〘四十八番星〙月華
「アキ…ラ?」
少女の母の名だというそれを反芻する。
惺、あきら。
そもそも母とはどんな存在だっただろうか。
凛は脳に僅かに残った、記憶のピースを巡らせる。
ふと、薄く白い霧が思考を覆った。
それは本能が「知らなくていい」と、心を守ろうとしているものだ。
凛はそのことに気が付いていた。そして怖くて仕方がなかった。
意を決して、さっきまで震えていた右手を靄の中へと伸ばし、つかみ取った小さな欠片。
――――誰かの声がする。
凛はそれをまだ聞いていたかったのだろう。
「……凛。だいじょうぶ、大丈夫よ。わたし含めこの世界のぜんぶ、たどり着くところは同じなの」
ほら見て、と彼女は虚空を指さした。
愛が籠った青色の眼差し、眠たくなるような柔らかい匂いと心音、そして空に満ちた星――――
「 きっとまた会えるわ 」
その光景はあまりにも綺麗で、儚く、あまりにも侘しい。
「――っ、!」
思わず凛は手で口元を覆った。
まとまらない思考、乱される感情と呼吸、噴き出す冷や汗。
必死でそれらを制しようとするがままならない。
「っごめん名奈ちゃんこれ以上は」
思い出せない。
――――そう口にしようとするが、留まる。
「私ね、本当なら生まれたときに死んでたの。彼女は聖魔術でそれを救ってくれた。だからここにいることができてる」
噛み締めるように両手を胸の前で握り込むが、すぐに眉間にしわを寄せる。
「自分の毒で死にかけるなんて、ほんと――――」
滑稽だよね。
そう自嘲する名奈の姿が、凛の目には痛々しく映った。
しかし、何と言葉をかければよいか分からない。
彼女の腕に巻かれた包帯の下がどうなっているのか、それを知ってしまっているから。
伸ばしかけた右手を引っ込める。
「一度死にかけた身。私、アンデッドに片足突っ込んでるから自分で治癒魔術使えないんだよね。だからポットに――ラファエルに出会えたのは幸運だった」
犬に変えられていたラファエルを元に戻したこと、彼が希少な聖魔導師だったことは全くの偶然だが、それを利用したのは事実だと彼女は告げる。
「利用?…僕を?」
「そう――そうだよ」
名奈は珍しく声を荒げ、その視線を少年へ向ける。それはまるで針のように鋭い。
関係ない他人を巻き込むことは、本来彼女にとって望ましいことではなかったからだ。
「ポットは…ラファエルは優しいから何も言わず治してくれるけど、それはあの時私が恩を売ったからに過ぎないって分かってる!!縛ってごめん、 でもっ、でもそうしなきゃ私死んじゃうから」
彼と同じかそれ以上に聖魔術を扱える惺にもう一度会うことができれば、ポットを開放することができる。
きっとあの頃と同じように、彼女は助言してくれる。
きっとそうしたら普通に生活できるようになる。
「ここは…ここだけは譲れないの」
「名奈ちゃん……」
凛にはすぐにわかった。
彼女はそうやって自己暗示をかけ続けてきたのだと。
「恩を売ったとか、それは何も言いませんよ。言えない。でも名奈さん、あなたは僕の救世主だから」
言葉を失った凛を横に、ポットは右足を踏み出し名奈へ語り掛けた。
「あなたと一緒にいるのが嫌だなんて思ったことは一度もない!」
ポットは名奈に勘違いしてほしくなかった。
自分が彼女に救われたから、頭が上がらないから言いなりになっているなんてことはないのだと。
幾年ぶりに張り上げた声。
「そんなのうそだ」
名奈は小さくつぶやく。
新たに零れた涙は彼女の頬を伝う。
「そんなの信じられないよ…だってみんな私を拒絶するから、『毒蛇は近づかないで』って!!」
水滴はじゅわりと皮膚を溶かした。
名奈――もとい、正式にはアンナ・アイボリー。
神からの寵愛を受けた子どもだった。
世界に名を馳せる石屋を営むアイボリー家の長女として生まれた。
誰もが羨む豊かな生活。
魔の力に恵まれた。怜悧な頭脳も持っていた。
彼女は世間から「五千年に一度の才女」などと持て囃されたことだろう。
――――体液を毒化する固有魔術を持っていなければ。
幼い少女は泣いている。
まだ覚束ない足取りで駆け出し、転んで、膝と手のひらを擦りむいた。
