第10話、人間 下
今日のシガンは病院で家を空けている。アオもそれについていった。吸血鬼にやられた傷の抜糸だ。背中なので風呂に入るのも大変だった。それでも骨や神経に損傷がなく、出血が少なかったのは幸運だ。吸血鬼に噛まれた場合、多くは出血が止まらなくなる。運よく逃げても出血多量で死亡した例もある。
吸血鬼による被害はあるものの、人々は普段どおりの生活をしている。確かに鬼害を心配するより、交通事故を心配したほうが現実的だ。それに誰も自分が襲われるとは思っていない。
しかし実際に被害にあったシガンは病院以外にほとんど外に出ず、部屋で絵に没頭している。コウの靴もぴかぴかなままで、ユエンも家にいることが多い。買い物もアオが行っていた。
「よっと……ただいま」
「はい、お留守番ありがとね」
シガンに続いて帰ってきたアオは、近くにいた犬の背中をポンポンと軽く叩いた。そして毛をすくようになでた。硬めの毛が手に触れる。犬は嬉しそうに体を寄せてきた。ふふふと思わず笑みがもれて、話しかけてしまう。
「ワンワン、あとでブラッシングする?」
「しなくてもかまわないのだが」
「してもいいんだろ?」
横から言ってきたユエンに返し、毛を逆立てるようにわしゃわしゃとなでる。ユエンの分身だとはいうが、どう見てもただの犬だ。犬は喜んでいるように体を足にこすりつけてくる。
「……くすぐったいな」
自分がなでられたようにユエンがくすくす笑いを噛み殺した。「ほう」とアオはユエンと見比べる。さらにこしょこしょとくすぐる。犬が腹を見せ、もっとやれと催促した。尻尾がぺしぺしと床を叩く。見ていたシガンが呆れたように奥へと入っていった。
「ほーれ、ほれほれ……ん? どうしたの、コウくん?」
バシン。犬をかまっているとコウがアオの背中を叩いてきた。不意をつかれたアオが「うおっ」とつんのめる。子供の細い腕にしては強い力だ。コウは怒っているのだろうか、目がつりあがっている。ゆがんだ口元に鋭い牙がのぞく。
「コウくん、やめてー」
アオは冗談だと笑って止めるが、コウはまたバシンと背に平手を叩きつけた。赤い跡が残りそうなほど。いや、それどころではない。脇腹の肉をぎゅうとつかみにかかって爪がたてられる。手が変形し、鋭い獣の爪が肉に食いこもうとした。
その瞬間、コウはグエッと声をあげてしゃがみこむ。アオが慌てて抱きかかえた。
「おい。どうした、痛かった?」
コウはへたりこみ、首の後ろを押さえてうめいた。ユエンは冷たい目で見ている。
「大丈夫?」
その隣にしゃがんだアオは、落ちつかせるようにそっと背中を叩いた。コウの苦しげな息に混じって「あー……」という小さい声がもれる。痛そうなのに顔は険しく怒ってにらみつけていた。
「どうしたの? なんか嫌だった?」
差しだした手を力ずくで振りはらわれ、アオは眉をさげた。
「なんだ、どうした」
騒ぎを聞いて、部屋からシガンが顔をのぞかせた。触れようとするアオの手を、コウが力いっぱい押しのけている。腕が折れてしまいそうなほどだ。コウは牙をむいてひどく怖い顔になっていた。
「なあ、痛いことしないで?」
コウがアオの肩をバシバシと叩いた。アオはムリに止めようとはせず、頼むようにコウを見ている。
「痛い!」
シガンが手を打って音を出し、大声で叫んだ。コウはびっくりして手を止める。手をあげたままシガンを見たきり、叩くことも忘れたように動けない。ふんと鼻を鳴らし、シガンがきつい声で言った。
「アオさん。痛いなら痛い、嫌なら嫌と言わないとわからない」
「ん……そう、だなあ……」
アオはゆっくりとコウの手をおろしてやり、肩に手を置いて話しかける。
「痛いのは嫌。だから人を痛くしたらダメ。だいじだいじにしないと。言いたいことあったら、お口で言って?」
「……だいじ」
「そう。コウくんもだいじ。痛いのは嫌だな。ゆびきりげんまんしよ?」
わしゃわしゃと頭をなでると、コウの小指をとって自分の小指とからめた。リズムよく手を振った後、指を振りきる。
「指きった! 約束だからなー」
