第19話、殺人鬼 上
男の子がいくつかの角を曲がったところに、その男はいた。
年は三十ほどだろうか、そこらを歩いていそうな姿だ。なにも聞いていないかのように突っ立っていたが、ふっと顔をあげて男の子を見た。口元に赤い色がしたたっている。「……やあ」。男の子は立ちすくんだ。違う、この男は悲鳴の主ではない。
そこにコウが追いついた。コウは匂いが強いと感じた。しょっぱいような苦いような甘いような不思議な匂い。その匂いを吸うと胸に消えない染みのように張りつき、くらくらとめまいがする。
男がいた。匂いは男に深く染みついていた。はっと目を見開いたコウに、男の赤い口元が笑ったように見えた。嘲るような乾いた表情だった。
その手には、赤黒く色が変わった刃物が握られている。月の光に虹色に光る。奇妙な色からコウは目が離せなかった。胸がざわざわする。それはグロテスクというよりチープで、滑稽ですらあった。
「逃げて!」
男の子がかすれた声をあげた。逃げる? 逃げるって……なんだろう。体がぴくりとも動かなかった。コウはぬいぐるみを押しつぶすほどに抱きしめて固まっていた。
そのとき、さっと目の前が塞がった。男の子がコウの前に立っている。彼の足はひどく震えていた。腰はみっともなく引けているし、バットを持つ手だってこわばっているのに。
男の表情が奇妙なほど鮮明に見えた。どこかで見たような顔にも、それが夢のなかだったようにも思える。男の手がゆっくりと動いた。刃物が迫ってくる時間はねっとりと遅くなり、動きが止まったようだった。
その瞬間、斧がふってきた。それは男のそばの地面を打って嫌な音が響いた。左腕に白い腕章、トモエだ。男はさすがに驚いたように、伸ばした手を止めた。
「クナドくん、その子連れて走って! 急げ!」
男の子は、クナドと呼ばれた子はコウの手をしっかりとつかんで走りだした。コウは走るのが苦手だ。でも手が引っ張ってくれた。だから足が動いた。ふわふわとして地面を蹴っている感覚さえなかったけれど、手の感触だけははっきりとしていた。
「どうした」
クナドとコウは路地を曲がって大通りに出た。どちらに逃げようかと迷ったとき、そこの陰から抜けるようにユエンが姿を現した。黒い髪と目は一瞬、陰と見分けがつかなかった。クナドがぎょっと後ずさりする。
「あ……ユエン、ユエン……」
コウがとりすがった。それを見て、クナドが慌てて説明しはじめる。
「あ、あの、助けてください……!」
「わかっている。助けを求めるのはいいことだ」
「え、あ……その……」
「よく逃げた。よい子だな」
ユエンはクナドを落ちつかせるように微笑んだ。黒い目が柔らかく弧を描く。なぜか彼女の言葉は安心できた。クナドはその場にへなへなと崩れ落ちた。
「お、ゲンちゃんどうしたの?」
日は落ちたばかり、アオはいつもの見回りに出ていた。ゲンが首をあげ、ウォウと鳴いた。ある方向をにらんで肩をいからせ、ウウ……とうなる。
「出たか?」
ゲンは乗れとばかりにアオに背中を差しだした。アオがその首をつかんだとたん、ゲンが駆けだす。あっという間にスピードにのる。そこの陰を踏んで大きく跳び、あちらの影におりる。ふり落とされないのが不思議だ。
影から陰に跳んだかと思えば、陰に沈むように深く潜った。なかは暗く、まるで水に潜っているようだ。ぞわっとした感覚が背中に生まれる。湿っているのか乾いているのかもわからない。とても静かでひんやりとしていて、呼吸すら忘れそうになる。
陰を泳いで出たところは、細い路地裏だった。すぐ近くで警戒笛が聞こえた。手を離すと、ゲンはぬるりとすべるようにそちらに向かった。アオも追う。
その先にはトモエがいた。目の前には食人鬼。トモエは振りおろされた食人鬼の爪を避け、距離をとろうと跳んでさがる。トモエもアオに気づいた。
食人鬼に気をつけながら、トモエは顎でしゃがみこんだ男を指す。腰を抜かしているようだ。「た、助けて……助けるんだ、そいつを殺せ! 死んでしまうぞ!」。
「あいつが人間のほうの犯人だ。食人鬼は血に寄って来たらしい」
トモエがぼそりと不満を口にする。
「……あれを助けるの嫌だな」
「そう言わんで。人食ってこれ以上、強くなられても困るし」
満月にツノが二本見えた。つまり東京駅の食人鬼とは別だ。そいつはトモエとアオを見、爪を突きだそうとする。しかし足が動かない。ゲンが留めているのだろう。
トモエが斧を担ぎ、建物の壁を蹴り、三角に飛んで上をとる。アオは足元に矛を繰りだした。ぐさりと深く刺さった手ごたえ。ちぎれた足が塵に変わる。
