第5話、吸血鬼 上

「アオ」


 シガンの家に荷物を置いた翌日、オレンジに染まっていく空に名前を呼ばれた。


 東京駅は丸の内口を出たところ。人混みから浮きあがるようにユエンの姿があった。気づいたアオがそちらに向かうと、ユエンはにこやかに手を振ってみせた。古びた青いビーズの連なったネックレスが揺れる。アオも手をあげて返す。


「ユエンさん。ええと……妖精の」

「そうだ。ここは人が多いな」

「賑やかなほうが狙われにくくていいわ。昨日のはともかく、ほとんどが夜の路地裏で起こってる」

「ああ。それでその吸血鬼のあたりはついたのか?」


 東京は夜が早い。狭い空を騒がしいムクドリが塊になって飛んでいく。日没を迎えれば、また吸血鬼や食人鬼が動きはじめるのだろう。


 アオはボディバッグのほか、矛をかついでいた。このところの鬼害事件で組合には武器類の携帯が許可されている。遠目にじろじろと見られているのがわかるが、白い腕章はむしろ自分たちを守るものとして認識されているようだ。


「いや。これは見回り。ちょいとケガ人が出た現場まで行こうかと」

「ほう」

「本人は元気だ。今、組合で聞きとり中なもんで、俺はこっち来たんだけど……」


 簡単に説明するとユエンがうなずいた。


「私も行こう。食人鬼が出ればわかるからな。それに神とされたものならば信者を守らなければならない」


 ユエンは当たり前のように口にした。毎朝、太陽が昇ることと同じく、疑いようのないこととして。確かに神だと言っていたが……アオはまばたきをして聞きかえす。


「待って。神? あれ、本気でした?」

「妖精が神とされるのは珍しくなかった。もう二千年は前のことだが」

「いや……信者って?」

「そう。数こそ少ないが、おまえもそのひとりだ。安心するといい」


 どういうことかわからない。この妖精どころか神を信じた覚えなどない。


「あのとき、信じただろう?」

「なにを」

「私に影を預けたではないか」


 彼女に従って動いたことが信仰だと言う。見ず知らずの少女の言うことを信じ、あえて危険なほうに動いたのは自分でもおかしい。おかしいが、なぜかあのときはそうしてよいと思ったのだ。


「そういうもんか……」


 夕暮れを見あげながら南、日比谷へ向かう道をいく。ユエンがついてくる。


「そんで、ユエンさんはなんの神さんなんです?」

「む……死者の神といえばいいか」

「死に神?」

「まあ、そうだ。死にゆく者を冥界まで無事に送り届ける神。そして妊婦と子を守る神。もっとも、私は同一視されることでその役割を果たすだけだが」

「ふーん……神さんねえ……」


 東京駅で助けられた女はまだ腹の出ていない妊婦だったそうだ。だから彼女は守っていたのだろうか。神として。神とは人を守るものなのか。もっと人間ひとりのことなど考えないように思っていたが。


「……神さんってほんとにいるのかな?」

「さあ? 私は見たことがない。アオはあるか?」

「ない。見たことがないのに同じものにされるっちゅうのも、おかしなもんだなあ」

「神を見たことがなくとも、ある動物が神だとか神の使いだとかいうだろう? 動物自身がそう思っているかは別として、人間はそう見ているということだ。我々は人間がそう思えばそうなる。だから神と呼ばれたからにはそのようにふるまう」


 すれ違う人々は、そこに人ではないものがいることに気づいていない。ユエンはベビーカーに小さく手を振ったが、双子の赤んぼうがそんなことなにも知らずに眠っていた。人のようでいて人でないもの。それは吸血鬼もそうだ。


「神さんならもっとこう、吸血鬼をすぐに見つけたりとかできんのです?」

「土の匂いがしただろう? それを追う。影を広げれば、なにがいるか感知することができるが、今の私では範囲が狭い。それに地下にまで広げることはできない」


 見れば彼女の足元にあるはずの影がなかった。日は大きく傾いて、すべて長く伸びる影がついているというのに。人間ではないということに改めてはっとする。


「……そか。よろしく頼むわ」




 それからたいした話題もなく、ビルの隙間をあちこち見まわしながら歩く。まるで谷間にいるようだ。どちらもここらの地理には詳しくないので、アオのスマホの地図が頼りだった。なんとなく気まずくなって、アオのほうから声をかける。


