第25話、良いこと悪いこと 上

 キッチンに歌が響く。銀座の事件から二日、夕食当番のアオが歌っていた。


「ピーマン、ピーマン、ギュギュッと詰めてー」

「……なにそれ」

「肉詰めピーマンの歌」


 つまり今日のご飯は肉詰めピーマンである。アオは子供が好きそうな料理を作るのがうまい。ハンバーグや照り焼きチキンが続くと肉じゃがや煮物が食べたくなるが、それはシガンが作ればいい。


「やるの、コウもおてつだいやるのー!」

「じゃあ、お皿とお箸出してくれる?」

「わかった、だすよ!」


 肉を下にいい色になるまで焼く。しばらくするとジュウジュウ音がして、火がとおったおいしそうな匂いがただよってくる。


「アオさんは料理好きなんだっけ?」


 シガンはコウが出した皿に野菜を盛ってサラダにした。店のようにとはいかないが、味が変わるわけでもない。そう思いつつ、きれいに盛りつけができると嬉しいものだ。


「ん? まあ、好きだなあ。こういうのは弟がよく食べたから」

「……へえ」


 この男が自分自身のことを話すのは珍しいとシガンは相槌を打った。


「歳が離れた弟でなあ」


 あとは調味料か。ケチャップとソース、ドレッシング……。コウが箸を持ってきた後、なにをしたらいいかとうろうろそわそわしている。


「ぼくは末っ子だったから、弟がほしかったな」


 子供らしい願望を聞き、アオが困ったように「そうかあ」と返した。


「姉たちには雑に遊ばれてたから、弟ができたら絶対だいじにするんだと思ったよ」

「あははは。そうかそうか」


 なんだかんだいってシガンはコウのいい遊び相手になっている。弟がいたとしたら、いい兄になるだろうとアオが笑う。


「アオさんはなんで防除組合に?」

「んー……田舎から出てきて、なりゆきかなあ……」

「人の役にたってるなんてすごいな。絵なんて――」


 そう言った後で、まるで当てこすりのようだと気づいた。シガンはこんなに描かなくてはいられないのに、絵は多くの人にとって役にたたないものだ。


「弟も『まがまに』好きだったわ。ガルフは人助けして一緒にご飯食べるだろ?」

「え? ああ……」

「あれを見るとよく食べるし、機嫌を直してくれてな。ずいぶん助けられたよ」


 昔からある絵本とアニメ番組だ。コウも好きでマネをしている。愛された絵、共有できる絵、寄り添って助けになった絵。それは誰かの必要になったのだ。


「……だから、作った人はすごいなって思った」

「そうか」

「うん。はい、焼けました」


 ピーマンの側も焼き色がついたので、油を切って皿にとる。少し焦げた匂いが食欲をそそった。ピーマンの緑に肉の茶色が、白い皿にとてもきれいだと思った。


「コウくん、肉詰めピーマン好き?」

「うん、すき」

「そりゃあ、よかった。作ったかいがあったわあ」




 その次の日、シガンは自分の部屋でひっくりかえっていた。逆立ちだ。口に筆をくわえ壁にたてかけたキャンバスに線を入れる。筆を伸ばした拍子に体勢が崩れた。バランスを失い、物を巻きこんで倒れる。ガラガラと音が鳴ってドンと落ちた。


「いてー!」


 自分の描きたいものはこんなものじゃない。そう思って十年がたった。人と同じことをしたらダメだ、人と違うなにかをしなくては認められない。そう考えるほどに描きたい「自分」がわからなくなっていく。


「あーあ……」


 ぐにゃぐにゃ曲がった線が残っただけだ。やる気がそがれて筆を投げだす。


 そういえばコウはなにをしてるのか。キッチンに行くと、コウは紙に向かって一生懸命なにかを作っていた。色鉛筆の線があり、折り紙が貼ってあり、粘土の塔がたっていた。


 声をかけたら真剣な空気が壊れそうで。シガンは鉛筆と紙だけを持ってコウの隣に座った。気づいていないのかコウは手を止めない。その顔をシガンは紙に写しとる。


 まっすぐに紙に向かうコウの手はなにかを作り続けている。高く粘土の塔ができたと思ったのに、急に叩き潰してまったく別のものにしようとしはじめる。


 シガンはそこまで描き、色鉛筆を借りて薄く色をつけはじめた。目だつ金の髪、鮮やかな青い目。金の奥に緑が隠れていて、青のなかに紫が輝いている。肌にはうっすらと暗い青みが感じられる。


