第15話、友達 上
「じゃあ、寝る前に歯ぁ磨こうか」
そろそろコウは寝る時間である。シガンが子供用の歯ブラシを持ち、膝を叩いて来るように誘うが、コウは乗らない。
「……いや」
「磨かないと虫歯になるぞ」
「いーや」
嫌なことを嫌と言うようになったのはいいことだ。そんなわけでお風呂や歯磨きまで嫌がる。とりあえず「嫌」と言いたいだけかもしれない。
「あ、そうだ。待って、こっち来て。これどう?」
手足をつっぱらせて、むーっと抵抗の構えを見せるコウに、アオが袋を出してきた。
「コウくんにプレゼント。この子と仲よくしてくれる?」
袋から出てきたのは黒い犬のぬいぐるみだった。片手で抱けるくらいで、まんまるの目がコウを見ている。体はふわふわとして手触りがいい。
「ゲンちゃんに似てるだろ? ほら、ワンワーンって」
アオはワンワンとぬいぐるみを動かして、コウに渡す。受けとると、くたりとコウの腕におさまった。
「ワンワン……」
ぬいぐるみを片手で握ろうとしてやめた。体いっぱいを使って抱きしめる。ぱあっと表情が明るくなった。それを見ていたゲンが、これで寝るとき抱きつかれなくてすむと尻尾を揺らした。
「そうそう、ワンワンと遊んで?」
「うん。あそぶ」
「よかったな、コウくん。『ありがとう』は言おうか」
「いいよ、いいよ」
アオは軽く手を振ったが、ユエンが少し離れたところから口を出した。
「貰ったものを堰き止めてはいけない。借りを作ると縛られてしまう。ほら」
物をあげる行為は、絶えず循環していかなくてはいけない。気持ちよく貰い、負債にしないために礼を言う。
「ん……ありがと」
コウはぬいぐるみを握って言われるままに言った。「ありがとう」と口にして、そこで胸のなかが暖かくなったことに気づく。くすぐられているような奇妙な感覚。
「いいよ。俺がコウくんにあげたかったからだもんなあ」
アオは手を振って笑った。これもまた、贈り物の負債を減らす行為だ。
「ユエンさんも言わないよな、お礼」
「神とは崇められるものであり与えるものだから、そこに礼はない」
「……おい」
アオはぬいぐるみの口に歯ブラシを当てて動かした。コウが自分もやりたいと手を伸ばし、奪いとる。そしてぬいぐるみの口を磨いた。いつも自分がされているように。
「ワンワンは歯磨き好きだもんなー。コウくんもシャカシャカするよ」
「する」
その日からコウとぬいぐるみは寝るのもどこに行くのも一緒だった。
「ワンワン、ワンワンこっちきて。なにたべるの?」
ぽんとぬいぐるみがテーブルの上に置かれる。今日の昼ご飯は豚バラ大根とキャベツのくたくたケチャップ煮だ。
「こら、おろせ」
ご飯を運んでいたシガンは注意する。この調子だと、一緒にお風呂に入るのは止めなければならない。
「うーん、ワンワンは食べないかなあ……」
「たべないの?」
コウは信じられないといった目でアオを見た。そんなのおかしい。その目に押されてアオが言い訳のように口ごもった。
「いや、そんな、こういうのはあんまり食べないかなって……」
「じゃあ、コウくんが折り紙かなんかで作ってやれ。おいしいの」
「わかった、つくる。こっちくるの、ワンワン」
コウはぬいぐるみを持ち、小走りで折り紙をとりに行った。コウはぬいぐるみを気にいったようだ。自分が面倒を見てやらなければと思っている。
「後でやれ、後でー」
そんなわけで数日が経った。コウはぬいぐるみを抱いて押し入れのなかに小さく座っていた。アオが気づいてひょいとのぞきこむ。隅っこからコウが見かえした。
「どうしたんだ? これからシガンさんのカフェに行くけど。行くだろ?」
「……ダメ。今、かくれてるの」
コウはぬいぐるみで顔をおおった。見えないならアオからだって見えていないというように。アオが思わず頬を緩める。それからあっちを向いて探しはじめた。
「そおかあ、コウくんどこかなー? いないなー?」
家のなかをぐるりとまわってから部屋まで戻ってくると、ポイッと目の前にぬいぐるみが飛んできた。それを拾ってみれば、コウが慌てて手で頭を隠すところだった。「あれー、おかしいなー。ここかなー」。コウが見計らったように出てくる。
「コウくん、みーっけ!」
出てきたところをぎゅうっと捕まえる。アオがぬいぐるみでくすぐると、にこにこと笑って身をよじらせた。
さえた青空、午後の柔らかな日差しのなかを連れだって歩いていく。ひんやりした空気が頬に当たり、シガンがずびと鼻をすすった。昼間だというのに、今日はずいぶん冷えこんでいる。
「寒いなあ」
「コウくん、寒くない?」
「さむい?」
「手とか耳とか冷たくないか? 大丈夫?」
「だいじょぶ……」
四人はシガンのバイト先に向かうところだ。コウがぬいぐるみを片手にずっときょろきょろしている。急に飛びださないように、アオが反対側の手をとった。スカイツリーの存在感も今ではもう見慣れた光景だ。
大きな道をまっすぐ行った先の駅前には、いくつかの集団がいた。それぞれにポスターなどを持って道ゆく人に声をあげている。
「うわー……」
それを見たシガンが嫌そうな声をもらした。