「……アメちゃん、なめる?」

「人が供えたものは食べられるよ」


 その言い方は奇妙だったが、アオはボディバッグからアメを出して渡した。ユエンは受けとるとすぐに口に入れて噛み砕いた。


 会話がとぎれる。ユエンは特に気にしていないようだが、アオは神だという妖精と共通の話題を探してみる。そして結局、吸血鬼事件のことに戻ってきた。まあ、情報を共有しておくのは悪くない。


「組合のやつが言うには、その吸血鬼は金色の毛をしたオオカミだったそうだ」

「ああ、アゲハに聞いた。二人ケガ人が出て、金の獣が目撃されているとか」

「そうだな。ひとりは組合のやつが見つけて笛を吹いたら逃げた。もうひとりはちょうど待ちあわせてた家族が近くにいてな、息子さんが叫んだら逃げていったらしい」


 一連の事件においてケガをしたのはこの二人と東京駅のひとりだけだ。そのほかはみな死体で見つかっていた。


「吸血鬼を目撃したのもその息子さんで……。付近の監視カメラを見たが、やっぱりなにもナシ」


 食人鬼はともかく、吸血鬼はカメラやビデオカメラには写らない。鏡と同じだ。人間などの「物質」と比べて存在感が薄いからといわれている。精気はより集まって霊気と呼ばれ妖精となるが、性質としてはとても不安定だ。


「写す人間が『そこにいる』と知っていれば写るのだがな」

「ほお」

「妖精が存在するには人間からの存在感が必要だから」


 人間が認知しているかどうかが妖精には重要なのだという。ゆえにそこになにかがあると認識されていれば撮影される。もっとも肉眼で見ながら監視カメラを撮る人間はあまりいないから、この場合は意味がない。


「ふーん……存在感、か」




 そうこうしているうち、ようやく円柱状の超高層ビルの根元まで来た。日はすでに落ちており、長かった影が広がる陰に沈んでいった。


 現場には赤い三角コーンが立っていて、穴の空いた銀貨がつりさげられていた。遺体に噛ませたり事件や事故の現場に置く吸血鬼除けの銀貨だ。結び目と目玉、エンジュともモミともいわれる樹木が彫られている。


 その近くにニンニクと唐辛子もつられていた。下を見ると盛り塩もあって、文化や宗教を超えて悪しきものを除けたいという人間たちの思いが読みとれた。


「青戸から西南西におりてきたのに、南へ進路を変えたみたいだな。そこから新橋で次はここ。と思ったら東京駅。……迷ってるんだろうか?」


 あたりを見まわしていたユエンの目がすっと細くなる。そのまま彼女は意識を深く影に落とした。風景が変わったようには思えない。それでもアオには周囲の空気を少しずつ抜かれていくような息苦しさがあった。思わず喉元に手を当てる。


 ユエンは見えないものを探るように見ていたが、やがて目をあげた。


「いた。現れた、と言えばいいか」


 それは確実に人間ではない。


「北だ」




 霊園の北、ビルの隙間に公園がある。すっかり陰になった道を十代の半ばらしき少年が二人歩いていた。ふざけているように軽く叩きあったり、高い声をあげたりしながら家に向かう。街灯が数回またたいて、はっきり少年たちの影をつくった。


「なあ」


 ひとりの少年が笑って横を向いたとき、うなり声とともに金色が飛びかかってきた。


「うわっ……?」


 とっさに手でかばう。すぐに腕が燃えるように熱くなって、その先がしびれるように冷たくなっていって、なにもわからないが叫び声をあげた。しかしそれはかすれた音にしかならなかった。


 体が空中を飛んで強い衝撃を背中に感じた。強い力で押し倒されたのがようやくわかった。腕がなにかにつかまれていて、喉に固いものが当てられた。爪だ。獣の爪。ひゅうという細い息が口からもれた。


 もうひとりの少年は、友人の姿が消えたことに驚いた。そして地面に倒れた彼を見て固まった。なにが起こったのか理解しようとしたが、それは明らかに異常なことだった。毎日のようにニュースで聞いていたけれど、まさか身近であるはずが。


 そう叫ぶ脳みそを黙らせたのは、背後からの男の声だ。


「むこうに走ってけ。んで、人いたらこっち来んよう言ってくれ。ここはおっちゃんがなんとかするから」


 言われた少年はふらふらと一歩さがる。考えるより早く体が走っていた。ピィルゥーッとかん高い音が鳴った。組合と鬼害対で使われている警戒笛だ。その音を背中で聞いて、少年は転びそうになりながら走った。心臓が痛くなっても走り続けた。

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