまった。それにしても、地面に染みた血を見つけるか。私の影のように、感覚を伸ばしているのかもしれない」


 その一方、シガンはキッチンで絵を描いている。部屋にこもっているのに飽きたのだろうか。ひとりになりたければ勝手に部屋に入るだろうから、ここにいるのが嫌ではないらしい。


 シガンが思いついたように顔をあげた。ぬいぐるみを持ったコウに声をかける。


「コウくん、『みなと』の冬至祭に行くって言ってただろ?」

「うん」

「そのとき使うドングリとりに行かないか? 追加でとってきてほしいって」

「どんぐり……?」


 言われてもピンとこない様子だ。シガンはコウの持っているスケッチブックに楕円を描く。片方の端がとがっていて、片方には丸い帽子をかぶっていた。


「見たことないか? こんな……ころころしてる木の実」


 コウが絵を見て首を横に振った。アオが絵をのぞきながら聞く。


「もう十二月だけど、あるかな?」

「まあ、どっかにはあるだろ」

「ふーん……どう? コウくん、ドングリとりに行く?」


 コウはむーっと口を引き結んでいる。


「ドングリころころだよ、ころころ」


 シガンがクロの手をつかんで左右に振った。リズムよく踊るように誘う。コウは目で追って手で動きをマネする。そのうちにわくわくしてきたようで聞いてきた。


「ドングリはおもしろい?」

「どうかな? 見てみないとわからないなー、面白いかなー?」

「コウ、ドングリとりにいく!」


 うまくひっかかったとシガンが笑う。アオはスマホで調べていたが、ドングリがある場所がわからない。いくつか公園をまわってみるかと思ったとき、知っていそうな人を思いだした。


「ちょっとショウケンさんに聞いてみるわ。あの人、よく知ってるみたいだし」


 検査技師のショウケンは虫好きで、植物にも詳しいと言っていた。この時期でもドングリがとれるところを知っているかもしれない。「よかったな、ドングリあるぞ」と言ったシガンに、楽しみだねというようにコウが笑った。




 ドングリ探しを控えたある朝のことだった。


 突然、バリッとなにかが破れる音がした。「なにしてんだ!」。シガンが大声で叫んだ。「コウ!」。アオがキッチンをのぞけば、シガンがコウをどなりつけている。


「なんでこんなことしたんだ、ひどいだろ!」


 コウは黙ってうつむいた。ぬいぐるみを抱いて縮こまってしまっている。


「ちがう……」

「やったじゃないか!」

「どうした、どうした」


 慌ててアオが出ていくと、コウはその後ろに隠れた。アオの背をクロで叩く。


「痛い、痛いよ。どうしたの?」


 クロを振りまわし、バシバシとアオにぶつける。言いたいことがあるのだろうが、自分では言葉にできないらしい。口をぎゅむっと曲げている。アオはぬいぐるみの頭を優しく押さえ、今度はシガンのほうに聞く。


「ええと、コウくんがどうしたの?」

「どうもなにも……これだよ。ぶん殴って穴開けやがった」


 シガンは両手で抱えられるくらいのキャンバスを見せてきた。その真ん中には、大きな穴が開いている。キッチンに絵を置いていたら、コウがやってきていきなり破ったのだという。それはダメだなあとアオはコウに困った顔を向けた。


「あちゃあ……。あれ、コウくんがやったの?」


 コウは気まずそうに視線をそらし、ぬいぐるみをぎゅと抱き潰すようにして言う。


「やった……けど、ちがう……」

「ほら、やったんじゃないか」


 コウが絵を見たのは、シガンがなにをしているのか気になっていたからだ。けれども、そこにいたのは気味の悪い色をした獣だった。すごく嫌な気持ちになった。こんなもの見たくない。こんなものがあってはいけない。だから殴って穴を開けた。


「ごめんな、シガンさん。ほんとごめん……」

「ぼくが怒ってるのはコウくんだ。アオさんじゃない」


 シガンは引かない。子供相手にとは思うが、それでも許せないことはある。見ていなかった自分が悪かった、子供だから許してあげてというようなアオの態度が面白くない。それはアオに謝られてもどうにもならないのだ。


「ん、それはそうだなあ……。コウくん、なにが気にいらなかったの? ほら、ごめんなさいしよ?」

「やだ!」


 コウはぐずぐずと泣きそうになりながらわめいた。アオがどうしようというように眉をさげる。コウは叫びたかった。あんな絵は嫌いだ。描いたシガンも嫌いだ。わかってくれないアオも大嫌いだ。みんななくなってしまえと思った。


