第12話、守ること 上
「『地面に血を流さないように』か」
研究室に来たミトラが紅茶を飲んでいた。砂糖を出したヤマが状況を報告する。
「襲われた者にはすべて通達しました。血の味を覚えている可能性がありますので」
「ケガ人だな。人形町の事件以降、死者は出ていない」
改めて口に出して確認する。十一月初めの事件の死者は、吸血鬼と思われるが吸血はされていない。その後も重傷ですんでいることを考えると、例の食人鬼と吸血鬼はしばらく血を吸っていないようだ。
「そうですね。もっとも我々の知らないところで、というのはありえますが」
「……例の妖精が見つけたんだったな」
ユエンが匂いを嗅ぎつけるおかげで駆除が間に合っている。ミトラも話してみたいものだと思ったが、まずは吸血鬼を駆除しないことにはどうしようもない。
「あー、ミトラさん来てたんですか」
「ああ。ヤマさんの紅茶はうまいから助かる」
「そんな砂糖ばっかりとって」
もーと文句を言ったアゲハに、ミトラはうるさいと手を振った。
「おう、なんか面白いことあったか?」
「こないだユエンさんの塵をなめてみたんですけどね」
「ええ?」
ヤマが思わずといった様子で聞きかえした。
「……ほう、どうだった?」
「なにも? 霊気が抜けているのでただの有機物ですね」
「ふうむ。霊気はそれだけを取り出せないのか?」
「できてません。吸血鬼に噛まれた人間の血を見ましたが、何が反応するのかもわかっていない」
「本当に、我々のような生き物とは違うんだな」
それこそ、人間とバクテリアよりなお違うのだ。そんなものが人の言葉を話したとして、何が理解できるのだろうか。
「人間が妖精を認識することが必要なのもそこです。放っておけば精気は散るので、つなぎとめるために情報がエネルギーとして必要なんでしょう。人間が『そう思っている』ということはとても強い力です」
では人が「吸血鬼は人間を襲わない」と思えばその通りになるのだろうか? ミトラは窓の外に目を向けた。人間はあちこちに塔を建て、夜でもまぶしい都市を生み出した。月にも行けるようになったのに吸血鬼とはひどく遠いものに思えた。
「……まだまだわからないことが多い」
「人間のことだってたいしてわかっていませんよ」
「それもそうだ」
「カレーだ!」
「カレーだ!」
ぷーんとスパイスのおいしそうな香り。キッチンに立つシガンの後ろで、アオとコウが待っている。いや舞っている。拍子をつけてよよいと手を動かし、足踏みをして叫んだ。
「カレーは偉大なり!」
「いだいなり!」
「まーた変なこと教えて……」
鍋をかき回して振り返ると、コウがコロッケをかじっていた。テーブルの上のコロッケがひとつ減っている。コウはそのままの姿勢で固まって、何もしてませんの顔でいる。
「こら、コロッケなしになるぞ」
「んむ」
また背を向けると、また手を伸ばしたのが気配でわかる。ちらりと見るとぴたっと止まった。だるまさんが転んだか。最近イタズラが多い。こないだは洗濯物を冷蔵庫に入れてくれて、冷え冷えのおパンツができてしまった。
「もう。アオさんもなんか言って……」
「んぐ」
もう一度振り向くと、アオは口をぎゅっと引き結んでいる。
「おまえもか……。ユエンさんは食うなよ」
「私は人間が捧げないと食べられない」
「捧げているつもりはないが」
「誰かに食物を作ってやるとか食事をともにするとはそういうことだろう?」
そうなんだろうかという顔でシガンがコーンスープをよそった。コンソメスープにコーン缶とベーコン、キャベツ。たまにトマト缶が入った。カップに注いでテーブルに置く。
「まったく……もうちょっとだから待ってろよ」
「あ」
バシャ。コウがコロッケに手を伸ばした時、カップを押してひっくり返した。熱いスープがテーブルに流れる。コウは呆然としてしたたるスープを見ていた。
「うわ、コウくん大丈夫?」
「やけどしなかったか?」
「うん……」
アオがコウの手をとって確かめる。触れられたところがあったかくて、なんだか胸がもぞもぞして落ち着かない。わからないけれど嫌じゃない。コウはもうひとつのカップもひっくり返した。同じように熱いスープがこぼれた。
「あー……!」
「こら!」
今度こそシガンが大声を出した。コウはびっくりして動かなくなる。