こっちの集団は「吸血鬼は人間のように知能があるから保護するべき、人と同じ権利を認めるべきだ」と主張し、あっちは「人間に危害を加える吸血鬼は探しだして皆殺しにすべき」と叫んでいる。そのむこうでは「吸血鬼こそ人類を次のステージに高めてくれる上位存在であり、選ばれた民は血と肉を捧げよ」と説いている。
「保護派と排斥派ねえ……?」
「あとは宗教か。血の平和教?」
幕やポスターには過激な言葉が並ぶ。「人間は被害者の顔をするな」とか「吸血鬼に味方するものもまた吸血鬼である」とか「我々に残された救いは吸血鬼のみである」「世の荒廃は善き隣人を無視したからだ。これは祝福されるための試練である」。
「うっさんくせえ……」
吸血鬼を描きたがっている自分を棚にあげ、シガンが吐き捨てた。その後ろをユエンが動じる様子もなく歩いていく。彼らの根底にあるのは吸血鬼への無責任な期待だ。相手に勝手な期待をして思いどおりにならないのは人間の常である。それこそ何千年も前からそうだったはずだ。
「あ、あ、あの!」
若い女がシガンに話しかけてきた。宗教のものらしき冊子を持っている。吸血鬼という偉大な存在に自らをゆだねてうんぬん。しあわせとはかくかくしかじか。
「私たちは、あなたを救いたいと思っているんです」
「……ほんとに吸血鬼は神だって信じてるの?」
シガンは立ち止まり問いかけた。そのまま通りすぎればいいのにとアオが振り向く。
「神というあいまいなものではなく、実在するのが吸血鬼なんですよ」
信者らしき女は顔を輝かせて言った。シガンはムッときて言いかえしてやろうと考えている。まいったなあとアオがコウを後ろから抱いて顔をしかめた。
「悩みはありませんか。この世の中、苦しいでしょう? 生きづらいでしょう?」
そんなの、誰だってそうだ。多かれ少なかれ。シガンがさらに苦い顔になる。
「でも大丈夫。大いなる存在にゆだねて救われるんです。しあわせになれるんです」
シガンだって美しいものに触れたとき「神」を感じたことはある。神とは人間の手の届かないなにかをさす言葉だろう。しかしそれは手垢にまみれた教えとしがらみの多い人の集団とは別だ。
彼女は信じている。信じることは理屈ではない。神を信じていなくても、人は簡単にゴシップを信じるし詐欺にひっかかる。だから彼女を言い負かすことはできない。
「苦しいのはいいことなんです。苦しむことでそのぶん救われるという……」
「ほう。ではおまえは、今、しあわせなのだな」
後ろから顔を出したユエンが無邪気な調子で聞いた。シガンが気勢をそがれたように立ちつくす。彼女も矛先を変えられて少しとまどいながら言いかえした。
「ええ。しあわせですとも。志を同じくする仲間がいるんですから。だって信じなければ不幸になるんですよ。地獄にいくんです。信じたほうが絶対いいですよね?」
「私は天国も地獄も見たことがないな?」
ユエンは小首をかしげてみせた。そしてひとり、わかったようにうなずく。
「もちろん、しあわせとはその人が感じるものだ。……ほら、行くぞ」
その女のことなど気にもせず、ユエンは歩きだす。シガンは思いだしたようにユエンの背を追った。一度だけ振りかえる。彼女は旗を持った仲間の元に戻っていった。彼女のしあわせは、本当にそこにしかないのだろうか。
「……人を柵で囲むのが宗教だ。柵によって守られている」
ユエンがぼそりとつぶやいた。柵で囲まれることで安心し、お互いに守りあう。そうやって何千年と生活をつなげてきた人間たちをユエンは知っている。ときに柵を破られ、柵を広げ、隣の柵を襲い、今まで続いてきた。
「苦しい『から』救われるかあ……」
「意味があるほうが楽だからな。救済を信じ、喜んで苦痛を味わう。であれば風呂に入って気持ちいいというのとたいして変わらない」
「ううん、そんなもんかなあ……。苦しいのは嫌だと思うけど」
アオが納得できないようにうめいた。
「他も不幸にしてしまえば、自分の不幸が報われたように思える。そういうものだ」
彼らはまだなにかを言っていた。「苦しいのは信仰が足りないからだ」と叫べば「人間を害する邪悪な化け物を殺しつくせ」と返り、「吸血鬼は知性があるのだから殺してはいけない。社会は吸血鬼を差別するな」とくる。
異なる意見をもちながら、同じような行動をするのは似たもの同士なのかもしれない。声高に叫ぶことで、誰かのためになにかいいことをした気持ちになっている。
「血と肉を捧げるか。そういう神もいたが……さて」
ぬいぐるみをぎゅっと抱えたコウが、一度振りかえってこっそりと聞く。
「あのひとたち、わるいの?」
「うーん、どうだろうなあ……」
「もし誰かを傷つけるなら、それは悪いんだろう」
例えば人を社会から引き離して柵に囲い、不幸になると脅し、たくさんのものを奪うなら「悪い」といえるだろう。そうシガンは思っている。
「きずつける……」
「前見て、コウくん。危ないから」
コウの手をアオがしっかり握った。駅を越えたらカフェまではあと少しだ。わからないという顔をして、コウが階段の最後をぴょんと飛びおりる。それにあわせてぬいぐるみがぶらんと揺れた。
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