第4話、子供 上

 ユエンが動いたのは吸血鬼との遭遇から三日後だった。

 渋谷駅の南口近く、未明の暗がりの中を行く。今回は「やじり」を打ちこんである。ゆくえを追っていたが、動く気配がないためユエンから迎えにいくことにした。通路から手すりを乗り越え、ビルのあいだの川へと降りる。水位はそう多くない。ここから北の上流は奥まで暗渠あんきょになっている。


「出てこい」


 川縁を暗渠の方に歩きながらユエンが声を掛けた。音が壁に当たってわあんと響く。中は外の夜よりはるかに暗かった。いるはずの何者かは答えない。ねぐらにしていたコウモリが慌てたように逃げていく。あとは静かに流れる水の音が聞こえるだけだ。


「ここか」


 光の届かないところ、人であれば鼻先も見えない闇の中にそいつはいた。金の毛も青い目も黒に埋もれているが、ユエンの目ははっきりとそれをとらえている。それも視線に気づいてむくりと起き上がった。その吸血鬼はユエンを見ておびえるように身をすくめた。


 吸血鬼は流水を嫌うと人間は考えている。とはいえ水に入っても死ぬわけではない。流水に逆らえないというだけである。ともかく、この吸血鬼も川には入らず川縁にいた。ユエンは両手で狐の窓を作るとそれを覗き込んでつぶやいた。


「やはり赤子ややか。……人間には見つからないわけだ」


 赤子ならしかたがないとひとりうなずいた。その瞬間、弾かれたように吸血鬼が駆ける。せまる爪を弾いたのは右手。ユエンの手がひらめき爪を打ち落とした。真っ暗闇の中、さらに横からきた爪をすばやく円を描くようになぎ払った。高い音が鳴って吸血鬼は着地と同時に再び飛びかかる。ユエンはむやみやたらに繰り返される斬撃を全て叩き落とした。


 青い眼に虹色が走った。ユエンは人差し指と小指を残して右手の指を握り、そのまま目潰しをするように吸血鬼の顔面へと突き出した。ギャウと鳴いて獣が痛がるように目を閉じる。片腕で目を押さえるようにして、反対の手でひたすら爪を振り回す。


 ユエンは斜めに立ち爪をかわし、低く身を沈めて二撃目を避けると、そのまま下から殴りあげる。吸血鬼はそれを四つ足で跳んで避けた。首元に飛んできた爪を横から払いのけ、突き出された腕を避けるように打ち上げた。伸びた腕が叩き落とされ、慌てて吸血鬼は跳び下がった。


「おびえて噛みつくなら、余計に叩かれる」


 吸血鬼は一歩、また一歩下がると、はじかれたように駆け出した。今度はユエンに背を向けて、暗渠の奥に潜り込む。

 しかし光のない暗がりは続いている。暗闇は死の領域でありユエンの領分だった。獣は全方向から常に見られているように感じた。逃げ場はなく、行き先はない。ずるりと足がもつれて川縁を踏み外す。バシャンと音を立てて胸から水に落ちた。


「ああ、濡れたか」


 ユエンは構わず水に入ると吸血鬼に近寄りしゃがみこんだ。それは尻餅をついて後ずさるが、川の流れに逆らえない。ユエンが手を伸ばし、首の後ろを指でつつく。そこには鈍い灰色に光る鏃が刺さっていた。先日投じたユエンの分身だ。鏃からは黒い糸のようなものが出ており、吸血鬼の体にからみ、食いついている。吸血鬼は獣じみたうなり声をあげた。


「私の髪を打ち込んだ。人間に危害を加えれば痛みが起こる。核を締め上げて殺すこともできる」


 それから、そっと獣の口に人差し指をあてた。


「ほら、忘れないで息をすることだ」

「おまえはなんだ!」


 吸血鬼が子供の声で叫んだ。ユエンは少しだけ目を見開き、そしてすがめる。


「私はユエン、人がそう呼ぶからそういうものだ。ではお前は何者だ?」


 聞かれた獣はまたグルルルルと威嚇した。毛を逆立て耳を伏せ、とがった眼を向けたが、ユエンは気にせずその眼をのぞき込んだ。虹の色はなく、青がユエンを見返している。その色はどこか不安そうに揺れていた。


