第8話、子供 下

「じゃ、朝メシはホットケーキでいい?」


 自分もTシャツ姿になったアオが聞いた。シガンがキッチンを見回す。


「いいよ。イスがいるか、あったかな」

「うん、頼む。ユエンさんは?」

「食べなくてもかまわない」

「じゃあ焼くわ」


 アオはさっさと生地を作ってホットケーキを焼きはじめた。ぷつぷつと穴ができて、ぷくーっと膨れて、すとんとひっくりかえせば、まんまるのホットケーキだ。色はきれいな薄茶色。余った生地を焼いたカリカリをコウの皿におまけしてやる。その間にシガンは部屋からイスを取ってきて、フォークをテーブルに用意した。


「これはコウくん。こっちはユエンさん。神さんにはお供え物がなくっちゃな」

「そうか、供物くもつか。食事をともにするとは血肉を分けあうことだ」


 なくてもいいと言ったくせに、ユエンは嬉しそうにアオからホットケーキを受けとった。コウは甘い香りに鼻を動かし、ぎゅっとお腹を押さえる。


「コウくん、座って座って」

「どうした? 食べないのか?」


 ところがコウはテーブルの前に立ったまま、皿を見て固まっている。お腹がいっぱいというわけではなさそうだが、見えないなにかに縛られているように動かない。


「ほら、いただきますして食べよう?」


 その言葉で、はっと目が覚めたようにコウが動いた。フォークを上から握るとホットケーキに食らいついた。よほど腹が減っていたのか、がつがつと食べる。そして口いっぱいに詰めこんだところでむせた。「あー、もう!」。シガンが慌てて皿をとりあげ、アオがドンドンと背を叩いた。


 ごくんと喉が動いて「けほ」と息をしたのを確認し、少しずつブドウジュースを飲ませる。シガンが呆れたように「子供か」とつぶやいた。「子供だなあ」とアオが濡らしたふきんを持ってきて、コウの顔と手を拭いてやる。


「ゆっくり食べな、よく噛んで」


 それからようやくテーブルの前に座ったコウだが、どうもフォークの持ち方が下手くそで、むさぼるように食べるクセがある。むせることはなくなったが、手も顔もべたべただ。拭いても拭いてもべたべたなもので、諦めて食後に全部拭くことにした。


「おお、うまいか? もっと食べる?」

「食べすぎると腹壊すぞ。おやつの時間まで待ってくれ」

「それもそうだなあ……」

「うん。人間のつくったものはいい」


 一騒動を尻目に、ユエンはホットケーキをたいらげていた。




「そういや、ユエンさん、なんでここ知ってたの?」


 食後、コウの口と手を拭きながらアオが聞いた。シガンは皿を片づけ、ときどきテレビのニュースに目をやっている。都内で猫の死体が何体も見つかったそうだ。ユエンが「ふむ」と顎をさすれば、アオの影からぬるりと黒い犬が這いでてきた。影と同じくらい黒いそれはオオカミに似ていた。


「アオの影に、私の分身をつけていた」


 いつの間に入っていたのだろうか。呼べば行くというのは冗談ではなかったのかもしれない。自分の影のなかに異物があったわけだが、嫌な感じはしなかった。


「分身ってえと、眷属みたいなもんか?」


 眷属は吸血鬼の霊気を与えられた下僕である。土人形や、人間の変異した死体である食人鬼もこれだ。吸血鬼とつながっており、まるで手足のように動く。一方、使い魔は霊気を分けあった生き物で変異はしておらず、吸血鬼からは独立している。


「いや、分身は私自身を切り離したものだ。食人鬼の匂いを教えたから役にたつ」

「ああ……わかった。しっかし、妖精というのも不思議なもんだなあ」


 アオは黒い犬をわしゃわしゃとなでながらつぶやいた。まるで本物の犬だ。犬が鼻を近づけると、コウがぎょっとして逃げる。犬はむしろ気になったようでなめてやろうと舌を出した。コウは避けようとしたが、べろべろとされてしまい顔を歪めた。


「……風呂に入らずとも、人のような病気にはならない。おまえたちとは違う」

「へえ、くしゃみとかしないの?」

「まあ、そうだ」

「ほおー。じゃあ、ぱぱっとコショウ振ったら誰が吸血鬼かってわかる?」


 ユエンは思わず笑った。その考えはなかった。


「おそらくムダに終わるだろう。コショウでくしゃみをするものというイメージがあるから、人型の妖精もくしゃみができる。そう思えばそうなる」

「ふーん……よくわからん」


 アオは犬をあやし、後ろで縮こまっているコウを手で呼んだ。コウは表情がないが嫌がっていることはわかる。自分から近づこうとしない。犬がおまえもなでろと寄っていくのをアオが止めた。「コウくん、大丈夫だから。よしよししてあげて」。


 そのとき、テレビから死体発見の速報が流れた。




 テレビは入ったばかりのニュースとして、浅草で死体が見つかったと報じていた。現場と被害者の状況を聞きながらアオは眉間にしわを寄せる。大きく引き裂かれたような傷と耳にして、鬼害の可能性を思い浮かべたのは当然だろう。