 それから背景にも色を乗せていく。ぼんやりとした虹のような柔らかな光。彼の見ている世界がそうであればいいというように。


 光のなかにいるコウにさらに色鉛筆を入れた。世界に負けない、はっきりとした輪郭と色をもたせる。そこにコウがいるということ、その外にはないということがぶつかって、押しあってコウというものができている。


「シガン! できた。見て!」


 不意にコウが顔をあげ、できたものを見せてきた。シガンは手の色鉛筆をためらわせる。もう少し描いていたかった。


「シーガーンー、見るの!」

「おう、いっぱいつくったな」


 口にしたとたん、色鉛筆がするっと手から離れた。そうか、これでいいのかもしれない。コウの世界は広がり続けている。余白の大きなこのくらいがちょうどいい。




「くりすますってなに?」


 テレビでアニメを見ていたコウに聞かれて、アオはおや? と思った。そういえばもう十二月も半ばだが、コウはクリスマスを知らないのか。


「サンタさん、知らない?」

「しらない」

「クリスマスにはサンタクロースが来て、みんなにプレゼントをくれるんだ」

「コウももらえる?」


 アオはいろいろ考えながら、とりあえず確かなことを答えた。


「ああ、もちろん。なにがほしい?」

「なにが……」


 コウはぴたりと動きを止める。それからあれこれと頭で必死に考えて言った。


「わかんない」

「わかんないかあ……」


 そのままテレビに戻るコウを横目に、聞いていたシガンがこそっと聞いてくる。


「で、どうする」

「クリスマスねえ……」


 そう、あと少しでクリスマスなのだ。シガンもアオも特別なにかしたいと思っているわけではないが、コウにケーキとプレゼントは必要だろう。そもそもの意味はともかく、子供にはサンタクロースがこなくてはならない。


「クリスマス……」


 アオはもう一度繰りかえした。彼はクリスマスにも誕生日にも物を貰った記憶がないから、なにをやればいいのかわからない。弟にも物をやる余裕がなく、ホットケーキを作ってやることしかできなかった。コウにはいいものをあげたいと思った。


「シガンさんはなにがいいと思います?」

「折り紙や粘土は足りてる。他のものがいい。体を動かせるものとか」

「ボールとかかな。でも、外で遊ぶ場所、ある?」

「んー……」


 困ったなあと考えこむシガン。小さな子供のいる姉たちに聞いてみようか。そう思ったとき、ひとついいものを思いついた。


「……そういえば、外に出るのに、あいつバッグもってないな」

「ああ、そうか」




「さて」


 ラッピングされたショルダーバッグを抱えてアオは考える。これを気づかれずに枕元に置かなければならない。コウはあれ以来、サンタクロースを待っていて、わくわくして眠れない様子だ。「まだクリスマスじゃないから来ないよ」というシガンの言い訳がきかなくなる当日、どうするべきか。


「クリスマスか。太陽が死んで生まれてくる季節だ」

「ユエンさんもクリスマスやるの?」

「サンタクロースという妖精のことはよく知らないが、子供が喜ぶのはいいことだ」

「そうだよなあ」


 ユエンはきれいな包みをアオからひょいととりあげた。


「私がやろう。気づかれないよう、コウのところに置けばいいのだろう?」

「できるの?」

「サンタクロースにできて私にできないはずがないだろう」


 張りあうように胸を張った姿がなんだかおかしくてアオは噴きだした。ユエンはむっとしたように口をとがらせたが、それがまた笑いを誘う。さすがに悪いと思ってアオは口元を抑えた。


「じゃあ、よろしく頼むわ」




 それからしばらく。今日はアオもシガンも出かけてしまった。だからコウもひとりで出かけることにした。靴をはいて帽子をかぶる。マフラーもした。手袋もある。アオとシガンがいないことを確認して、玄関を開けた。


「そんな、隠れて行かなくてもいいだろうに」


 くすくすと笑ってユエンは送りだす。ポンと軽く背中を押してやった。


「人の姿も板についたようだな。行ってこい」


 コウが小さな道を歩いていくと、落ち葉が風に転がっていく。踏みつけるとカシャカシャと潰れて音をたてた。通りすがりの人も名前があって家があってご飯を食べるのだろう。そう、ぼんやりと想像できた。それはきっとすごいことだ。