 それが行動に変わる前に、のんびりとした声がかかる。


「おお、こわい。牙をしまえ。……コウ、体はどんな感じがする?」


 場にそぐわぬ調子でユエンが聞いてきた。コウはぴたっと動きを止めた。目をまばたかせ、よく考える。意識を外から自分の体、その内側に向ける。


「……クロちゃん。どんな感じするの?」


 アオはぬいぐるみに聞いた。聞かれているのはクロであり、コウではない。だからコウはその不思議な感じを言葉にできた。


「おなか、あつい。いやだ。ぐるぐるあつくなって、あたまも、へんになってる」


 コウが泣きながら伝える。体のなかで暴れている、いつもと違うおかしな感覚。腹がぎゅうっとなって、嫌で嫌でしかたなくて、苦しくてどうしようもない感じを。


 聞いていたシガンはため息をついて、そこにしゃがみこんだ。がりがりと頭をかきながら、コウがなにを言いたいのか探す。


「ええと……つまり、なにか怒ってるのか?」


 名前がつくとその感情がより強くシンプルに感じられる。ぐちゃぐちゃになっていた気持ちがほどけてきれいにまとまる。自分がどうしてこんなに泣きたくて苦しくて頭が熱くてお腹が痛いのか言葉になった。ゲンがコウに擦りよりクウンと鳴いた。


「ぼくが大きい声出したの、怖かった?」


 コウはクロでシガンを叩いた。振りまわしてシガンの肩に何度も当てる。


「シガン、いやだ。こわい。くるしくて、いやだ。シガンはひどい」

「そっか、怒られて悲しかったのか」


 シガンはそっとクロの頭をなでてやった。コウは顔をしかめて言いたてる。


「いやなのに。えがいやだったのに」


 それなのに壊したらもっと嫌な気持ちになった。どうしようもないのに、シガンが怒ってきて、怖くて悲しくて、誰にもその気持ちをわかってもらえなくて怒った。


「そっかあ……」


 シガンが少し考える。アオはじっとコウに背中を貸していた。


「……コウくん、マンカラやろうか。負けたほうから謝る。いいね?」


 シガンが立ちあがって大豆を出してくる。どうして急にゲームをするのかコウはわからない。わからないまま、ジャンケンでシガンが先手だ。


 コウはどう豆を動かそうか考えている間に、ざわざわする心が落ちついてきた。ぐじゃぐじゃしていた頭がすっきりしてくる。豆がゴールに入り、結果はコウの勝ち。


「……ごめんなさい」


 負けたシガンが頭をさげた。さっきより落ちついた声だった。


「どなって悪かった」


 コウは自分もなにか言わなきゃいけない気持ちになって口を開いた。でもなにも言えなかった。また口をつぐむ。けれども、シガンが言った「ごめんなさい」で、あんなに怒っていたどうしようもない気持ちが少し楽になった気がした。


「コウくん。あれは、ぼくにとってはだいじな絵だ。壊されるのは嫌だ。壊されるととても悲しいし、怒るよ。だから壊すのダメ」

「……だいじ」

「そう。コウくんもだいじだから、どなるのダメだな。ごめん」




 その日の夕方。シガンがキッチンに出てくると、テーブルにあのキャンバスが置かれていた。裏側から布テープが貼ってある。横にはスケッチブックの切れ端が一枚、下手くそな字で大きく「ごめんなさい」と一言だけ。


 シガンは「悪いことしたな」と思った。この絵はたいしたものじゃなくて、塗りつぶしてしまおうと思っていた。「ごめんなさい」の下に「いいよ」とつけ加える。


 絵を持ったシガンが部屋に入っていったのを見て、コウがこわごわと出てきた。テーブルの上に残された紙を見つけて、アオを呼ぶ。


 あの後、アオは絵を直し、コウにお手本を渡した。コウはひとりで字を書いた。アオの部屋にはうまく書けなかった紙がたくさん残っている。


「お、どうした?」


 コウはアオのシャツの裾を引っ張って「いいよ」を指さす。


「……これ、なに?」

「ん? 許すよって。もう怒ってないよって」

「おこってない?」

「うん。おーい、シガンさん。夕ご飯つくるよ」


 アオは今日の夕飯はと冷蔵庫を見て、豆苗とうみょうとエノキの肉巻きにしようと考える。呼ばれてシガンが出てきた。コウが駆けよっていく。クロで顔を隠しながら、必要な言葉を口にする。