「今のはわざとだろ。作った人とコーンとキャベツとベーコンに悪い」
「……わるい」
しゅんとしてコウが言葉を繰り返す。
「そう。ぼくが悲しいから、ダメ」
「うん。……ごめんなさい」
「もうするなよ」
それから出てきたコウのカレーにはちゃんと一個のコロッケがのっていた。アオのぶんはなかった。
「アオ、コロッケあげる?」
さて、ある日のコウは壁紙に大きく絵を描いた。
「おいおい……ずいぶんとお楽しみになったようで……」
「やってくれたなあ」
人の顔にしっかりした体がついて、ちゃんとした手足がついた。髪型もわかるし、服も着ているようだ。人のそばにいる犬だってそれらしく見える。
「あっちゃあ、どうしよ……」
頭を抱えたアオに対し、コウは怒られることを待っている。
シガンはじっと絵を見ていたが、自分も色鉛筆を持った。そして、コウの絵の上に大きな花丸を描いた。アオがびっくりしてシガンと絵を交互に見る。
「よく描けてるな。気持ちよかったか?」
「……うん」
「そりゃあよかった。だけど壁に描いたらぼくが困る。大きな紙がほしい?」
「うん。ほしい」
「じゃあ、もっと大きい紙あげるから。まず、これを消すんだ」
「え、消せるの?」
思わずアオが聞いた。壁紙に描き込まれた色鉛筆はとても消せそうに思えない。
「お湯と洗剤で拭くと薄くなる。このくらいなら大丈夫だろ」
シガンは食器用洗剤を持ってきた。お湯でぞうきんを濡らし、ぎゅっと絞って落書きに当て、下のほうからやさしくこすってみる。
「ぼくも小さいとき、やったから」
「ええ……シガンさん、怒られなかった?」
「怒られたさ」
きゅっきゅと拭いていくと少しずつ色がとれていく。そのうちだいぶ薄くなって、よく見ないとわからなくなった。まだ残っているところを見つけて念入りにこする。
「こんな悪さくらい、けっこうなんとかなるもんさ」
確かに色鉛筆のあとは消えた。けれどもアオは壁を見つめて困惑する。
「これ……いいの?」
「きれいにして悪いってことないだろ」
古びていた壁紙は、拭いたところだけ白くきれいになっている。そこだけへんに浮きあがってみえる。けれどもシガンは頓着してないようで、色鉛筆の色がないことを確認すると、大きくうなずいた。
「はい、よくできました」
それからシガンは大きな画用紙を何枚か持ってきた。テープで裏を貼り合わせて大きな紙を作る。ひっくり返せば紙がテーブルをおおった。
「いっぱいに描くのは気持ちいいもんな」
真っ白な紙を前に、コウは思いっきり手を動かした。体をコンパスにして色鉛筆で大きな曲線を描く。さまざまな色の弧は、たくさんの虹が重なっているようだった。
そろそろおやつの時間だと理解したコウは、キッチンに来て房からバナナを一本取った。手にはクロを持ったままだ。
「おい、食べるんなら置いとけ」
シガンに言われ、コウはしぶしぶクロから手を離した。「ほら、袖で手を拭かない。洗ったばっかなのに」。それを見ていたユエンがふと笑った。
「そういえば、人間はバナナを選んだから死ぬのだという」
「へえ?」
聞いたことがないとアオが聞きかえした。
「アオは石とバナナならどちらがいい?」
「ええ? 石とバナナならバナナだろ……食べられるもん」
その答えにユエンは笑う。その横でコウはもう一本食べたいと手を伸ばした。シガンが手を出して止める。
「もう終わりな。晩ご飯入らなくなる」
「えー……でもシガンはもうひとつ食べてるよ?」
「大人だからな」
「コウもおとなになる!」
「はいはい、あとでゆっくりなってくれ」
ユエンはコウの放り出したバナナの皮をつまんだ。バナナを食べるのは一瞬のことにすぎない。だいじに取っておいてもすぐに腐ってなくなってしまう。
「人間は古来、石を使って食物をとってきたのになあ?」
「そら、石があれば道具を作れるけど」
石を使えばもっと食べ物が手に入る。しかし動けないほど腹が減っていたなら、すぐに食べられるバナナが欲しい。
「では石と花ならどうだ?」
「うーん……なんかのひっかけ?」
「『永遠の命を選ばなかった』、そう人間は考えたんだ。そのかわり次代につないでいくものだと」
バナナの皮をユエンからつまみ取り、シガンがひょいとゴミ箱に投げた。命中。それから思い出したように言う。
「吸血鬼は知恵より生命を選んだから不死なんだって聞いたな」
