第2話、現状確認 下

「やあ、わっかりにくいなあ……」


 上野駅の北東。アオはスマホで住所を確認しながら路地へと入っていく。細い道に古い二階建てのアパートがあった。その一階に「橋詰はしづめシガン」の表札を見つける。その上にも一行名前があったが消されていた。呼び鈴を鳴らすとひずんだ音が鳴る。


「おこんばんわー」

「はい」


 バタバタとして、パーカーを着た眼鏡の男が顔を出した。赤に染めた髪の根元が黒くなっている。年は二十代後半から三十ほどで、これも資料と一致する。職業はアルバイト。かっこ書きで画家。いぶかしげな男にアオは首の組合員証を見せた。


「橋詰シガンさんですね。遅くに申し訳ない。組合から来たんだけど、お話しさせてもらっていいですか?」

「……ああ。わかった、いいよ」


 アオのなれなれしい口調をたいして疑いもせず、シガンはドアを大きく開いたまま奥に戻っていく。入ってもかまわないということだろう。


 入ると小さなキッチンがあって、そこのテーブルを示された。ぐるりと見ると玄関の天井近くに細縄が張ってあり、ニンニクと唐辛子がぶらさげられていた。窓の脇にはザル。ケンカ別れしたといったが、シァオミンはきちんと助言をしたらしい。


 キッチンの横には絵の具、鉛筆、筆、筆洗器、粘土に針金などがつっこまれたダンボールが置かれていた。とりあえずこっちにとっておいたという雰囲気である。勧められるままテーブルの脇にあったイスに座る。


「あー……俺は生松といいます。こないだの傷は大丈夫でしたか?」


 報告では肩から背中をひっかかれたそうだ。研究室の獣医師によると刃物などの道具によるものではなく、獣の爪でできる裂傷だという。野犬にしては大きく、クマのものに似る。頭部ではなく背中の傷であることを考えると背はそれほど高くないだろう。獣のものと違い、感染症の心配はほぼないのが救いだ。


「死んではいないので……。まあ、しばらくバイト休んでてその、家賃が」


 シガンは自分も座ってとぎれとぎれの低い一本調子で答えた。そうは言っても深い傷だったと聞いている。死んでないからマシというのはそうだが、マシだからそれでいいというものでもない。


「ええと、画家さんでしたっけ」

「まともに売れたことなんかありませんよ。絵なんて、なんの役にもたちません」

「そんなもんですか」


 すねたように吐き捨てたかと思えば、自分の言ったことに居心地悪そうにしてアオの表情をうかがってくる。アオはなんとなく悪いやつではなさそうだと思った。


「……やっぱり怒っていますか?」

「いや? その人も悪かったと言うとったし。なんにせよ守る人間は必要ですから」

「そうですか」


 シガンがほっとしたのか呆れたのか、眼鏡を直してため息をついた。


「俺はこっち来たばっかですけど、ちゃんと守りますんで安心してくださいな」

「や、それは……。それで、その吸血鬼は見つかりそうですか?」

「ほお?」


 シガンは吸血鬼に興味があるらしい。自分に大きなケガを負わせた化け物を思いだすのも嫌だとか触れたくもないという感じではない。それどころか吸血鬼のことが気になっている様子だ。


「もし見つかったらどうするんです?」

「もう一度見たい。そして描くんだ。ぼくが描かなきゃいけない。あんな……とんでもないもの。あれだけすごいものなら……それはしかたない。大いなる吸血鬼という存在を世に知らしめなければならない」


 この世界にないものを透かして見るようにシガンの目がすわる。それは超常現象や未知のわざを見たかのようだった。誰も知らない、誰も信じない世界の真実を、自分だけは知っているという顔でシガンは吸血鬼を表現した。


「あれは人間の言葉では表せない。世界の終わりと始まりが同時に来るような、とんでもない事実を突きつけられたらどうする? 人の理解できないすごいものがいると知って、どうして描かずにいられようか」


