第6話、吸血鬼 下
「さーて……」
笛を聞き、獣の動きが止まった。アオの様子をうかがいながら体を起こす。ぱらぱらとついた街灯の光が金色の毛の一本一本を浮きあがらせる。ただの犬やオオカミでないことはひと目でわかった。
「食人鬼どころか吸血鬼本人とはなあ……」
アオはそっと距離を測る。金の毛に明るい青い目。二足で立ちあがり曲がった背中を伸ばしたとしても、子供の身長がやっとだ。犬というには大きいが、恐ろしい化け物というにはあまりに小さかった。
その後ろからユエンが吸血鬼を見ている。両手を組んでその隙間からのぞくと「ふむ」とつぶやいた。吸血鬼は長い耳をふせて威嚇するようにうなる。青い目がぎゅっとひきつり、鼻にしわが寄った。
「よう。はじめまして、こんばんは。いい夜かな?」
言い終わる前に、吸血鬼が手をついて逃げる。ユエンはなにも言わず自分の影に潜り、倒れた少年の近くの陰から現れた。そういうことならあっちはユエンにまかせればいい。
先手有利とアオは走って飛びこみ、吸血鬼の背中に一撃を入れる。思ったより軽い手ごたえだ。赤い血が吹きだし、地面に落ちて塵に変わる。血か。やはり食人鬼ではない。吸血鬼は飛びあがり、ぐるりと体をひねって着地した。
「逃すか」
獣がアオに向きなおる。一足で距離を詰めて勢いよく腕を伸ばした。太い爪がアオに迫る。アオはそれを石突でそらし、矛先を喉元に突きいれる。ひるんだ胸元にもう一撃を飛ばした。伸びてくる手を柄でぐるりと巻きあげ、脇腹に叩きこむ。
獣が体をねじるように逃れて飛びのく。吸血鬼の動きはひどく単純だ。人間からみれば鬼のような怪力でも、まともに当たらなければ問題はない。
もしやここで倒せるかと踏みこんだとき、ぐわんと青い目が揺れた。不思議な虹色に光ったように見える。
「……うん?」
再度突きこんだ矛が届かない。おかしい、手元が狂ったか? 引いたところに獣が飛びかかる。このくらいの距離なら避けられる。その瞬間、間際に獣の爪があった。街灯がつくったアオの影が鋭くとがって爪を撃ち落とす。
吸血鬼が虹の目を向ける。あれは魔眼だ。邪視ともいう。どうにも距離感がつかめない。アオがにらみかえし、ぺっと唾を吐く。獣が嫌がるように青い目を細めた。その隙に矛を握りなおして吸血鬼に向かう。
「くっそ……」
深く突き入れたつもりだ。しかし当たらない。一時的に魔眼を避けても獣がこちらを見ているかぎり矛先がずらされる。吸血鬼は手をあげて大きく振りおろした。避けようとするが、それは突然目の前に現れたように迫った。早い。そこからは防ぐのが大変になって反撃できない。矛が折れないようにいなすので精一杯だ。
爪がアオをとらえようとしたとき、街灯にできた影から黒い塊が伸びて獣の腹を打ちあげる。ユエンだ。ギャンと吸血鬼が鳴いて後ずさった。
組合も鬼害対も来るのは時間がかかる。ここは少年の保護を確実にするべきだ。ユエンが少年の前に立っている。彼を抱えて逃げるだけの力はないのだろう。
「ユエンさん!」
「道は作る!」
ユエンが叫んだ。アオは獣の伸びきった腕を矛で押さえた。すかさずその矛を外し、腰を落として獣の後ろ足を外からはらった。獣は転がり、ぐるりと一回転して四足で立とうとする。
陰から鈍い灰色の
そのときにはもう、アオは建物の側面にできた影を踏んで駆けあがっているところだった。少年を抱えて。登り切ってユエンの腕をつかんで引きあげる。屋根に足をかけ見おろすが、獣の姿はどこにもなかった。
アオはすぐにスマホで組合に連絡を入れた。警察が出動し、近くに人が寄らないようにするだろう。鬼害対の人間もそのうち来るから捜索することになる。
アオは気絶している少年の腕の傷を見る。よかった、引きちぎられずにすんでいた。出血が少ないところから見て、吸血されてはいない。しばらく用心していたが、吸血鬼はどこかへ逃げたらしい。
「魔眼もちかー」
「人間は眉に唾をつけておくべきだ」
「そっかあ……」
眉に唾をつけるのは魔眼を封じる簡易な方法のひとつである。唾や糞便、性器のようなものは直視させず、魔眼の効果をうち消すことができるとされている。
