第5話、人間 下

 今日のシガンは病院で家を空けている。アオもそれについていった。吸血鬼にやられた傷の抜糸だ。背中なので風呂に入るのも大変だった。それでも骨や神経に損傷がなく、出血が少なかったのは幸運だった。吸血鬼に噛まれた場合、多くは出血が止まらなくなる。運良く逃げても出血多量で死亡した例もある。


 吸血鬼による被害はあるものの、人々は普段どおりの生活をしている。確かに鬼害を心配するより、交通事故を心配したほうが現実的だ。それに、誰も自分が襲われるハメになるとは思っていない。

 しかし実際に被害にあったシガンは病院以外にほとんど外に出ることなく、部屋で絵に没頭している。コウの靴もピカピカなままで、ユエンも家にいることが多い。買い物もアオが行っていた。


「よっと……ただいま」

「はい、お留守番ありがとね」


 シガンに続いて帰ってきたアオは、近くにいた犬の背中をポンポンと軽く叩いた。そして毛をすくように撫でた。硬めの毛がもふっと手に触れる。犬は嬉しそうに体を寄せてきた。ふふふと思わず笑みがもれて、話しかけてしまう。


「ワンワン、あとでブラッシングする?」

「しなくてもかまわないのだが」

「してもいいんだろ?」


 横から言ってきたユエンに返し、毛を逆立てるようにわしゃわしゃと撫でる。ユエンの分身だとはいうが、どう見てもただの犬である。犬は喜んでいるように脚に擦りついてくる。


「……くすぐったいな」


 自分が撫でられたように、ユエンがくすくす笑いを噛み殺した。「ほう」とアオはユエンを見た。さらにこしょこしょとくすぐる。犬が腹を見せ、もっとやれと催促する。尻尾がぺしぺしと床を叩いた。それを見ていたシガンがあきれてそのまま奥へと入っていった。


「ほーれ、ほれほれ……ん? コウくん?」


 バシン。犬をかまっているとコウがアオの背中を叩いてきた。不意をつかれたアオが「うおっ」とつんのめった。子供の細い腕にしては強い力だ。コウは怒っているのだろうか、目がつり上がっている。ゆがんだ口元に牙がのぞく。


「コウくん、やめてー」


 アオは冗談だと笑って止めるが、コウはまたバシンと背に平手を叩きつけた。赤い痕が残りそうなほど。いや、それどころではない。脇腹の肉をぎゅうとつかみにかかって爪がたてられる。その手が変形し、するどい獣の爪が肉に食い込もうとした。

 その瞬間、コウはグエッと声をあげてしゃがみこむ。アオが慌てて抱きかかえた。


「おい。どうした、痛かった?」


 コウはへたり込んだまま、首の後ろを押さえてうめいている。


「大丈夫?」


 その隣にしゃがんだアオは、落ち着かせるようにそっと背中を叩いた。コウは、けほけほと咳をして大きく息をしようとする。苦しげな息に混じって「あー……」という小さい声がもれる。痛そうなのに顔はけわしく怒って睨みつけていた。


「どうしたの? 何か嫌だった?」


 出した手を力ずくで振り払われ、アオは眉を下げた。


「なんだ、どうした」


 騒ぎを聞いて、部屋からシガンが顔を出した。触れようとするアオの手を、コウが力いっぱい押しのけている。人間の腕が折れそうなくらいの力だ。コウは牙をむいてひどく怖い顔になっていた。


「なあ、痛いことしないで?」


 コウがアオの肩をバシバシと叩いた。アオは止めようとはせず、頼むようにコウを見ている。


「痛い!」


 シガンが手を打って音を出し、大声で叫んだ。コウはびっくりして手を止める。手をあげたままシガンを見たきり、叩くことも忘れたように動けない。ふんと鼻を鳴らし、呆れたようにシガンがどなる。


「アオさん。痛いなら痛い、嫌なら嫌と言わないとわからない」

「ん……そう、だなあ……」


 アオはゆっくりとコウの手をおろしてやり、肩に手を置いて話しかける。


「痛いのは嫌。だから人を痛くしたらダメ。だいじだいじにしないと。言いたいことあったら、お口で言って?」

「……だいじ」

「そう。コウくんもだいじ。痛いのは嫌だな。ゆびきりげんまんしよ?」


 わしゃわしゃと頭を撫でると、コウの小指をとって自分の小指とからめた。リズムよく手を振ったあと、指を振りきる。


「指きった! 約束だからなー」


 いまいちわかってない顔で、コウはアオの顔を見ていた。怒られたけれど、アオはもう怒っていない。コウは、ぎゅっとアオのシャツのすそだけをちょっとだけつまむ。これなら痛くないだろうかとアオを見あげた。


