2章、成長

第5話、人間 上

 さて、コウの服を買いに行ったアオが帰ってきた。ひょいひょいと袋から出した服を前に、シガンは苦い顔をした。

 ジーンズが二本、これはいい。白のあったかそうな上着が一枚、これもいい。下着もパジャマも靴下に靴だってもちろん必要だ。問題は長袖のTシャツが何枚か。シャツには大きく「一切皆苦」「諸法無我」「因果応報」「六根清浄」……。


「……他になかったの?」


 シガンがばっさりと感想を述べる。もっともこれはアオ自身が「ヤギさん」と大きく描かれたTシャツを着てることから想像できたはずだった。


「いいじゃん!」

「どこで買った、そのお土産四字熟語シリーズ」


 その横でコウが「四苦八苦」をもたもたと着た。幅が大きめなのはコウが細身だからだろう。ジーンズもはかせて裾を少し整え、完璧とアオがうなずく。ポケットを開いてやると、コウがもぞもぞとアメを入れた。


「ほらあ! ちょうどいいじゃん!」

「……コウくん、嫌だったら嫌っていうんだぞ?」


 コウは何も言わずに胸の四字熟語を見ている。文句がないのを肯定だと受け取ったアオが、嬉しそうに大口を開けて笑った。


「ほーら、かっこいいもんなあ?」

「なるほど、着るものも人間を構成する要素のひとつだ」

「えー……」


 ユエンが納得したので、シガンがひとり嫌そうに声をもらした。






 冷え冷えとした吸血鬼研究室に、医師のアゲハと検査技師の申待さるまちショウケンが待機している。奥の棚には食人鬼の残した塵が保管されている。吸血鬼や食人鬼にならない薬はないのかと聞かれるが、今のところは存在しない。


 そこにノックもなく男が入ってきた。見慣れた顔であるからいまさら驚きもしない。そのかわりにアゲハが少し眉を寄せた。手にしたミカンをそっと棚に戻す。食べる寸前に来なくてもいいのに。


「よ。なんかわかった?」

「ミトラさん、また来たんですか」

「どうした? ジャマか?」


 都職員の宇気比うけいミトラだ。吸血鬼担当なのだが、都庁からよくサボりにくる。お守り役のタカノリが頭を痛めているに違いない。それはアゲハの知ったことではないが「上手くごまかしといて」と頼まれるのは困る。水宮すいぐうタカノリの説教は長いのだから。


 ショウケンが紅茶を出してきて、思い出したようにポットのお湯を確認する。もうぬるいだろうがミトラは気にする男ではない。


「新たに死体がひとつです」

「ああ、聞いている」


 アゲハの報告にミトラがうなずく。ここまで大規模な吸血鬼害というのは近年なかった。吸血鬼は人を殺して吸血するが、これほどの大量を短期間にというのはそうそう聞かない。だいたいは隠れて殺し、人前に姿を現すことはない。


「食人鬼が地下に潜れるとなると、なかなか」

「だろうな」

「……ここは迷っているようにも見えますね」


 青戸から青山霊園付近まで直線でつながるように事件が起こっていたが、その後東京駅、再び霊園近くと行ったり来たりしている。すべてを同じもののしわざとすればだ。


「今、発見されてるのは吸血鬼と食人鬼が一体ずつ。協同して動いてるのかどうかもまだ……」


 ふう、とどちらからともなくため息がもれた。


「……そうだ。東京駅にいたという、あの妖精はどうなってる?」

「彼女であれば、組合のものがついています。人間に紛れていても吸血鬼がわかるのだと」

「ふぅん……」


 ショウケンが紅茶をすすめた。ミトラはそれを一口飲んで声をひそめる。


「信頼できるのか?」

「ええ、それは……」


 そこまで言って、アゲハはなぜ彼女を信頼したのかと考える。あの黒い目が思い浮かんだ。何かか違和感を覚えたのに忘れている気がする。


「もちろん、こっちに都合がよければ協力するさ」

「はい」

「そうでないのなら、その時対処するしかない」


 彼女は人間と協力すると言った。それにウソはないだろう。

 その時、アゲハの机で電話が鳴った。研究室獣医師の馬頭ばとうカナヤからだ。あわれな被害者の検視に立ち会っているはずだが……と考えながらすぐに受話器を取る。


「はい、布留部ふるべ。カナヤか」

「ああ、アゲハさん。やっぱり吸血鬼ではなく人間のしわざでしたよ」


 苦々しい声が飛び込んできた。食人鬼事件と傷の状況が違うことは、通報で警官が駆けつけた当初からわかっていた。食人鬼が吸血する際には凝固を妨げる唾液を入れるため、血が多量に流れる傾向にある。もちろん、全部がそうというわけではない。人形町の事件では食人鬼の力で遺体がちぎれていたが、吸血したとは考えにくかった。


「……そうか」

「刃物の傷です。先ほど、解剖に回されました」

「わかった。人間の犯行で確定だな、伝えておく」


 通話を切ったその瞬間、アゲハが受話器を叩きつけるように置いた。


「年間、何件殺人があると思ってるんですか」


 ショウケンがテレビのチャンネルをいくつか変えた。まだどこも人間のしわざとは出ていない。


「殺人といっても通り魔はそう多くないだろうが」


 ほとんどの殺人事件は家族や顔見知りによるものだ。あとは利害関係か。そうであればまだ理解できる。けれども通り魔というのは不理解で不条理で「怖い」と感じられた。

 もっとも吸血鬼に殺されるのも人間に殺されるのも変わりはないとアゲハは思う。当事者以外からすれば人死にはただの「数」だ。悲劇として消費され、忘れられていくニュースのひとつにすぎない。