「こないだのやつか? 食人鬼のほうか?」

「ふむ……どうだろうな?」


 ユエンのつぶやきに、アオは今考えてもわからんとスマホをとった。組合に連絡するため、立ちあがって部屋に戻る。殺人と鬼害の両面で捜査を始めたとニュースが続き、「吸血鬼を見たとき、笛が鳴ったときは外出をひかえるように」と結んでいた。


 そして新宿での暴動のニュースに移る。どうも秋ごろから治安が悪化している印象がある。吸血鬼と関係があるかはともかく。


 皿洗いを終えたシガンがふきんでテーブルを拭きながらつぶやいた

「なんで吸血鬼は人間を殺すんだ?」


 それは独り言にも聞こえたが、横からユエンが答える。


「血とは生命力の象徴だ。とはいえ、構成物やエネルギーをとるためなら牛乳でも卵でも人以外の血でもなんとでもなる。殺す必要だってない」


 ユエンは後ずさりするコウの手をとって、そっと犬に触れさせる。ゆっくりと動かしてやれば、犬はすんすんとコウの匂いを嗅いで、黙ってなでられている。尻尾が子供をあやすようにぱたぱたと揺れていた。


「それでも残虐に殺すのは、殺して吸血することが存在理由からだ」

「存在理由?」

「妖精は人間がそれを『そういうもの』とみなすから存在できる。人間が『吸血鬼は人を襲って殺すもの』と思っているからそうするだけだ。あとは……殺したほうがその人間の精気をとりこみやすいとか。殺さないと精気は元の生き物に戻るからな」


 シガンは少し失望したかのように眉を寄せた。犬が頭をぐりぐりとコウの胸に擦りつける。コウはおびえながらもされるがままになっていた。


「もっとも、大きな騒ぎになれば吸血鬼にとっても不利益だ。だから多くはこんな事件にならないのだが……」

「……じゃあ、神さまはなんだってんだ」

「神の存在理由は信仰だ。神も神としての存在感がほしい」


 そこにスマホを切ったアオが戻ってきた。どうやら緊急で出る必要はないらしい。軽くあくびをひとつ、シガンに伝える。


「俺、ちょっと寝るわ。起きたらコウくんの服買いに行くから」

「わかった」

「ふとんも必要だなあ。……シガンさん、そっちの部屋で寝れる?」


 ちらりと見えたシガンの部屋は画材が散らばっており、いったいどこで寝ているのかとアオは不思議に思っていた。ベッドはないようだが、ふとんを敷くスペースもとれないはずだ。シガンがむっとして、たいしたことではないというように返す。


「座ってても寝れる」

「……俺いないとき、こっちで寝ない? 物ないし」

「わかった、片づけるよ! 子供もいるから危険だしな」


 シガンはアオが言い終わる前に慌てて叫んだ。


「いや、そうじゃないけど……まあ、いいか」




 アオが部屋で眠ってしまった後、シガンは洗濯機を回し、キッチンに広がっているものを片づけていた。とにかくダンボールに放りこんで自分の部屋に入れている。

 そんなこんなでもうすぐ三時間になるか。


 ユエンと犬はすっかりくつろいでいた。テレビではアニメをやっている。驚いたガイコツが崩れてバラバラになってしまった。起きあがれないのをオオカミ男が助けにいく。ところが間違って組み立ててしまい、とんでもない形になった。笑う場面だ。


 しかしコウはテレビではなく、ユエンの背中をにらんでいた。その口から、ちらちらとがった犬歯がのぞく。


「コウ、ムダに牙を見せるな」


 振りかえったユエンがからかうように言った。言われたコウはうつむいて、がじがじと自分の爪を噛みはじめる。「コウ」と呼ぶと、不満そうに目をそらした。ユエンはなにも言わずに動き回るシガンに目を戻す。そこにお気楽な声がかかった。


「おー、どうしたコウくん。顔が怖いぞ」


 仮眠をとり、起きてきたアオだ。にこにことしてキッチンに来るとコウの頬に触れてぐにぐにとなでる。固くこわばった頬がもみくちゃにほどかれる。どう表現したらいいかわからない顔で、コウはきゅっと目をつぶった。


「じゃ、服買いに行くわ。もうちょい待っててなー」


 そう言ってひょいとアメの小袋を渡す。薄い金色をしたアメだった。


「ほい。アメちゃん、あげる」


 アメを手にコウはきょとんとアオを見た。アオはもうひとつ、今度は袋から出して渡した。食べる仕草をすると、コウはこわごわとアメを口に含んでがりがりと噛みはじめた。「なめるんだよ、ぺろぺろって」。コウの表情は変わらず、口をもごもごとしてなめているようだ。その手は残ったアメをきゅっと握っていた。


 そんなコウの後ろから、ユエンがちらちらと見ている。


「ユエンさんもほしいの?」

「ああ」

「ほいほい」


 ユエンは口に入れるなり噛み砕いて満足げだ。まあ、うまかったならいいか。


「じゃあ、行ってくるよ。待っててな」

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