空の切れ目の果て

伊豆クラゲ

第1話

「おばあちゃん! おばあちゃん! またあのお話をして!」

幼い少年の声が駆け足とともに、家の中に響く。

大人は皆仕事に出ていて、日中家にいるのは子どもと老人だけ。そのため、暇を持て余す子どもは、祖母にかまってもらいたく側に寄る。

「なんだい? またかい? 本当に空を飛んだ英雄の話が好きなんだね」

 祖母からすれば、もう何度話したことか覚えていないほどだ。しかし、少年からすれば、何度聞いても、変わらず心躍る話だった。

「僕もいつか、英雄みたいに、お空の切れ目に行くんだ!」

胸を張りながら、子どもらしい夢を語る。微笑ましいその姿に、少年の祖母は目を細めながら、優しく微笑みかける。少年は当たり前のように、祖母の膝の上に座り、祖母はそれを当然のように受け入れる。

「そうかい。そうかい。じゃあ、おばあちゃんしか知らない、切れ目のお話をしてあげようか?」

 祖母の顔は変わらず、優しい笑みを浮かべている。今まで何度も話してきていることに、飽き飽きしているのではない。

 あえて今までその話を少年には黙ってきていたのだ。

「え!? なになに!? 聞きたい! 聞きたい!」

祖母に包みこまれるように、抱かれている少年は、顔を見上げるように、振り返る。

「そうだね。これはおばあちゃんが、坊やと同じくらい、小さかった時の話だよ」

空には切れ目がある。

まだ、村と村が独立して生活していた時のことだ。そこに住む人々にとってそれは、太陽や星が空にあるのと同じくらいに、当たり前のことだった。それがいつからあって、なぜあるかは、誰も知らない。ただ、疑問に思う人は一人もいなかった。

しかし、大昔からこんな噂がある。空の切れ目の向こうには、こことよく似た違う世界が広がっていると。

いつしか、そこは死んだ人間の魂が逝く場所だと言われるようになった。

誰が作ったのか、いつから噂されているかも分からない。

ただ、人にはそれを確かめることは出来ない。なぜなら、人は空を飛ぶすべを持たないから。もし、鳥のように自らの背に日本の羽があるのであれば、試して見せた人も少なくなかっただろ。

異変の始まりは、村の長が変ってからだった。

前の長は事故で亡くなった。表向きはそうなっていた。しかし本当は殺されたことを、村の大人みんなが知っていた。今の長が、前々から長の座を狙っていたことは明らかだったし、自分の私欲のために平気でそういうことをする人だったからだ。

そんな人間が村の頂点になってのだから、いったいどんな生活が待っているのかと恐怖を覚えていた。しかし幸いなことに、私の家族は特に変わりなく、平穏に暮らしていた。いや、一人の少年を除いては、全ての村人が、今まで通りの生活をしていた。

その少年というのは、前の長の唯一の子どもだった。少年は突然親を亡くし、一人では生きていけないため、長が引き取り亡くなった両親の代わりに面倒を見ることになった。

しかし、大人はみんな分かっていた。その家で、その少年がどんな扱いを受けていたかを。ただ、そのことを言及すれば、次に標的にされるのは自分達だ。そう思いおびえていたため、特に口を開くようなことはしなかった。

その少年の体は痣や傷だらけで、虐待を受けているとすぐに分かるものだった。いや、彼らの関係は保護者でも責任者でもないのだから、ただの暴行だったのだろう。

そんなことが公然の事実として行われ、しかも村人全員が知らん顔していたのだ。

私は、あの子と関わってはいけないと、親から強く言われていた。きちんと理解はしていたわけではないが、分かったような気がしていた。

しかし、それは子どもの中では珍しかったようで、それになんとも思わない友達もいた。

少年は、子ども達の中でもイジメられていた。それは大人たちも知っていたと思う。私はそれをいつも見ていた。その子に何をやっても、大人から怒られることは無いと、知った子ども達は特段場所を選ぶようなことも、しなかった。

学校でも、家までの帰り道でもそれは当然のことのようだった。はじめは、村長の家だけの出来事が、次第に村全体に広がっていった。

私の知る限りでは、私の両親含めほかの大人たちが、少年をいないものと扱えど直接手を上げるところは見たことがない。さすがに、この状況を強要している大人たちといえども、自らが直接加担者になることはなかったようだ。