「ありがとさん。すごいな、それも妖精の能力?」
「ああ、すごいとも。これは人に神とされた力だからな。もっとも今となっては、たいしたこともできん」
彼女にとって死とは闇の世界のことだ。小さな闇、つまり自分の影を使うことはできる。しかし物の影や誰かの影の形を変えるのは難しい。それは影がそのものの一部だからだ。アオのように本体に許されたなら使えるのだが。
「ふーん……」
「まあ、吸血鬼にできることはだいたいできる。役にたったなら何よりだ」
パトカーのサイレンが近づいてくる。そろそろ組合と鬼害対からも誰かが来るに違いない。アオはバッグからハーブタバコをとりだした。このタバコは支給されたもので、吸うためではなく吸血鬼除けとして煙をまとわせるのに使う。そして慌ててしまいなおした。彼の横にいる少女が嫌うかもしれなかった。
「あいつ捕まるかね? あんな目だつの、すぐわかると思うんだけど」
「あれは存在があいまいだから、意識して見ようとしないとわからない。……人間はあれを捕まえたらどうする?」
「そうだなあ。食人鬼と同じく駆除かなあ……」
戦後、日本で吸血鬼を駆除した例はない。被害は主に食人鬼によるものだ。
「駆除。殺すのだな」
「人を襲ったクマと同じだ。簡単に人を殺せることを知っているから放ってはおけん。麻酔もきかんし、捕まえてもなあ……。吸血鬼の側がどう思ってるかは知らんけど」
「吸血鬼はなんとも思っていないだろう」
アオが視線で疑問を示す。人間は同族を殺されては黙っておれない。吸血鬼は違うのか。確かに食人鬼を駆除して、吸血鬼がその報復にきたという話は聞かなかった。
「吸血鬼は人間のような権利なんかもちたくないと思っている」
「そういうもんか」
「そういうものだ。本当は、吸血鬼は誰より強い力で弱いものを好きにしたい、そういう欲望をもっている。それなのに権利なんて手にしたら、弱いものの権利も守らなくてはならなくなる。彼らにとってはまったく都合が悪い」
ユエンは黒い目で、黒い髪で、同じように黒い空を背景に語った。
「吸血鬼は人を食らう。人は殺されないよう吸血鬼を倒す。私は人を守る。強くて賢くて器用で臆病なほうが勝つ。それがわかりあえないもの同士のつきあいかただ」
「なるほどねえ」
「とはいえ、反撃されるのはやつらも嫌だ。普通はここまで公然とはやらない」
アオには神のことも吸血鬼のこともわからない。人間同士だって言葉はわかっても思っていることはわからないのだ。わからなくても協力できるならそれでいい。
「ユエンさん、スマホもってる? 連絡とれたらいいんだけど」
「携帯電話のことか? もっていない。呼べば行く」
「……おかえり」
「うん、戻ったよ」
玄関を開けるとシガンは無愛想だが声をかけてきた。組合での聴取後、アオのかわりにシァオミンが家まで送ったという。さぞ気まずかったに違いない。悪かった。
時間は獣との交戦から一夜明けたところだ。あの後、組合と鬼害対が調べてまわったが見つからなかった。もう近くにはいないようだとユエンは言っていた。地面に消えたのだろうか、それとも……。
「シガンさん、よく無事だったな。吸血鬼。なんだ、あれ」
「会ったのか。そうだ。あんなものが本当に存在するなんて。で、どうだった?」
鼻息荒く吸血鬼のことを聞いてくるシガンを落ちつかせ、アオはあいまいに笑った。言えばまた想像を膨らませるのだろう。実際に戦ったアオにしてみればそれは妄想なのだが、世間一般の吸血鬼のイメージというのはそんなものなのかもしれない。
「そうだな。まあ、強いな。で、朝メシ食った?」
「うん。作っといてくれたネギ焼き。……おいしかったよ」
左手で筆を持ちながらシガンは答えた。わざわざ感想を言うとは律儀な男だ。
「それならいいわ。じゃあ、俺は寝るから。夜、なんか食いたいものある?」
「吸血鬼は」
「逃げられた。今後はあそこらへんを重点的に見回るつもり」
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