「確かに妖精は寿命をもたないが、人間のような善悪もない。だから社会を持つことがない」
善悪とは人間が人間のありかたを評価するものだ。だから人間は善も悪も持ち合わせているし、妖精は善悪を持たない。もっとも、人間とて生まれつき知恵や善悪を持つわけではない。
「でも、情とかないの? 家族とか……」
「多くの妖精には親も子もない。自然に生まれてはそのうち自然に消えていくものだ。吸血鬼は人間との間に子をなすことができるが、それは社会ではない。顔も知らない者のことを考えて、そのために動くことができるのが人間の社会というものだろう?」
知らない誰かのために損することはできない。家族や群れをもつ妖精はいるが、それは人間の社会とは異なるものだ。
「へえ……吸血鬼の子って、やっぱり吸血鬼なの?」
「人間との間の子はみな人間になる」
妖精はその形を変え生物と子を作ることができるが、妖精の形質を受け継ぐ例はない。
「じゃあ吸血鬼同士だと?」
「子ができない」
「不死らしいしそれでいいのか。争っても困るしな」
「そうだな、吸血鬼同士では殺しあえないようになっている。竜の
「へえ……竜?」
「始祖だ」
全ての吸血鬼の祖。アオも知識としてあるが、知り合いかのように話されると驚く。
「吸血鬼とはひとつの血族で、その始祖は人間の血と恐怖から生まれた妖精だ。そいつとその子孫が吸血鬼といわれている。もっともそいつは、いわゆる吸血鬼とは少し違うのだが……」
それからユエンは奇妙だとばかりにつぶやく。
「これだけの事件になれば、そいつが出てきそうなものだがな」
「それにしても、地下を移動する吸血鬼とは初めて聞いたな」
夕暮れの吸血鬼研究室、ヤマが地図を指でなぞった。横でナヨシがうなずく。
「追うのが難しい。全部掘り返すわけにもいかない」
「地下空間が多いから動きやすいのかもしれないな。人間の作ったものだが」
ヤマの言葉に「なるほど」とナヨシがうなった。東京という都市の地下は穴だらけである。それを借りて動いているというのはもっともらしい。
「最初に見つかったのはここだ」
地図の一点を指ししめす。東京駅からずっと東北東にあがっていって、中川と新中川の分岐点近く。青戸とあるそばに赤いマークがつけられていた。七月十四日と書かれている。
「地面を掘って工事をしていた。遺体はその穴から見つかった。発見が早朝なので、夜のうちに襲われたと考えられる」
「ああ、そうだ。ここでも地下か」
青戸から西、荒川までの間でさらに二件、それから川をこえてまた数件。
「ここで川をこえた。……普通に歩いて橋を渡ったのか?」
「川底間隙、地下水も含め、潜るのは大変だろう」
青戸から東京駅まで荒川と隅田川をこえなければならない。ヤマはボールペンで机を軽く叩いた。
「人間以外にも被害が出ている。共同溝に大きな傷が見つかったと報告があった」
共同溝は上下水道に電気、ガス、電話などをまとめて地中に埋めたものだ。そこに損傷があったのだという。さいわい寸断されずにすんだが、管理者は頭を痛めている。
「浅草の地下街でも同様の被害があった。廃駅でもだ」
「それから地下鉄が何かにぶつかりそうになった。地下区間で、人身かと思ったが何もいなかったそうだ。トンネルと線路がゆがんでいた。事故にはならなかったが吸血鬼の可能性がある」
「地下変電所も侵入のあとがある。人間のしわざとは考えにくい」
人間は身一つで生きていける生き物ではない。爪も牙も持たない人間は、道具を使い環境を変えることで栄えてきた。吸血鬼は人間の血肉に執着するが、インフラを壊すことを直接の目的とはしないのが救いか。
「『吸血鬼は人間が恐れるほどに強くなる』とは言うが……」
妖精は人間の認識に左右される。はるか昔、吸血鬼とは避けるしかないものだった。天災と同じく、人間の力ではどうしようもないものだった。
その関係が変化したのは「吸血鬼ドラキュラ」という小説が広まってからだ。十九世紀末に世に出されたこの小説では、吸血鬼が人間の知恵と勇気で倒されるさまが描写されていた。
それを読んで人間は吸血鬼を駆除しはじめた。「できる」と思ったからできるのだ。
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