そう考えると、子どもとは残酷な生き物だ。何も悪いことをしている自覚もなく、ただその行為に及んでいるのだから。


そんな、おかしな日常に違和感を感じない生活を送っている中での出来事だった。

私が両親に叱られて、夜家の外に追い出されたことがあった。なにが原因でそんなことになったかは覚えていない。ただ、そんなことはめったにないことではあった。


本当にいくつもの偶然が重なった夜だった。


すぐに家には入れてもらえないと思った私は、そのまま遊びに出かけたのだった。

その時ばかりは、怖いもの知らずの私は、自分の背よりも高位置にある、木で作られた柵の頂点に手を伸ばす。

むしろ、夜の村を冒険しているような高揚感に踊らされていた。月と家々から漏れる焚き木の明かりだけが唯一の目印での村の探検は、何物にも代えられない新鮮を私に与えた。 

完全に日は沈み切ってはいるものの、まだ日中の温かさが残っている。この村は酷い寒さに襲われることもなく、暑さにうなだれることもない。先人たちはよくこの場所を見つけ出したなと思うほどに心地よい場所だった少し高い場所に位置するこの村は、空の切れ目にも比較的近い場所に位置していた。怖いもの知らずの子どもが、文字通りこれまでの人生で怖い思いをしてこなかったほどには、ここは平和な場所だ。

どこかで雨が降ったのか、少しばかり水分を含んだ風が心地よさを与える。風で木々が揺れる音さへも、普段家の中で聞くよりもより鮮明で、高音で奏でられているようだった。それを自分に話しかけられていると錯覚してくるほどには、浮かれていた。

そんな時だ。私の少し前方を横切る人影が見えた。私はとっさに近くにあった共同倉庫に身を隠す。夜の村を子ども一人で歩いている所を見つかれば、親に怒られたくらいでは済まないと思ったからだ。

大人達は私たち子どもがすることに過剰に反応する。確かに、強固な柵で囲わなければ、外にいる外敵から身を守ることは難しいだろう。しかし、私が知る限り中にいる私たちが脅威に襲われることは一度もなかった。

自分は親に家を追い出されたというのに、私は親に迷惑をかけてしまうと瞬時に思ったのだ。おそらく、私の両親は私に家の周りを離れる勇気などないと思い込んでいるのだろう。いまだに、私の後を追ってこないということはそういうことだろう。

しかし、私の考えは杞憂だった。薄暗い月明りの中でも、目を凝らさずともその人物は誰だか分かったからだ。


あの少年だ。


その低さから、それが大人ではないことが分かった。私にとって非日常は、彼にとっては日常だということを、直感で理解できた。すると、おのずと出てくる選択肢は彼以外ないのだ。しかし、それも不思議なもので、私と同じように親に叱られ村の中を散歩している子どもがいてもおかしいことではない。それなのに、すぐに彼だと決めつけることが出来たのは、私が知っていたからだ。彼が家にすら入れてもらえていないことに。

村長も公然の事実として扱われているとはいえ、立場があるため日中は少年を家に入れることを許容している。しかし、夜になりあたりが、暗くなるとそこは少年の居場所ではなくなる。

子どもの私が知っているのだから、大人たちが知らないわけはなかった。そもそも、大人達ですらよほどのことがなければ夜に出歩いたりしない。

彼がこちらに気づく様子はなく、そのまま私の視界に入りつつも、遠くのほうへ向かっていく。私はそれを隠れた物陰から、じっと見つめている。

彼はいつもこのように、夜の村の中を歩き回っているのだろうか?