 しばらく歩いて公園についた。クナドに会った公園だった。


 走っていったコウはすぐにクナドを見つけた。ほかには誰もいない。灰色の雲が広がりはじめた空の下、クナドはひとりブランコに座っていた。つまらなそうにゆっくり揺らして。今日はバットを持っていなかった。


「クナド! クナド、こんにちは!」

「あれ、コウ?」


 クナドは気づいて立ちあがった。それから、ほっとしたように歯を見せて笑う。


「よかった。元気だった?」

「げんきだった!」


 コウはクナドの隣のブランコに座った。嬉しそうに地面を蹴って少し揺らす。クナドは歯磨きが嫌じゃないんだろうか。クナドは大きくて強いからきっと平気だ。


「来るかもしれないと思って……待ってたんだ。はい、これ」


 差しだされたのは折り紙で作った小さな袋だ。空色に黄色のリボンがついている。


「おまもり。悪いやつに襲われないようにって。妹と弟のために折ったんだけど、きみにもあげる」

「ありがと」


 受けとったコウがにんまりと笑う。おまもりがなにかわからなくとも、コウを思って作ってくれたのはわかる。胸のあたりがじんわり熱くなった。


「あの女の子、人じゃなかったんだね」


 ユエンのことだ。トモエから教えてもらったと複雑そうにクナドは言った。


「悪いやつもいるけど、あの人は助けてくれたから。トモエさんが『そういうこともある』って。……母さんはやっと落ちついてきたよ」


 そこまで喋って息をついたクナドは、コウを安心させようと明るい口調になる。


「ごめんね、怖かっただろ?」

「うんと……あのね、あの……ぼく、うれしかった!」

「嬉しい?」

「うん。たすけてくれたの」


 そうだ。クナドはコウの手をとって走ってくれた。コウのことを思ってくれた。あのときの手の感触を思いだすと口元が緩んでしまう。


「いや……でも。うん……」


 クナドが照れたように言葉に詰まる。ほかになにも考えられず、ただ助けなきゃと走った。自分でも運がよかっただけだと思う。でも、助けることができた。こうしてまた話せた。頬をかいて、くすぐったそうにコウに笑いかける。


「そっか。それならよかった」

「クナドはつよいの。それでね、すごい。『かっこいい』んだって」


 彼のことを話したら、アオが教えてくれた。鮮やかに心に焼きついたもの。輝いて見えたもの。自分もそうなりたいと思ったもの。そういうものは「かっこいい」。震えながらもコウの手をとったクナドは「かっこよかった」。


「かっこいい、ガルフみたいだ」

「……うん」


 でも、コウの隣に座ったクナドは悲しそうだった。ブランコをゆっくりと揺らしながらひどく苦しげにしている。あのときとは違って、ひどく小さく弱く見えた。そんな顔にさせるものは悪いものだ。コウはクナドを悲しませたもののことを考えると、胸がむかむかとした。


「でも、俺は母さんを守れなかったんだ」


 静かにクナドの思いがこぼれる。


「だから、みんなが襲われないようにしたいと思った。それなのに、人間相手でさえ怖くて動けなかった」


 クナドは泣きだしそうで、吐きだすのも苦しいというように身をこわばらせた。


「許せないよ、母さんの足を折ったやつ。足切らなきゃならないかもしれないって。吸血鬼なんてボコボコにしてやりたい。同じくらい痛い目にあわせたい。ああいうのは、人を傷つけるやつは嫌いだ。大嫌いだ。あんなの、いなくなればいい」


 コウはそれを聞いて動けなかった。目をそらすこともできなかった。言葉はがんばっても真ん中に届かないのに、どうしてこんなときだけまっすぐに刺すのだろう。


「……かえる」


 クナドがはっと気づいてコウを心配した。


「どうした? 気持ち悪いのか。ひとりで帰れる?」

「だいじょぶ。かえる」


 ブランコを蹴るようにおりて公園の出口に早足で向かう。門がやけに遠かった。クロを家に忘れてきたことに初めて気づいた。なにもないことがわかってしまったら、不安でしかたなかった。