「痛かったな。ほらお姫様、立てるかい?」
差し伸べてくれた父親の手を掴む。
少女の目に、彼の皮膚が焼けるように爛れていくのが映った。
「みてみて、ママのためにスモーブローを作ったの!」
まだまだママには及ばないけれど、不格好だけれど、きっと喜んでくれる。
「おいしそうです、やはりお嬢様はすごいですね!では旦那様たちが帰ってくるまで例倉庫で冷やしておきましょう。お預かりいたしますね」
しかしその期待は打ち砕かれる。
「もしも毒成分が入っていれば……ご夫妻に倒れられたりしたら大問題ですよ」
「お嬢様には申し訳ないが、これは処分するべきだな」
厨房にて、聞くべきでないことを聞いてしまったのだ。
悲しくて虚しくて仕方がない。
しかし怒れば、悲しみを叫べば、それに呼応するように体液は毒性を増す。
まだ幼い少女は魔術をコントロールできなかった。
耐性があるとはいえ、あまりにも毒性が高くなりすぎれば自分の身体すら焼いてしまうのだ。
ナナが彼岸を見たのは、二度。
一度目は産声を上げた日。
二度目は初めて遠出をした日。
祖父母の家を訪ねるための初めての長旅。
そのストレスにより暴発してしまった毒で地獄を見たのだ。
結局実家へ帰ることは叶わなかった。
「ナナちゃんドーナツが好きなの?……体に悪いからやめましょうね」
「危ないから、塾の時以外はおそとに出ないでちょうだい」
祖母が自分を大切にしてくれているということはよく分かっている。
四六時中心身を蝕み続けていた痛みも、彼女の言うことに従っていると大分マシになっていたのだ。
しかし、椅子に座って窓の外をぼんやり眺めるだけの日々に、名奈は自分の生に意義を問うた。
もはや軟禁と呼べるほどの生活。
そんな日々に彩をくれたのが、
雰囲気の割にはあどけなさも残った顔立ち、肩の高さで切り揃えた艶のあるまっすぐな黒髪。
「ひさしぶり……って言っても、赤ちゃんだったもの、覚えてないわよね」
鳥肌が経つ程に青一色の瞳が、身体を捉えて離さない。
どうやらその女性は、死産寸前のところを救ってくれた恩人らしい。
「それにしても、あなたのことは何て呼べばいいかしら。アンナちゃん?ナナちゃん?うぅん…短縮形とか愛称とか…西洋の名前は分かりづらいわねえ」
彼女は不思議な人で、「おとなの都合で素性は明かせないの」などと言いつつ普段の会話でうっかり叔母であることを明かしてしまったり、どこか抜けている人だった。
しかし、確かに鋭く敏感で、それでいて優しくあった。
ナナの手料理を一寸の躊躇もすることなく口に運び、おいしいと顔を綻ばせる。
感情が爆発してしまった日にはハンカチを取り出し、その涙を拭う。
不定期に訪れ、少女の体と心を癒しては帰っていくのだ。
「アキラちゃんはお名前かっこいいよね、いいな~私も和名欲しい!」
「そうねえ」
名奈という和名すら、惺が与えたものであった。
正式に戸籍に刻まれたわけではない愛称のようなそれを、ナナは喜んで受け取ったのだ。
ナナはいつも惺の来訪を心待ちにしていたが、ある日を境にぱたりと、彼女は消息を絶った。
再び孤独を感じ始めたナナにとって、塾で出来た唯一の友人ソフィアだけが心の頼りだった。
「あのねソフィア、私……家出しようと思うの」
彼女だけにそっと打ち明けた脱走計画。
「大切にされてるのも恵まれてるのも分かってる。わがままでバカなのはよく分かってるの、でも」
ソフィアは背中を押した。
「ナナはいい子すぎ。いいんだよそーいうのは。好きにやった方が楽しいでしょ」
日記帳、両親が送ってくれた洋服と小遣い、それからソフィアとおそろいのペンダントとトランクに詰め、迷いに迷ってヴァイオリンも連れて行くことにする。
それらを背負って、意を決して開け放ったドアの向こう側をふく風と陽の光。
色んな意味で高鳴る心臓をどうにか抑えて、一歩を踏み出したのだった。
その後のことは――言うまでもない。
人々はナナを毒蛇だと拒絶する。
自分の身が焼かれないようにと培われた感情を取り繕う術でさえ、それを解決することはできなかった。