「どうしたー? コウくん、なにか遊ぶ? 何がいい?」


 怒っていない。ぐりぐり頭を撫でられて、もみくちゃにほっぺたを揉まれて、ぎゅうっと抱っこされた。わけがわからないとコウはまばたきをした。抱かれたところが押されて苦しいけど苦しくなかった。





 その日のうちにアオは何かを買ってきた。スポンジでできた長い棒だ。


「これなら叩いてもいいよ。チャンバラしよ?」


 棒の一本をコウに持たせる。コウはじっとそれを眺めていた。アオはコウの持つ棒の先端を自分の腕に当てて軽く叩くよううながす。コウは不思議そうにしていたが、ようやくマネしてそこを叩いてみた。バシバシと赤くあとが残る強さで叩かれる。


「うわ。力、強いな? ほれ、ほれ」


 自分の持つスポンジ棒で軽くコウの上腕に当てた。


「叩かれたら同じくらいの力で叩くんだ。それ以上強くしたらあかんよー」


 するとコウはおずおずともう少し弱い力で叩いた。確認するようにアオを見る。アオはにこにことうなずいて叩き返す。


「そうそう、じょうずじょうず」


 コウがちょっと強く叩くとトンと弱く叩かれる。今度はコウがもう少し弱くする。さらに弱い力で叩かれる。もっと弱く弱く叩く。すると次はちょっとだけ強い。あわせてちょっと強く叩く。叩いて、叩き返されて、強く弱く、強く強く弱く弱く。

 アオは叩かれるのをひょいと避けてみた。コウが追いかけて叩きに行く。そのうち楽しくなってきたようで、コウも叩いたあとさっと逃げるようになった。アオも追って叩いてぱっと逃げる。


 コウは今度こそ叩いてやろうと棒を振り上げ、逆に手を叩かれてしまう。慌てて下がって、またアオに近づいて叩く。パシン。アオはにっこり笑っている。コウの目元がゆるんだ。口がつられたように笑う。


「楽しいなあ! シガンさんもやる?」

「……やらない」


 シガンはたいして興味がないというように部屋に入ってしまった。






 それからアオが帰ってくると、コウは背中を叩きにいくようになった。ちょっと痛いくらいの力で叩いては逃げ、テーブルの下に隠れる。アオが捕まえようとするとするりと出てきて、今度はアオの裾にもぐった。それを後ろ手にギュッとする。


「よしよし、叩くのじょうずになったなー。なにやる? ジャンケン? チャンバラ? お手玉? それともロンドン橋?」


 聞かれたコウがいそいそとスポンジ棒を持ってくる。


「よーし、チャンバラやろか!」


 コウの口元がにまっと笑ったように見えた。


「シガンさんもやる?」

「……少しだけな」


 しぶしぶと棒を手にしたシガンだったが、やりはじめたらまったく容赦がない。叩く力こそ手加減しているものの、叩かれたらムキになって追いかけて絶対に叩き返す。コウも負けじと叩いて逃げてまた叩こうとするがシガンのほうが手が長い。部屋中をかけまわって叩き、つつくように追い回して角に追い詰めた。


「勝った!」


 すみっこで犬を抱いたアオがすがめて見ている。


「うわぁ。シガンさん、大人気な……」

「うるさい、ぼくはいつだって本気だ」


 その大きな隙に気づいたコウが抜け出して、振り向きざまにシガンの尻を叩く。バシッと強く振り下ろした。


「痛い!」


 驚いてコウの手が止まる。「やったなー」と振り返ったシガンがにたにた笑いながら、棒を突きだしコウを誘う。コウがそうっとシガンの棒の先を叩く。シガンは振り払わず、コウの棒の同じ部分を叩き返す。コウが何度もそこを叩いて感覚を確かめる。これくらいの強さなら怒られない。


「まあ……楽しそうだし、いいか」


 その横でユエンがにこにことしていた。赤子だと思っていたが、人間の成長は早い。アオもシガンも子供が嫌いではないようだし、まかせていいだろう。もちろん、彼らを傷つけさせないよう抑えつけるのはユエンの力を使わなければなるまいが。


「やはり人の相手は人間がいいな」

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