 コウはひとりで帰る道を行く。いくつもの角を過ぎ、このまま家につかなければいいのにと思った。ぽつぽつと黒い雲から水滴が落ちて、頭に肩に染みてきた。


「コウ」


 呼ばれて顔をあげるとユエンが立っていた。ユエンは透明のビニール傘をコウの上に傾ける。雨が当たって跳ねる音が鳴った。


「おまえが濡れるとあいつらがうるさい」

「……かえらない」


 帰りたくない。


「ならば寄り道していこう」


 ユエンはそれ以上聞かず、さっさと歩いていってしまう。コウが遅れないようについていく。Tシャツの袖はもうべちょべちょだ。靴もズボンの裾も水浸しで、歩くたびにぐちゅぐちゅ音がたつ。握りしめたせいで貰ったおまもりも潰れてしまった。


 それでもユエンは歩いた。コウの手をとることも振りかえることもしなかった。なにも言わなかった。ただ傘の下で隣りあって歩いた。


 コンビニを素通りして、幼稚園を横目に、お寺を通りすぎてまだ歩き続けた。コウは自分がどこを歩いてるのか、どこに向かっているのかわからない。急に怖くなった。このままどこにもつかなかったら?


「ユエン」


 きゅっとユエンの袖をとる。


「どうした?」

「かえりたいよ」

「そうか。では、帰ろう。あいつらが待っている」

「……うん」


 コウは伸びてきた手をとった。柔らかい手が緩く握ってきた。




 帰ってきたコウはまず風呂に入れられた。それからアオの部屋に立てこもった。アオがタコさんのウインナーを食べないか声をかけたが出てこない。部屋の隅でふとんをかぶってクロを抱えている。「なにがあったの?」と聞いても答えない。


「ねえ、コウくん。なにか嫌なことあった?」

「……なかった。ないの!」


 そう言いながら壁に頭を打ちつける。アオが慌ててそれを止めると、今度はぬいぐるみで自分の頭を叩く。泣きそうな顔でむやみやたらにクロを振りまわして暴れた。


「やめ、やめ。痛いだろ」

「いたくない!」


 たぶん、なにか嫌なことがあったんだろう。自分でもどうしようもない気持ちなのかもしれない。なにも話さないので、アオは話題を変えてみた。


「明日は冬至祭だし『みなと』行こ? たっくさん遊べるし、ドングリもあるぞー」

「……いかない」


 少しためらった後、拒否された。これはなかなか厳しそうだ。


「そっか。なら、ご飯も食べないんだな?」


 シガンが声をかける。こっちが深刻そうにしなくてもいい。コウのことはコウのことだ。シガンの心配することではない。一食くらい食べなくても死にはしない。


「食べない」

「じゃあ、片づけるぞ」

「……やだ、まって」


 不安そうに頼んでくるが、知ったこっちゃない。


「食べたくなったら言え?」

「食べないの!」

「はいはい、いっぱい落ちこんどけ」


 シガンはコウの頭をぐりぐりとなでる。コウが嫌だと手をやって首を横に振る。シガンは「はいはい」と手を離してそのまま放っておくことにした。


 小さくても生きていれば嫌なこともあるし、落ちこむこともある。それはシガンが言ってもどうにもならない。彼が自分でなんとかするしかない。


「まあ、人生、そういうもんだ」




 次の日、朝早くからシガンは「みなと」に出かけていった。帰るのは夜になったのでアオに迎えにきてもらった。シガンのほかにもケガをした人はいるのに大変だと思う。家まで送ると、アオはそのまま見回りに行った。


 キッチンにウインナーを食べた形跡があった。シガンが部屋を探すとひかえめにコウが顔を出した。クロを抱いて、押し入れの引き戸の裏からシガンにたずねてくる。


「ねえ、シガンはコウのこときらい?」


 そうか、コウは誰かに嫌われることがあったんだな。理由はともかく、コウなりに傷ついたのだろう。もしかしたらコウから嫌われるようなことをしたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。シガンはしゃがんでコウに話しかける。


「ぼくは嫌いじゃないぞ。ほーら、こんなにかわいい子だからな」


 そう言ってほっぺたに手を当てると、コウは気恥ずかしそうにクロを握った。


「アオも?」

「そうだ。アオさんだって、ユエンさんだって好きだろうさ」

「うん」


 ぎゅっとクロをつかんだまま、シガンに身を預けてくる。シガンはそれを受けとめて、背中に手をまわした。人に嫌われるなんてよくあることだ。自分が悪くても、悪くなくても。だから好きな人だっていていいじゃないか。


「コウはわるい子?」

「まさか。冬至祭りは終わっちゃったけど、また『みなと』行こう」

「……うん」

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