「自分が何者かもわからんか、どれ」


 ユエンが額に指をつき当て、それのあるべき姿を探る。その途端、金の獣は小さな人の形になった。薄い水色のパジャマをまとっている。その子供は口を大きく開いて獣のように吠えた。噛みつかんばかりに歯を鳴らすが、ユエンはあっさりとその噛みつきを除けて言う。


「そう吠えるな。まずは名が必要だ。……うるさいから吼でいい。コウ」


 コウと呼ばれた子供は目を見開き、またうなった。ユエンはその小さな手をつかむと、ぐいと無造作に引き起こす。そしてふらつきながらも立ち上がったコウに背を向けた。ついてくるのを疑わないように、外に向かって歩き出す。


「行くぞ、コウ」


 夜明けが近かった。






「やあ、おはよう」


 日が昇ってすぐ、呼び鈴にシガンが玄関の扉を開けると見知らぬ女がいた。黒い髪の少女だ。不審に思って戸を閉める前に、彼女は足で戸を止める。なんかまずい勧誘か何かか。


「実に不用心だ。アオに吸血鬼対策を聞かなかったか? 二回呼びかけられる前に返事をしてはいけない。いいね?」

「ユエンさん? なにしてるんです?」


 何だこの女はと思った矢先に、外から声がかかった。アオだ。ちょうど夜間の見回りから戻ったところらしい。この女はアオの知り合いのようだ。また面倒なことをと思って苦い顔を作る。ユエンのほうは気にする様子もない。

 しかし、その影から子供が出てきてシガンの表情がゆがんだ。その子は腰まである髪もボサボサで、濡れたパジャマのままで、そのうえ裸足だった。その横でアオも奇妙そうに見て、ユエンに聞く。


「ユエンさん、この子……」


 知ってる子かと聞こうとした時、ユエンの夜のような目が揺れた。


「そこの橋の下で拾った。コウという。まだ赤子でな、人のやりかたを知らん。教えてやってくれ」

「それは……」

「いいだろう?」


 黒い目に金と赤が混じり、怪しく惑わす。曖昧な違和感が暗い影に沈んで見えなくなる。


「……まあいい、さっさと入れ」






「あーもう、風呂いれんと」


 コウと呼ばれた子供を見てアオが言った。パジャマが濡れて肌に張り付いている。金色の髪にすねたような青い目のその子は、一見、女の子のように見えた。けれども、すぐにそうでないことに気づいた。骨が出るほどにひどく痩せているが女の子ではない。


「コウくん、おっちゃんと風呂入る?」


 その子はずっと無表情だったが、口を曲げて疑うようににらんできた。背を丸め、間合いをはかり、飛びかかろうとしたところでぎゅっと首がひきつった。何度か空噛みを繰り返しながら座り込む。


「どうした、どっか痛いの? 風邪ひくからきれいにしよ?」


 隣にしゃがんでアオが風呂に誘う。しかしどう言っても動かないので、アオはよいしょとコウを抱えて風呂場に行った。コウは固い表情の中に嫌悪とも怒りとも取れる表情をしていたが、抵抗することなく黙って連れて行かれた。


 そのうちに水音が聞こえてくる。「頭、水かけるよー」「そら、あと十秒」。アオがひとりで喋っている声も聞こえる。その間にシガンは自分の持ってるシャツを探していた。とりあえず新しく着せるものが必要だった。それから、ユエンがひとりテーブルに頬杖をついているのを見て、むっときたように声をかける。


「なんでおまえが座ってるんだよ」

「風呂のことはわからない。私は神だからな」

「はー? 神ぃー?」


 そのころ脱衣所では風呂から上がったばかりのコウがぶるりと身を震わせた。ケガがなくてよかったとアオがバスタオルでコウの体を拭いていく。ドライヤーがないので長い髪をよく拭かなければならない。コウはわしわしとされるがままになっている。きゅっと口を引き結んで、耐えるようにアオをにらんだ。


「どうした? 痛かった?」


 痛いのかどうかもよくわからない顔をしたコウが、わずかに顔をしかめた。濡れた髪をすいてるうち、絡まったのを引っ張ってしまったのかもしれない。「ごめんなー」。アオはよく拭いてから用意されたシガンのTシャツを着せる。丈の長いシャツなのでこれ一枚で十分だ。早いうち服を用意せんとなあなどとと考えながら裾を直した。


「これで終わり! ぴっかぴか。よくガマンしたなー」

「なるほど、人間らしくなる」


 キッチンに戻ってきたコウを見て、ユエンが満足そうに笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る