食人鬼は手でアオを潰そうとしてきた。アオはすばやく矛をたぐり、斜め後ろに跳んだ。ふり落とした斧がざっくりと食人鬼の背中に当たってえぐれた。塵が舞ってすぐに傷が塞がる。切られた足も生えてくる。
「くっそ……」
着地したトモエが、足ばらいを跳ぶように避けた。転げるようにして手をつき、体勢を整えて向きなおる。アオが足をいなして間合いに入った。伸ばされた手を受け流しながら矛を振りあげると、まっすぐ腕に切りこんだ。
食人鬼の意識がアオに向かう。トモエが隙を見てすべるように近づき、下腹を切り裂いた。胴が半分以上裂け、塵が舞い落ちる。
ところが切られたところからぼこぼこと二本の足が生え、四本足の人に似て異なるなにかになる。たまにいる異形の食人鬼は、人と戦って生き残ってきたものだ。
「こんのやろぉ……」
「そこか!」
「ヤマさん! 頭だ!」
飛びこんできた男の声は六道ヤマ、鬼害対の隊長だ。
食人鬼の頭は地面から二メートル以上、こちらの攻撃が届く前に振りはらわれるだろう。意識をそらして一気にかかるしかなさそうだ。しかし食人鬼や吸血鬼というものは、どうも目だけで見ているわけではないらしく、背後への反応もすばやい。
「……落とすか」
「わかってます」
ヤマのつぶやきにトモエが答え、足元に向かう。下のほうに意識を集中させ、足を切って再生する前に頭を狙う。まず飛びこんだのはアオ、握りつぶそうと伸びる腕を石突でひねって撃ち落とす。返した矛先で足に切りつける。貫き、切りはらうと足は塵に変わった。
隙を見てトモエが深く踏みこんだ。トモエは向かってくる爪を斧で叩き落とし、下からもう一撃を入れようとする。しかしその前に腕が伸びてきた。とっさに二歩三歩とさがって避ける。
背後にまわったヤマは蹴りにきた足をかわした。剣を振りあげ、踏みこんで切りつける。剣の柄頭は輪になっており、そこに通された小さな輪がジャラと鳴った。アオが他の足を相手して引きつけている。ヤマが足のつけ根に大きく切りこむと、食人鬼がぐらついた。剣を引くように振りきる。
「せい!」
ヤマに切りとられた足が地面に落ちて塵に変わった。トモエは迫る腕を受けきり、伸びきったところを叩き落とす。斧を振りぬくと、腕が塵になって消えた。
残るは腕が一本と足が二本。ヤマが剣の腹で腕をいなして足に切りこんだ。避けようとした食人鬼が一瞬、片足立ちになる。足をアオが矛で突きあげた。固い肉の感触はすぐに細かい砂のように変わる。矛が抜けないよう、腰を入れて薙ぎはらう。
「おりゃあ!」
食人鬼はバランスを崩した。頭にトモエが斧を打ちおろす。ところがそれが当たる寸前、食人鬼は爪で自らの残った足を切り裂いた。そのまま片腕を広げ、建物の外壁をつかみ、トモエの背後に大きく飛び退いた。ゲンが逃がすまいと伸びたが届かない。
食人鬼は見る間に再生した足で壁を蹴り、アオたちの頭上を跳んだ。むこう側におりると、すぐさま地面を割って逃げようとした。
「ヴゥーッ、ウァウ!」
満月に、白い犬が浮かびあがる。額に黒い毛が点のようにある犬だ。犬はもう一度鳴いた。食人鬼は犬におびえるように一歩後ずさりした。チャンスだとトモエが駆けよろうとしたとき、鋭い声が飛ぶ。
「動くな!」
それは人間に対しての警告だ。トモエが足を止める。ドンッという音。もう一回。
一発目は腹、食人鬼はびくりと体を痙攣させて動きが止まる。二発目で顎から下が塵に変わった。頭部の上半分だけが落ちてきて地面に跳ねる。そこからまた腕が生えようとしたところを、即座にヤマが剣で叩き潰した。かち割られた頭が塵になって、後にはひしゃげた銀弾が二つ残っただけだった。
「ヤスコさん、もういいよ」
むこうからオレンジ色の狩猟ジャケットを着た中年の女が現れる。手には猟銃。
「どうも。……
「なんで俺だけ、こんな目にあわなきゃいけないんだ!」
しゃべるところを見ると、命に別状はない。ヤマは男の手当てにはいる。遠くからパトカーと救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
「俺はすごいのに、なにやったってうまくいかない。みんな俺の足を引っ張ってしあわせになってるんだ。そんなの不公平じゃないか!」
ヤマが至極真面目な顔でうんうんと聞いている。ヤマは優しいわけではないとトモエは思う。ただ、トモエのようには言わない自制心があるだけで。ヤマの顔が優しく見えるのはヤマのせいではない。
