第7話、日常 上

 組合のオフィスでナヨシが電話を取った。都庁のミトラからだ。まったく暇人ひまじんだと思うが、あれはついているタカノリが優秀だからだろう。


「やったんだって?」


 開口一番、それか。とはいえナヨシにもトモエからの報告があっただけだ。詳しいことはまだ入ってきていない。コーヒーを端に寄せてうなずく。


「ああ」

「食人鬼を一体、駆除した。そうだな?」

「そのとおりだ。例の妖精が見つけたと聞いた」


 今回、死人を出さずにすんだ。ミトラはナヨシたち以上に責められる立場である。上からも市民からもだ。


「これでおさまる……はずがないな」

「少なくとも吸血鬼が一体は残っている。今回のも東京駅のと同一個体か不明だ」

「……違う個体らしいと」

「ツノの形が違った。死体がないから確認できないが」


 食人鬼が複数いたことになる。どちらも例の吸血鬼の眷属か。


「そうか。人間のほうも捕まってないしな」


 人の不安が増してきているなか、吸血蟲やかまいたちのような吸血種も多く見られるようになった。窃盗強盗などの人間の事件もいくつか起こっている。例えば先日の通り魔だ。刑事部が捜査して身元は特定された。被害者の知人ではなく、未だ確保に至っていない。そのうち指名手配されるだろう。


 それからミトラが思い出したようにつけ加えた。


「そうだ、猟友会にひとり頼んだ。名手だそうだ。明日にでも来ると思う」

「銃か。わかった」


 警察からも銃使用の許可がおりた。地面に消える食人鬼では、銃があっても解決は難しい。単純に人手が足りない。よその組織から借りているが、余裕がないのはどこも同じだ。


「まあいい、記者会見はうちの上司がするさ。責められるのはこっちにまかせとけ」

「それは助かる」

 ともかく、食人鬼は不死の化け物ではない。倒そうと思えば倒せる害獣に過ぎないのだ。






 まだシガンとコウは眠っている時間だった。アオは玄関の前で前後左右に足を踏み、ぐるぐるとその場で回った。吸血鬼や妖精は迷路が苦手だ。人間の後をついて来ても、その場に簡易な迷路を作るだけで家に入れなくなるという。本当かどうかは知らないが作法としてある。

 それからポケットからこよりを二つ出し、よりをといた。これもまじないだ。ひととおり儀式が済んでから玄関を開ける。後ろからユエンも入った。


 靴を脱ぎながら、アオはこの妖精のことをよく知らないことに気づく。帰る場所はあるのだろうか。特に詮索する気はなかったが、このときは思いがけず疑問が口からもれた。


「……ユエンさんはどっから来たの?」

「どこ、か。今は北海道の港街、坂近くに身を置いている」

「へえ、そこの神さんなんだ」

「いや? 私が神だったのはずっと遠いところだ」


 そう言ってユエンは懐かしげに目を細める。アオは遠いという言葉に引っかかった。そこが故郷と呼べる場所なのだとしたら、さびしくはないのだろうか。それとも神や妖精というのはそんな感情を持たないのだろうか。


「……帰りたいとか思わんの?」

「我々のいられる隙間は多い、困っていないよ」

「そっか……」


 ユエンは自分が神だと言ってはばからない。そして実際、神であろうとしているように見える。吸血鬼や妖精は、人間とは話ができるのに分かりあえないという。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。確かめられるほど彼女のことを知らない。


「人間は変わるが、我々はそう変わらないものだ」


 ユエンは少しだけ眉を下げた。それからすぐにいつもの人懐っこい顔になる。


「アオの帰りたいところはどこだ?」

「……別にないなあ。いつだってそこで生きるしかないだろ」

「ほう? そういうものか?」


 ユエンの目が疑問を形作る。ぴくりとアオの手が止まった。しかし表情は平然としたまま、とらえどころのない調子で話をそらす。


「お、サトイモさんみっけ」


 鍋を開けるとサトイモの煮物があった。アオは煮物をすると焦がすのでこれは嬉しい。シガンが作ったのだろう。そろそろ痛みも引いてきたと聞いている。

 その後ろで、ユエンが首をかしげた。

 



 そんな会話など、コウが起きてくる頃にはなかったことになった。

 結露に描かれた絵が垂れているのをシガンが拭いた。朝のニュースでは食人鬼一体を駆除したと報道されている。アオは煮物をテーブルに出しながら、そちらを気にしていた。今のところ新しい情報はない。


「で、どうだったんだ」

「んー? ただの食人鬼だよ、食人鬼」


 地面に潜ろうとするあたり普通の食人鬼ではないのだが、まあそれでいいだろう。


「なんだ」

「なんだって言われてもなあ……」


 深く聞いて欲しかったわけではないが、ケガした人がいて「なんだ」もなにもない。食人鬼だってもとは吸血鬼に殺された人間だ。


「吸血鬼はもっと強いのか?」

「まあ……そりゃ、やっかいなもんだな」


 シガンには言わないが、あの魔眼さえなければ力は食人鬼よりはっきり弱かった。あの吸血鬼がそうなのか、それとも吸血鬼がそういうものなのかはまだわからない。けれど地面に潜ることといい、正面から戦って倒すことは難しそうだった。