「ごめんなさい」

「……もういいよ。よく謝れました」




 人が歩いている。人が話している。自転車が通りすぎて、車が止まった。「東京の街はせわしない」とユエンが言った。コウはアオの吐く息が白いをの見てマネしようとしたが、同じようにできなくて首をかしげた。


 ごめんなさいから数日後、少し離れた公園へと向かう。ショウケンが「ドングリがあるかもしれない」と教えてくれたところだ。「待て待て待て」。走りだしたコウをアオがとっさに体で止める。


「なあ、あの雲、ゲンに似てないか?」


 シガンがさえわたった空を指す。薄い青の空に白い雲が並んでいた。今日は遠くがはっきり見える日だ。


「ゲンだ! あそこがしっぽ!」

「うんうん、その横にお魚さんいるなあ」

「おさかなじゃないよ、あれはバナナ!」


 コウは叫び、同時に驚いた。どうしてあれがお魚に見えるのだろう? 


「ねえ。じゃ、あのくもはなんにみえる?」


 コウが違う雲を指さして聞く。アオやシガンはあれをどう見ているのだろう。どういう世界を頭のなかで描くのだろう。それは、とても不思議なことだった。


「うーん、クジラ?」

「靴じゃない?」

「ええー?」


 クジラにも靴にも見えない。あれはくしゃみしたアオの顔だ。


「くもは白いでしょ。なんで?」

「小さい水の粒が白く見えてるから……だったっけ」

「じゃあ、お空は? ずっとむこうまで青いの。いっぱいきらきらしてる」

「うーんと。太陽は白く見えるけど本当はいろんな色をしてる。空気は赤い光をあっちこっちにバラバラにしちゃう。だから、ぼくたちが見えるのは青……なんだけど」

「オレンジになるのもくらくなるのもバラバラになっちゃったから?」

「ええと……」


 シガンは昔習ったことを思いだそうとして「ううん」とうなった。


「じゃあ、あれなに、あれ」

「ポストか? あの赤いのだろ?」

「うん、赤いの。こわいの? おこってる?」

「いや、怖くはないし怒ってもいない……手紙を出すんだよ」


 歩いて三十分の道が二時間くらいかかるんじゃないだろうか、これ。聞いておきながらコウは耳を向けてない。歩道の真ん中にしゃがんでいる。


「もおー……とっとと行くぞー」


 シガンは肩を落とし、諦めに似た声を吐きだした。


「コウくん、ショウケンさん待ってるから……」

「これなに? きいろだ。まぶしい、いろ。ぼこぼこしてる」

「それは誘導用ブロック。見えなかったり見えにくい人が歩くためのだよ」

「ほら、交差点で音が鳴ってるだろ。あれもそうだな」


 コウはブロックを踏んでみた。これでなにが「わかる」のだろう。両足で何度も踏みしめながら、でこぼこした感触を考える。これで歩くってどういうことだろう。


「コウ、『見る』ということは目だけで見るわけではない」


 妖精は目を使わなくても「見える」し、耳を使わなくても「聞こえる」。全身を使って「見て」「聞く」ものだ。鳥や蛇が人間には見えない色が見えているように、猫やコウモリが人間には聞こえない音が聞こえているように、犬やクマが人間にはわからない匂いを頼りにしているように。妖精は人間とは違う世界を見ている。


「目で見ているからなんでもできるわけではない。目で見ているからわかっているわけでもない。だから、よく『見る』ことだ」

「うんと……わかんない、けど」


 コウは考えて、わからないと思った。わからないけれど、自分が「見えていない」世界があるのをぼんやりと感じた。自分が見ているものとアオが見ているものは違った。自分が思うこととシガンが思うことはきっと違う。


「……おもしろい、ね」


 空は青くて赤や黄色、緑にきらきらと光っている。人の歩く音、話す声、車の通る音、電線に止まっている鳥の鳴き声。油の匂い、焦げたような匂い、汗の匂い、近くの店からコーヒーの匂い。道路の欠けとへこみ、砂利の溜まったところのすべりやすさ、道の傾き、グレーチングの固さ。頬にあたる空気の温度、風の強さ。


 プラスチックのゴミが転がっていく。それを追いかけようとコウが走りだす。アオが急いで上着の背中をつかんだ。コウはつかまれたままトランスボックスの落書きを見つけて声をあげた。世界を知ることは自分を知ることだ。


 ひゅうと冷たい風が鳴った。さあ、目的地まではもう少しかかるだろう。

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