防除組合は都の依頼と警察の許可が出て動く。できてそう経っていない鬼害対が昔からある組合とそれなりにうまくやっているのは、この文句を言いにくい顔のおかげでもあった。しかし男はその顔に激高した。
「さも自分はいい人ですみたいな顔しやがって! おまえみたいなのがいるから俺はみじめになる! いっつも俺が悪い、俺なんてくだらないやつだって見くだして!」
「そうですか」
「だから俺は吸血鬼になってやった。あいつらに思い知らせてやる。吸血鬼の話になるたび、俺は永遠に語られる! 俺こそホンモノの吸血鬼になれたはずなのに!」
「へえ。で、その吸血鬼サマと会ってどうだった? ああなりたかったんだろ?」
「トモエさん」
ヤマがやんわりととがめると、トモエは嫌な顔をして顔を背けた。男はもごもごと「俺が死んでもいいっていうのかよ……ふざけんなよ……」とつぶやいていた。
「……では、お願いします」
表情を変えず、ヤマはやってきた警官に男を引き渡す。救急隊が担架を持ってやってきた。救急車を見送ると、トモエが舌打ちを残して行ってしまった。そういえば平坂サエの息子が発見者だそうだ。そちらの対応に行くのだろう。
白の腕章にジャケットのオレンジが目だつイチコがホウキで塵を集めていた。ヤマが見たところいい腕をしている。猟銃はすでにケースにしまわれていた。
「これで何体目でしたか」
「食人鬼は三体目です。うち一体が捕まっていません」
イチコに聞かれ、ヤマが答えた。東京駅に出た一体のゆくえがわかっていない。
「そうですか。殺せるだけいい」
あっさりとそう口にするイチコ。殺せるなら人やクマと同じ、不思議な化け物ではないと言いたげだ。「ヤスコさん、そこ踏まないで」。ヤスコさんと呼ばれた犬が、舌を出してイチコにまとわりついている。
「殺す……ですか」
都市で生まれ育ったヤマは自分の手で生き物を殺すと言う感覚が薄い。ヤマたちは食人鬼を「駆除」すると称するが、イチコはそれを「殺す」と言った。
「そうですね。我々はなにかを殺さずには生きていけません。もっともわざわざ根絶やしにする必要はない。そこにいるけど干渉しあわないくらいがいいですよ」
「なるほど」
「……ああ、人間が捕まったんでしたか」
「人が人を殺すというのは怖いものです。食人鬼とは違う怖さがある」
「クマやイノシシは怖い。火事や洪水、地震も怖い。食人鬼だって怖いものです。でも、それはそういうものでしょう」
イチコは静かに答えた。
「そういうものを恨んでもしかたがない。運が悪かっただけです。できるだけそうならないようにするしかない。けれども、人は自分と同じ姿をして同じ言葉を使うから、同じような感情、同じようなふるまいを求めてしまう。だから通り魔というのは怖く、理不尽で、怒りを覚えるのでしょう」
「人は人を殺さないと信じているのに、それを破るから怖いと」
人殺しはいけない。「では戦争は」「正当防衛は」「どのような理由であれば酌量されるのか」。こう思うのはそもそも「普通は人を殺してはいけない」という前提があるからだ。この国の多くの人がそれを無意識に「信じて」いる。
人はなにかを信じて生活している。例えばお金。買い物をするとき、いちいちその価値を疑いやしない。ルールも守られているときは疑われないものだ。それは神を信じることとあまり変わりないとヤマは思う。
「そうですね。吸血鬼は人の形をして人の言葉を話し、人にまぎれて生活するといいます。言葉は通じるのに考えを共有できない隣人というのは、とても怖いのでは?」
絶対にないはずのものがある。当たり前にあるべきものがない。自分が「普通」だと思っていたものが普通ではなくなることが怖い。
「ふむ。昔、ありました。家族がいつの間にか宇宙人と入れ替わっていた映画が」
「ふはは。ありましたなあ」
イチコが笑い声をたてると、路地裏の澱んだ空気がかき消されていく。
吸血鬼とは生きた都市伝説だ。実際に存在するが、そこに意味を見出すのは人間の勝手な思いこみにすぎない。鳥の縄張り争いをきれいなダンスと思うように、小動物の威嚇行動をかわいいと思うように。
「ヤマさん、オレは
「はは。今度お茶を用意しましょう」
ヤスコさんが「ワン」と嬉しそうに鳴いた。くるくるとイチコの足元をまわる。犬用のおやつも必要だろうというように。
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