「ふーん……」


 シガンは不満そうにしながらも、思いのほかあっさりと引き下がった。そのほうがいい。人は人、吸血鬼は吸血鬼だ。




 さて、食後になるとコウはまた絵を描きはじめた。大きな丸、小さな丸、四角、三角といろいろだ。それは赤だったり、黄色だったりして、いくつも重なっている。アオが見て、にこにこと声をかけた。


「おー、いっぱいだ。じょうずになったなあ」

「じょうず? うん、じょうず」


 コウはとても嬉しそうだ。もっと描こうと違う色鉛筆をとって、ぐいっと描いたとたん何かが飛んだ。見れば、芯が折れてなくなってしまっている。何度も紙に擦りつけるが、当然、色が出るはずがない。


「シガンさん、なんか削るのない?」

「あるぞ」


 シガンが出してきたのは小さな折りたたみナイフだ。


「……削り機とかないの?」

「そっちのがいい」

「ふーん……。コウくん、見てな」


 チラシを床にしいて色鉛筆を削る。力を入れず、少しずつ優しく削ってやる。シャッシャッとリズムよく刃を動かし、芯を短く削る。木屑がくるりくるりと丸まって落ちていく。興味を持ったのか、コウがナイフのそばに手を出してきた。


「シャシャシャのシャーってな。触んないで、痛いよ」

「いたい?」

「そう、痛いの。怖いよ。だから、おっちゃんがやったるからなー」

「いたいの……?」


 コウは手を引っこめた。けれどもアオが削った色鉛筆を箱に並べてる間、どうしても気になって置いてあったナイフをつかんだ。キラキラして先がとがっている。そうっと先端に触ってみる。なんだかひやりと冷たい。


「あー!」


 見ていたシガンがあわてて大きな声を出した。コウを止めようとしたのだろうが、逆効果だった。驚いて手がすべり、指に刃が当たる。「嫌だ」と反射的に思ってコウはナイフを取り落とした。悲鳴は声にならなかったが、ひどく泣きそうな表情になっている。


「ごめん、しまっときゃよかったな。痛かっただろ?」


 アオはコウの手を見る。血はでていないし傷もない。でも顔が「痛かった」と言っていた。


「……いたい」

「痛いか、そうだな。それは『痛い』ことだ」


 その向こうでユエンは他人事のようにくすくすと笑った。まるで「それは良かった」と言っているみたいに。


「そんな……痛いのは嫌だろ。刃物は気ぃつけてな」

「……うん」


 痛いと瞬間的に思ったことと「痛い」という言葉、そして怖いから嫌だという気持ちがつながった。今までぼんやりとしていた感覚が、急に鮮やかに、はっきりとした形を持った。コウは「痛い」ということを体で理解したのだ。


「痛いの痛いの飛んでけー。飛んでった! ……ほら、もう大丈夫」


 アオがコウの手をなでなでしたあと、窓のほうに飛ばした。痛いと思った感覚はもう消えている。痛いのは嫌なはずなのに、痛いとわかったことが不思議な気持ちだ。絵を描いている時のような、ドキドキしてふわふわ浮かんでいるようだ。


「……うん」

「刃物渡すときは、しまってから。相手が痛くないように」


 アオはしまうところを見せてシガンに返した。そして色鉛筆のほうをコウに渡す。


「ほい、たくさん描こっか」


 色鉛筆を握って動かすと、またきれいな色の線が生まれた。それは鮮やかでとても気持ちが良かった。






 アオが寝たあとも、コウはまだ絵を描いている。描きながらいろいろ考えていたが、黒い丸に三角の耳をつけた。ぐりぐりと目を入れれば犬のようになる。


「できた!」

「おお、できたな」


 トイレと風呂の掃除を終えたシガンが顔を出した。まだひきつれるような感じは残っているが、このくらいならできるだけ動いたほうがいい。いいかげん、アオにだけ買い物に行かせるわけにもいかない。


「うん。ゲン、できたの」


 それからゲンの横に人の顔を描いた。顔と言っても円の中に三つの点があるようなものだが、なかなか「らしく」みえるのは面白い。四本突き刺さっている線は手足だろう。じつにアクロバティックな動きをしている。


「あか、とあお……」


 赤。今度は青。そして黄色、ピンク、緑。その色とりどりの線をスケッチブックに広げていく。コウはずっと黙って描きこんでいる。すっかり集中しているのだ。彼だけの世界に入りこんでいる。


「……いいなあ、子供は好きにできて」


 ぽつりとシガンがぼやいた。絵には意図が必要だ。それが落書きと絵の違いだから。絵とはウソをつくことだと誰かが言った。シガンの右の小指はちょっと曲がっていたが、これをそのまま描くと「人間の手はそうなっていない」という。


 シガンはウソをついて、つき続けて、何がウソで本当なのかわからなくなった。ウソをつく意味がわからなくなった。描きたいものなんてどこにもなくて、そんな自分に嫌気がさす。なのに、ごまかし続けてここまできてしまった。


 だから吸血鬼と出会ったのは衝撃だった。これこそウソ偽りなくすごいものだと思った。だから描きたかった。人間の小賢しい意図なんか吹っ飛んでしまうくらい、誰にも理解できないすごいものを。そうしないといられなかった。描かなければ何かが切れてしまう気がした。


 そのシガンの後ろから、ようやく起きてきたアオが顔を出す。「おお、ゲンちゃんか? よくできたなあ」とコウを褒めてからシガンに声をかける。


「シガンさん、買い物行ってくるよ」

「ああ、ぼくも行こうかな。……コウくん、行くか? ずっと家ん中というのもなんだし」

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