 しかし吸血鬼は訴訟の対象にならない。刑事も民事も。人間ではないから責任がない。損害を賠償したという話も当然ない。そのかわり駆除と称して人間が殺しても、たいした問題にはならない。人権などないし、動物愛護にも鳥獣保護にも当てはまらない。


 じっと聞いていたミトラはショウケンにコップを返し、立ちあがった。そろそろタカノリが探しだした頃だ。こっそり帰って驚かしてやろう。


「そっちは刑事部にまかせる。吸血鬼は……その妖精とやらが見つければいいが」






 アオは夜、見回りに出る。ということでアオの布団をそのままコウが使うことにした。「まあ、ひとりでも寝れるだろ」とコウに寝るだけの準備をしていった。

 しかし朝方帰ってきた時、部屋の隅でひざを抱えていたので慌てた。「どうした?」と聞いても答えない。身を縮めて耐えるようにしていた。これは悪いことしたなと思ってシガンに持ちかける。


「やっぱシガンさん、こっちで寝ない?」

「なんで」


 シガンはやることを終えると奥の部屋にこもってしまって出てこない。ひたすら絵を描いているようだ。例の吸血鬼の絵だろうか。それは別にいい。でも、ごちゃごちゃした部屋でろくに寝ずに描いているのを想像すると、それは困るなあと思った。吸血鬼と関係なく倒れてしまう。


「いや、コウくんひとりで寝れないみたいだから……」

「ユエンさんがすればいいじゃないか」


 名前を出されて振り向いたユエンは大げさに肩をすくめた。


「私は人間のようにはできん」

「はあー? また神さま気取りですか? だいたい、おまえが連れてきたんだから……」

「シガンさん。そっちの部屋、まだ片づいてないでしょ?」


 そう言われてシガンはぎくりとする。キッチンからなくなったぶん、シガンの部屋に物が増えたのだからあたりまえだ。布団を敷くどころじゃないのは想像に難くない。そして、まったくその通りだった。


「こっちで寝よ?」

「……わかった。コウくん、一緒に寝るぞ」




 夜になって、シガンはコウの歯磨きをしていた。コウに歯ブラシを渡しても乱暴に磨くだけなので、優しく磨いてやる。おとなしく口を開けたコウは嫌がっているのかよくわからない顔だ。ぎゅっと目をつぶっている。ユエンが何か言いたげにして、何も言わなかった。


 その間にアオは部屋にシガンの布団を入れた。二組の布団を前に、シガンがコウをうながす。


「ほら、さっさと寝るぞ。寝るまでついててやるから」


 コウはきゅっと自分の手を握って、シガンをにらみつける。何かが気に入らないらしい。


「嫌じゃない、もう寝るの。むこうとこっち、どっちの布団がいい?」


 無言。何か言いたそうだけれど、口がへの字のまま動かない。


「あー、もう。じゃあこれで決めよう。表ならおまえがこっち側な」


 シガンが出してきたコインは吸血鬼よけの銀貨である。リョウアンがお守りになると持ってきたものだ。五百円硬貨ほどの大きさで、中央に穴が空いていてその周りを模様が囲んでいる。


「ぽいって投げて、ぽいって」


 渡すと、コウは叩きつけるように投げた。床にあたって音が鳴り、変な方向に跳ね飛んだ。「ヘタだなー、おまえ」とシガンが顔をしかめる。コインはくるくる回ってぱたりと倒れた。聖樹が描かれた裏だ。


「はい、奥に寝て」


 シガンはコウを奥の布団に寝るよう押していった。おどおどと布団に潜り込んだコウに、ばさりと掛け布団をかける。豆電球だけ残してシガンも横になった。ぽこりと人の形にふくらんだ布団を軽く叩いて、拍子を取りながらつぶやくように歌う。


「ゆりかごゆらゆら、おやすみなさい。もう寝る時間。星はきらきら、夜空は静か」


 そのうちに歌詞がいい加減になり、最終的に鼻歌になった。調子っぱずれの歌を聞きながら、丸めた背中をさすられてコウは眠った。それから歌がぷつんと途切れた。シガンも一緒に眠ってしまっている。

 アオが人差し指を口に当ててユエンに笑いかけた。返すようにユエンも口元を緩めた。




 それから数日たった頃。日が昇る前、見回りから戻ってきたアオは暗がりが揺れるのを見た。ぎょっとしたところで、くすくすと笑いながら「アオ」と声がした。まるで夜が笑ったようだった。ユエンの形の揺らぎが、おかしげにアオを呼んでいる。


「びっくりしたあ……」


 アオは手を泳がせて電灯をつける。キッチンにはユエンがひとり座っていた。


「ユエンさん、どうしたの?」

「見ろ、なかなか面白い」


 伸ばされた指を追って部屋をのぞけば、手足を広げて寝ているシガンの横にコウが丸まって寝ていた。シガンのシャツをつかんで。その間に挟まれて犬が伏せていた。くうんと鼻で鳴いて、目がユエンに助けを求めている。ユエンは眉を下げて柔らかな視線を返した。


「もう少しガマンしてくれ、そろそろ起きるだろう」

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