大人に怒られるからという理由で、なるべく彼を気にしないようにしていた。しかし、今だけはそんなことを忘れ、彼に夢中になっている自分がいる。

それは、現状の高揚感からくるものか、私の目に映る彼がなにか特別に見えたからなのか。どちらとも言えない。しかし、どちらとも子どもだからということで説明はつくだろう。

私は視界から消えた彼の姿を追うように、そのあとをついていく。彼の姿が見えなくなったところまで行くと、再びその姿が目に入った。そこには、彼の小さな体とは裏腹に、大きく強固な柵がたたずんでいる。彼が柵の前に止まると同時に、私の視界から消えていった。

それはほんの一瞬での出来事だった。私は慌ててその場から彼の姿を探すが、彼の姿はない。そんな状況でも私から発せられる物音は最小限のものだった。

私は、おのずと少年がさっきまで立っていた柵の目の前まで近づく。

「……!」

大人たちが数人かけて作った柵の木に手を触れる。すると、自分の足元である地面が少しえぐれているのが分かった。

よく見れば、小さな子どもくらいなら通れる大きさだった。普段生活しているだけでは、到底気が付くものではなかった。

おそらく、少年はここから村の外に出たに違いない。私は、その恐ろしい事実を反射的に理解した。

親を含め、大人たちは村の外には絶対に出てはいけないと言う。それは、外には危険がたくさんあるからだ。この私の背よりも高い村を囲む柵は、私たち村人を守るためにある。そう教わってきた。それの外に行こうとなんて考えたこともなかった。

しかし、少年ならやりかねない。

なんとなくそう思った。

本来の私なら、この未知の先にある様々な恐怖を超える勇気など絶対になかっただろう。しかし、私はそれが自分も通り抜けられることを確認すると、すぐさまその行為におよんだ。

這いつくばって、見えない境界線とともに柵を超えた。立ち上がり手についた土を払い落とすと、妙な解放感とともに心臓の音が膨れ上がる。

立ち上がった私は、まるで行くべき場所を予め理解していたかのように走り出した。夜の村の外であるにも関わらず、躊躇なく私は前に進んでいく。

 私が、どのくらいの速さで走っていたかは分からない。体感ではそんなに経っていないと思う。

私の視界に少年の姿が入る。それはなんとも奇妙な光景だった。しかし、そんなこと疑問に感じないくらいに、目を奪われるものだった。


少年は全力疾走をして、空高くジャンプをしている。


私が彼のもとにたどり着くまでの間ずっと飛び跳ねて、転んで、起き上がる。この一連の動作を続けていたのだろうか。

「なにをしているのだろう」勢いでここまで来た私には、彼がしていることが理解できなかった。しかし、その姿を目にとらえて離さなかった。

この村では、夜になると動物たちの鳴き声が頻繁に聞こえてくる。私がもっと幼い時は、その謎の音にひどく怯えていたのを思い出す。しかし、今だけは彼の動きから発せられる物音以外、なにも耳には入ってこない。

「よし」

彼は、再び歩き始めた、

急に人の声が聞こえたため、必要以上に反応してしまったが、それは変わらず私の目線の先にいる彼から出てきたものだった。

私は、その時初めて彼の声を聞いたのだった。人と会話をしているところなど、見たことがない。それどころかいつも下ばかり向いていたので、彼を正面にしないと顔ですらよく思い出せないほどだ。

しかし、その声は私が想像していたよりも

低く立派なものだった。

夜の村の外にも関わらず、彼は躊躇することなくそのまま進んでいく。彼は今まで何度もこんなことをしていたのだろう。そう確信できるくらいには、彼の行動に迷いはない。

この先はたしか崖ではなかっただろうか?村の中からしか、外の世界を知らない私であったが、村の周辺がどのようなっているかは、大人たちの話で知っていた。

そんなことを考えていると彼が急に立ち止まる。崖の際までたどり着いたのだ。


「今いくね」


すると次の瞬間、少年はその崖から力いっぱい跳躍した。先ほどまでなんども、繰り返していた行為はそのための予行だったのだ。

私は、その光景を確かに目にした。

特に声も、物音もしないまま、少しの時間が経つ。私は恐る恐る、先ほどまで彼が立っていた場所まで行く。それはここに来るまでの軽快な足取りとは対照的なものだった。崖のふちに立つと、吸い込まれてしまいそうなほどに暗闇が広がっている。今自分が立っている地面だけが取り残されているようだ。

私は恐怖のあまり、逃げるようにそこを去る。その時は自身が抱いた恐怖心の正体を明確に理解できていなかった。しかし、なにか恐ろしいものを目撃したことを本能が理解していた。