 たまにこういう人がいる。吸血鬼とは人知を超えたとてつもない、それこそ神のようなものだとする宗教団体もある。はるか高位の存在に人間を差しだすべきだと説く人までいる。何度も食人鬼を相手にしてきたアオは、元が人であったとはいえ害獣となにが違うのかと思うのだが。彼にとっては背中の傷も神の奇跡に違いない。


「シガンさんは吸血鬼を見たんですか」

「トンネルを歩いてたら後ろから強く突き飛ばされた。倒れたら背中が痛くて熱くなって……なにかにひっかかれてえぐられた感じだった。振りかえったけど眼鏡が飛んで、ぼやけてよく見えなかった。金色の……なにかだった。これがニュースの吸血鬼だって思って、そしたら人が来て笛が鳴って、そこでもう……わからなくなった」

「そっかあ、はっきり見たわけじゃ……」

「見たんだ!」


 シガンはアオの言葉をさえぎって叫んだ。まるで「それはウソだ」と非難されたような反応だった。それからシガンは言い訳するように言いなおす。


「ああ……いや、まあ、そうですね。でも、あれは吸血鬼ですよ、絶対」

「吸血鬼だということは疑いませんよ。研究室の獣医師が診てますし」

「……そうか」


 異様に熱っぽく語っていたシガンは、思いのほか落ちついてそれを受けいれる。シガンはようやくアオと話す気になったようで、しっかりと座りなおした。言いにくそうに頭に手をやり、目線を少しずらしてこう切りだす。


「前の人に謝っといてくれませんか」

「いったいなにがあったんです」

「いや……どうせ、人間には捕まえられないだろうって」

「まあなあ、今んとこはそうだなあ……」


 最初の事件から四ヶ月が経つというのに、食人鬼さえ駆除できていないのは困ったものだ。それどころかゆくえもつかめていない。地中に消えることがわかった今、捕らえられないのはそりゃそうだろうという気持ちだ。


「なら、ぼくをおとりにすればお互い助かるだろうって言ったら」

「……あのなあ。そら怒りますって」

「やっぱりダメか」


 そりゃダメだろう。シァオミンが怒ってケンカになったのもわかる。彼は直接、シガンを助けているからよけいにそう感じたのだろう。そこまでして吸血鬼を描きたいという気持ちがアオには理解できないが、それはそれとして仕事は仕事だ。


「シガンさんがなに言っても守るのが俺たちですよ。もちろん、吸血鬼に引きあわせるのはできんですけど」




 アオは明日にはもう一度組合で聴取したいと伝え、それから別件で気になっていたことを聞く。


「……ところで、ここらに安い宿ないもんですかね?」

「ぼくに聞かないでくれるかな」

「いやあ、組合がなんとかしてくれると思ったんですけど」


 短期間ならホテルでもいいが、思ったより長期戦になりそうな上、シガンの警護を頼まれた身である。どうせなら、ここに近いところに拠点を作りたかった。シガンは「宿っていってもなあ……」と少し考え、ひとつ提案をする。


「嫌じゃなかったら、空いてる部屋に住んでもいいけど」


 そう言ってキッチンから見える部屋を指した。2DKの部屋ひとつを貸すという。


「え、ほんと? 悪い人から壺買ったりしてない?」

「……やっぱやめようかなー」

「ごめん、ごめんって、頼みます」

「家賃の半分出してください。そうすればぼくが助かる」


 ふとんもある、それからキッチン風呂トイレは共用でいいならと言った。


「メシはどうします」

「自分で勝手に食べて」

「ふーん」


 アオは立ちあがり、キッチンを見まわした。皿は意外と多い。炊飯器を避けてシガンに「見るよ」と声をかける。冷蔵庫を開けると調味料に卵、ジュース、しなびたネギ。ほかには小麦粉、油、米が少し。ホットケーキミックスが中途半端に残っている。


「こんだけ?」

「それだけだ」


 流し台はくすんでいたがきれいでここ最近使った形跡はない。三角コーナーも空。電子レンジがあちこち汚れている。ゴミ箱にパンの袋や弁当の空き箱が詰めこんであった。大きなケガをした一人暮らしと思えばそれもそうか。


「しゃーないなあー、もおー」

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