第9話、ひとりでできること 上
「お、なに描いてるのー?」
カフェ「みなと」から帰ってきた夜、コウがスケッチブックに丸を描いた。丸がいくつもと、両側にゴール。よく覚えていたなとアオは感心した。ずるして負けて「もうやらない」と言ったけど、やりたかったのか。
「ほう、マンカラやるのか?」
「うん、やる」
シガンは豆煮に使う大豆を渡した。アオが円の中に大豆を三個いれる。それからコウが先手ではじめた。カゴメとやった時より、円の数も豆の数も少ない。これなら簡単だ。コウはもう、ズルをしようとしなかった。
「よし、ジャンケンな」
コウの先手だ。ひょいと手を動かして豆をつかんでまいていく。アオも豆を移動させる。そうしていくうちに、コウの旗色が悪くなっていく。負けているのがわかるとコウは涙目になった。アオが手加減してわざと負ける。それがわかってコウがいじける。
一方、ユエンは手を抜かないのでコウは勝てない。いい勝負をするのはシガンだ。わざと手を抜くわけではないが、コウがいい手に気づくとそのまま勝てるようにゆるめる。アオほどあけすけに手加減はしない。「ん……」。一瞬、コウの手が止まった。そしてコウが悪手を打とうとしたら、にやりと笑って指摘する。
「お、それでいいのか? こうなったら?」
「……だめ。まって」
まってが三回あって、シガンに勝った時のコウはじつに嬉しそうに笑った。
翌日、朝のニュースでは人間による殺人が報道されている。指名手配に踏みきったらしい。
それに続いて、チンピラが「吸血鬼から守ってやる」と金銭を要求する事件が報じられた。組合だってもともとお行儀のよい組織だったわけではないが「吸血鬼対策基本法」や各地の条例施行後はそういうものも減っている。
コウはぬいぐるみを抱いて、シガンがレンコンを切っていくのを後ろからじっと見ている。だんだん近づいていって、ひじの下からのぞきこんだ。
「切ってみるか?」
「……やだ」
「正しく使えば怖くないぞ。色鉛筆削るより簡単だ」
そう言われて切ったレンコンを一枚もらった。穴がまるい模様に並んでいるのが面白い。とても不思議だ。穴をのぞくと視界は狭まるのにどこまでも見える気がする。かぷとかじってみれば、少しアクがあってしぶい。「うえっ」と顔をしかめてもう一度シガンを見た。シガンはサクサクとレンコンを切っていく。
「やらないなら離れて」
「……やる」
「切れそう? 気ぃつけてな」
「ならクロちゃん置いて」
昨夜、ぬいぐるみに名前がついた。黒いからクロとはそのままだ。クロを置いたコウは、イスに乗ってシガンのまねをして左手で包丁を握る。右手がレンコンを上からつかむ。ここでシガンがおかしなことに気づいた。
「……逆。こっち、右手で包丁握って、左手出して押さえて……」
「俺切ろうか? ケガしないで……」
「アオさん、ジャマ。少し黙ってて」
後ろでうろうろしながら口を出してくるアオに、シガンが怒る。シガンは切りやすいようにまな板の位置を変えた。コウは左手でしっかり押さえ、右手でおそるおそる包丁をにぎる。
「ごめん……」
「アオは人の面倒を見すぎる」
ユエンにも言われてしまい、アオはしょんぼりとイスに座った。けれどもどうも心配で落ち着かないらしい。そわそわと伸び上がってコウの背中を見ている。シガンはため息をついた。危なっかしいのはわかるが、こういうのはやらせないとダメだ。
レンコンに刃をあて、ゆっくりと力をかけていく。すっと刃がはいり、トンとまな板に包丁があたった音がした。すっぱりと切れていた。「おお、よくできたな」。そうして分厚いレンコンの半月が何枚かできた。コウが満足そうに見せてくる。
「おー、すごいなあ、がんばったなあ!」
「うん、きれたよ!」
「ほう、よくやった」
こうなるともう得意でもっと切ろうとする。他に切れるものはないか探すので、シガンが止めた。「はいはい、よくできたのはこっち入れて」。コウが切ったレンコンは不揃いだったが、みんな一緒に軽く水につける。
「じゃ、次は火を使うからそでまくって」
シガンがフライパンに油を引いて熱くする。そこにレンコンの水気を切って投入するとパチパチと跳ねた。
「近いとこ全部熱いからな。ほら、気をつけて」
コウはうなずき、遠いところから菜箸でつついた。「つつくんじゃなくて」とシガンがコウの手を取って炒める。ジャアッと焼ける音。砂糖と醤油を入れると、ぷーんと甘じょっぱい匂いがただよってきた。煮詰まって醤油がとろとろとレンコンにからむ。
「はい、ご飯にするよ」
レンコンのきんぴらだ。色よく、味がぼやけておらず、かといってしょっぱいわけでもなくじつにうまい。レンコンは火を通しても歯触りよく食べていて楽しい。コウの切った厚いものもご愛嬌だ。上にふったすりごまも香りがあって嬉しくなる。
「つくってくれて、ありがとねー」
「れんこん、すき」
そう言いながらコウがまだうまく使えない箸で食べている。甘辛い味はご飯がおいしい。飲み込むようにご飯を口に入れた。むぐむぐと口いっぱいにほおばったコウを「よく噛んで」とアオが押さえた。
ユエンは「ふむ」と舌なめずりをしてその様子を眺めていた。ずいぶん成長したものだ。さて、そろそろ今後の処遇を考えなければならない。
テレビの向こうでは、コメンテーターが吸血鬼害対応の遅れをうれいていた。