来るときは、最大限警戒していたはずの物音や人の気配などに目もくれず、一目散に家に帰る。

すんなりと家の中に入ることができた私は、両親の呼びかけにも応じず眠りにつく。

「お母さん! あの子いなくなっちゃった!」

 翌朝目が覚めると、一言目に私は母にそう伝えた。ぐっすり寝たような、ずっと起きていたような、かなり記憶があいまいだが昨夜のことは鮮明に覚えていた。もしかしたら、私は夢を見ていたのかもしれない。そう思い込みたかった。

「ええ。お母さんも知っているよ」

大した説明もない私の問いかけに、母は自身もまるでみていたかのような返答をした。そんな不可解なやり取りに一切の疑問も抱かず、私は安堵を覚えた。

よかった。大人の人は、もう知っているんだ。じゃあ、きっとみんなで探してくれるに違いない。

「凄いよね! ついにあの子は成し遂げたんだね!」

「え?」

普段とは違い、妙な明るさを振る舞う母に気味悪さを感じる。私には母が何を言っているか、さっぱりわからなかった。

「あの子は、ずっと空の切れ目に行きたがっていたでしょう? ついにそれを成し遂げたんだよ」

お母さんは。いや、大人は皆知っていたのだ。彼の異常ともいえる行動を、知っていて見ないフリをしていたのだ。

「違うよ! あの子は崖から、落っこちたんだよ! 私見たもん!」

 私は、昨日その場にいたことを告げた。怒られることなんて考えもしなかった。

「ううん。村長さんが一緒にいたんだって。あの子が空を飛ぶところに」

 そんなはずがない。だって、あの場にいたのは私だけだった。私はこの目で確かに見たのだから。そう訴えかけようとした。

しかし母は困り顔で首を横に振る。

「どうしようも無い事なんだよ」そう言われたような気がした。母は私が、昨日何をしていたのかを知っているのだろう。

「村長さんが、皆を広場に呼んでいるみたいだから、一緒に行こうか」

父からそんな呼びかけがあり、母に手を引かれながら村の広場の方に連れられた。心なしか、母の足取りも重いような、そんな感じがした。

「みんな! 忙しい朝の時間に集まってくれてありがとう! みんなに話さないといけないことがある。実は昨夜、前長の少年が、あの空の切れ目に到達した!」

私の周りにいる大人たちは、いかにもわざとらしく、ざわざわし始める。母は村長さんから聞いたと言っていたのだから、大人たちはとっくに知っているはずにもかかわらず。

「この地域には、古くから言い伝えがある。死んだ人間の魂は切れ目に行くと。私は少年から、相談を受けていた。どうしても両親の所に行きたい」

誰がどう見ても、「嘘」だと一目で分かる。村長と少年が会話をしているところなど見たことがない。

「私は、何度も説得した。生きた人間は空を飛ぶことは出来ないと。しかし、彼は諦めず、毎夜挑戦し続けた。そして、ついにそれが、昨日叶った!」

 不可解なことに彼を称賛する声が聞こえる。村長が話していることが、つまり何を指しているのかみんな分かっていないのだろうか。

「これはこの村の自慢だ! 彼はこの村の誇りだ! 皆どうか彼のことを忘れることなく、この素晴らしい出来事を後世にまで伝えていってほしい」

 希望の言葉でその場を締める村長に、盛り上がる大人達。

 そこには、親含めた大人への気味悪さと異質さだけが漂っていた。


「それが、空を飛んだ英雄様の話だよ」 

 少し長くなってしまった話を、幼い子どもは最後までしっかりと聞いていた。

「じゃあ、この話は全部嘘なの?」

 立ち位置的に私がこの子をのぞき込むような形にはなっているもの、純粋目でこちらを見ている。きっと、あの時の私もこんな目をしていたのだろう。

 しかしながら、まだこの子には難しい話かと思ったが、なんとなく話の趣旨は伝わっていたようだ。

「さぁね。それは少年にしか分からない事だよ」 

 いまだからこそ、こんなことを言える年齢になった。大人になるということは残酷なことだとしみじみ痛感する。


「どちらにせよ、彼が空の切れ目に行ったことは間違いないだろうがね」


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