いまいちわかってない顔で、コウはアオの顔を見ていた。怒られたけれど、アオはもう怒っていない。コウは、アオのシャツの裾をちょっとだけつまむ。これなら怒られないだろうかとアオを見あげた。
「どうしたー? コウくん、なんか遊ぶ? なにがいい?」
怒っていない。ぐりぐり頭をなでられて、もみくちゃにほっぺたを揉まれて、ぎゅうっと抱っこされた。わけがわからないとコウはまばたきをした。抱かれたところが押されて苦しいけど苦しくなかった。
その日のうちにアオはなにかを買ってきた。スポンジでできた長い棒だ。
「これなら叩いてもいいよ。チャンバラしよ?」
棒の一本をコウに持たせる。コウはじっとそれを眺めていた。アオはコウの持つ棒の先端を自分の腕に当て、軽く叩くよううながす。コウは不思議そうにしていたが、ようやくマネしてそこを叩いてみた。バシバシと赤く跡が残る強さで叩かれる。
「うわ。力、強いな? ほれ、ほれ」
アオが自分の持つスポンジ棒を軽くコウの上腕に当てた。
「叩かれたら同じくらいの力で叩くんだ。それ以上強くしたらあかんよー」
するとコウはおずおずともう少し弱い力で叩いた。確認するようにアオを見る。アオはにこにことうなずいて叩きかえす。
「そうそう、上手上手」
コウが強く叩くとトンと弱く叩かれる。今度はコウがもう少し弱くする。さらに弱い力で叩かれる。もっと弱く叩く。すると次はちょっとだけ強い。あわせてちょっと強く叩く。叩いて、叩きかえされて、強く弱く、強く強く、弱く弱く。
アオは叩かれるのをひょいと避けてみた。コウが追いかけて叩きに行く。そのうち楽しくなってきたようで、コウも叩いた後さっと逃げるようになった。アオも追って叩いてぱっと逃げる。
コウは今度こそ叩いてやろうと棒を振りあげ、逆に手を叩かれてしまう。慌ててさがって、また近づいて叩く。パシン。アオはにっこり笑っている。コウの目元が緩んだ。口元がつられたように笑う。
「楽しいなあ! シガンさんもやる?」
「……やらない」
シガンはたいして興味がないというように部屋に入ってしまった。
それからアオがいると、コウは背中を叩きにいくようになった。ちょっと痛いくらいの力で叩いて逃げ、テーブルの下に隠れる。アオが捕まえようとするとするりと抜け出して、今度はカーテンの裾にもぐった。アオはカーテンごとぎゅっとしてやる。
「よしよし、叩くの上手になったなー。なにやる? ジャンケン? チャンバラ? お手玉? それともロンドン橋?」
聞かれたコウがカーテンから出てきて、いそいそとスポンジ棒を持ってくる。
「よーし、チャンバラやろか!」
コウの口元がにまっと笑ったように見えた。
「シガンさんもやる?」
「……少しだけな」
しぶしぶと棒を手にしたシガンだったが、やりはじめたら容赦がない。叩く力こそ手加減しているものの、叩かれるとムキになって追いかけて叩きかえそうとする。コウも負けじと叩いて逃げてまた叩こうとするが、シガンのほうが手が長い。シガンは部屋中を駆けまわってコウを叩き、つつくように追い回して角に追い詰めた。
「勝った!」
隅っこで犬を抱いたアオがすがめて見ている。
「うわぁ。シガンさん、大人気な……」
「うるさい、ぼくはいつだって本気だ」
その大きな隙に気づいたコウが抜けだして、振り向きざまにシガンの尻を叩く。
「痛い!」
驚いてコウの手が止まる。「やったなー」と振りかえったシガンがにたにた笑いながら棒を突きだしコウを誘う。コウがそうっとシガンの棒の先を叩く。シガンもコウの棒の同じ部分を叩きかえす。コウは何度もそこを叩いて感覚を確かめる。これくらいの強さなら怒られない。
「まあ……楽しそうだし、いいか」
その横でユエンがにこにことしていた。まだ赤子だと思っていたが、人間の成長は早い。アオもシガンも子供が嫌いではないようだし、まかせていいだろう。もちろん、彼らを傷つけないよう抑えつけるのはユエンの力を使わなければならないが。
「やはり人の相手は人間がいいな」
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