それから数日後、ユエンは吸血鬼研究室に呼ばれた。部屋に入るなり、備え付けの電話が鳴ってカナヤが出る。出た瞬間、眉をしかめ机に置いた。電話の向こうから、がなりたてる声がしている。アゲハが肩をすくめてユエンに説明した。
「ここ最近は『なぜ吸血鬼を殺した』という抗議の電話が多くて」
「ああ、アオも言っていた。やっかいな。……今日は何の用だ?」
アゲハは机に都の地図を広げながら聞く。
「吸血鬼は吸血するからこそ、吸血鬼として認識される。それが吸血鬼の存在そのものだと言います」
「そうだ。なにか気になることが?」
「先日、人形町であった鬼害ですが」
アゲハが地図に指をすべらせる。十一月四日、人形町に吸血鬼による死亡と赤くマークされていた。新橋、シガンが襲われた青山霊園、アオと対処した東京駅、再び霊園で吸血鬼を目撃と四つの黄色いマークの前に起こった事件だ。そこから飛んで上野の東に黒。これは先日、ゲンが見つけた食人鬼を駆除したものだった。
「この事件はすぐに人間の犯行ではないと考えられました。その……強い力で首が引きちぎられていたもので」
「ふむ」
ユエンがうなずく。医師のアゲハが人間ではできないというならそうなのだろう。
「けれども他の事件のように吸血した形跡がないんです。たまたまなのか、それとも……」
「吸血より殺戮それ自体に興味を見出すものもいるのだろう」
「確かに、食人鬼ではなく例の吸血鬼が目撃された事件ではどれも吸血に至っていません」
人間は吸血鬼のことを知らなさすぎるとアゲハは思った。知らないから怖いのだろうか、それとも人を襲うと中途半端に知っているから怖いのだろうか。妖精は人間が思うほど強くなる。見あげれば大きく、見おろせば小さくなるものだ。
「わかりませんねえ……」
カナヤが雲をつかむような事件だとため息をついた。
「吸血鬼ももとは吸血鬼に殺された人間なんですよね? 変異したという……」
「人間の血と恐怖から生まれた始祖となる妖精がいたのさ。それに噛まれて吸血鬼になったひとりの人間が、世の中の吸血鬼のほとんどを生み出した。そいつは吸血鬼を今の吸血鬼らしくしたんだ」
「ふーん。元人間が人間を襲ってるんですね……」
「そう。吸血鬼の唾液……霊気によって変異が起こればほとんどの人間は死ぬ。吸血鬼になることに耐えられない。吸血鬼として生きることに耐えられない。それでも吸血鬼になったということは、本人がそうなりたかったということだ」
吸血鬼になりたかったから吸血鬼になる。そんなことがあるのだろうか。
「よくわからないな。単に偶然とか体質ではないんですか?」
「変異しやすいかどうかは体質、遺伝だ。そして実際に変異するかどうかは偶然だ。しかし変異して生き延びるかどうかはその人間の意識しだいなのさ。昔から、不幸な死にかたをした人間が吸血鬼になると言うだろう? あながち間違いでもないということだ」
「……ああ、そうだ。ユエンさん、ちょっと協力してもらえませんか?」
話が落ち着いた後、アゲハは思い出したように声をかけた。先ほどまでの重たい思考が一転、どこか未知の謎を前にした子供のような雰囲気になる。
「かまわない。なんだ?」
「あなたの塵をください。妖精のものは持っていないので」
カナヤがなにを言いだすんだとぎょっとした目で見た。
「ほう、塵でいいのか?」
すっと自分の腕を出してユエンが聞いた。妖精の切り離された体や体液は塵になる。ユエンや吸血鬼のもつ血はやや塵に変わるのが遅いが、それでも血としては残らない。
「いいですよ」
「そうか」
そう答えるのと同時、ユエンが自分の右手を大きな黒いかぎ爪状にした。その爪であっさりと左腕を切り裂く。腕が机の上にぼとりと落ちた。そのとたん、細かい塵に変わって舞いあがった。切断面からは血が吹き出してこれも机と床に落ちる。アゲハとカナヤの見ている前で、血痕がすべて塵に変わっていく。
「ほら、集めなければ散らばるぞ」
カナヤが慌てて小さなホウキとチリトリを持ってくる。その横でアゲハがじっと見ていたが、集めた塵を小指ですくうと舌でなめとった。よくわからないと首を傾ける。
「へえー……なんか土っぽい?」
「なにやってんですか」
思いきり嫌な顔をしたカナヤ。世の中には、吸血鬼の塵を浴びると精神がおかしくなると思っている人さえいるのだ。
「だってここの塵はなめられないじゃない」
「あたりまえですよ」
研究室にあるのは今までに駆除した食人鬼の塵だ。アゲハの持ち物ではないうえ、元人間の死体と思えばさすがにそこまでする気はない。他に被害者の血液もあるが、これだってなめるわけにはいかないだろう。
「まあ、ただの塵だ。もう霊気が抜けているから人間に影響はないよ」
「そうでしょうね」
ユエンはすでに左腕を再生させていた。断面ももうわからない。ユエンはにこやかにアゲハを見ている。人間の欲求は面白い。知りたい、できるようになりたいという欲は際限がない。世界と自己をつなぐものとでも思っているようだ。それはじつに人間らしい。
「これで足りただろうか」
新しい手を広げられ、カナヤがあきれた態度を隠せずに答える。
「いやー……十分です」
「ありがとうございます。そういえば、あずかってる子って元気ですか?」
「ん? アオに聞いたか。だいぶ育ったな。いいことだ」
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