やっとの思いで入れてもらえた魔術師団も、盛大にヘマをしてクビになって。
それからなんとか果たすことができた再出発。以降は偽名を使った。
――――幻惑と欺瞞の象徴である月を指すそれは、分厚い仮面を付けることでしかやっていけない自分への皮肉が込められている。
「優しい仮面、嫌な仮面――たくさん取り繕った。……ほんとの私を否定されるのは怖いから。でもちがうの、それも全部私であることに変わりなくて」
自分を顧みず徹底的に他者を優先しても、透明な壁は確かに存在していて、その垣根を越えることは叶わない。
傷つかないためにわざと悪人のふりをしても、そのせいで他者を煩わせることに良い気はしない。
「強い固有魔術を持つ者を『神に愛された』って言うけど」
心のどこかで理解していたのだ。
自分が毒素であり続ける限り、この状況は変わりえないと。
「そんな愛、私は一度だって望んだことない」
顔も知らない神からの寵愛などより、生き物を死へ導く猛毒などより、大切に思う人からの抱擁の方がずっと良い。
「確かに私の周りに人は居たよ」
神に一瞥すらされない凡人の方が、よっぽど。
「でも、ずっと独りだった…!」
春の若草を想起させる瞳は雫を湛えている。
凛は思わず、座り込んでいる名奈に抱き付いた。
「ひとりは、怖いよね」
その淵から涙が溢れて零れ落ちてしまわないように。
「なっ、なんで。言ったでしょ、私の体は有毒だから」
触らないで、離してと暴れる名奈を抱きしめる腕に力を籠める。
「私を置いて逃げればよかったのに、一緒にって手を差し伸べてくれたのは―――
私のこと一人にしなかったのは名奈ちゃんだよ!!」
凛はよく覚えていた。
壊れた壁の隙間から差し込む斜陽に照らされた、彼女の寂しげな瞳のことを。
「私のこと怖くないの?」その問いに答えた時の、嬉しさを隠し切れていない表情を。
「最初はびっくりしたけど…名奈ちゃんが作ってくれるごはん、おいしくてすき」
「すぐに魔物を倒しちゃうの、強くてかっこよくてすき」
「怖い人のふりするときも、根っこの優しさを隠し切れない名奈ちゃんがすき」
――――どんな名奈ちゃんも好きだよ。
優しく、ゆっくり、華奢なその背中をさすった。
「……なんで」
名奈は顔を上げる。
「凛ちゃんを助けたのも惺ちゃんに会うためでしかなかった。私の毒でたくさん痛い思いもさせちゃった」
「…うん」
「それなのになんで、どうして、そんな風に言ってくれるの…?」
瞬いた瞳から零れ落ちた感情。
しばし凛はそれを考えるように見つめてから、口を開く。
「友だちってたぶん、そういうもの…だよね。覚えてる?それも名奈ちゃんが言ってくれた。だから名奈ちゃんのこと、ひとりにしないよ」
――――私を助けたのも、お母さまのこと関係なく、ほんとは寂しかったからなんだよね?
凛は言い終え顔を綻ばせた。
「僕、以前からずっと一緒にいるつもりだったんですけど」
そして後ろからの圧を感じて、振り返って見上げる。
珍しく憤りを露わにしたポットはしゃがみ込んで、名奈と視線を合わせた。
「恩を売られたからとかそんなのもう忘れてましたよ。忘れてないけど!!そうじゃなきゃ流石の僕だってあなたに付き合いきれず関係を断ってます。なんで自分のこととなるとこんなに鈍いんですか!!」
ポットのあまりの剣幕に押された名奈は「ご、ごめんって…」と仰け反る。
「もう、言わせないでくださいよ……一人の人としてあなたを尊敬しているから、今まで行動を共にしていたんですよ。何度注意してもぼろぼろになって帰ってくるあなたを治療してきたのは誰ですか、僕ですよね」
そんなの恩があるにしても簡単に続けられるものじゃない。
益不易関係なく、二人で過ごしてきた日常はかけがえのないもので、それを失いたくないと思う程には、ポットは名奈のことを大切に思っているのだ。
「ほんとうに、あなたは酷いひとだ」
そう溜息をつくが、なんだか少しだけ、彼の表情は嬉しそうだった。
嬉しいことがあったらハイタッチをして、悲しいことがあったら涙をぬぐって、さみしいのなら抱きしめ合って、眠る前には頬におやすみのキスをする。
――――ずっとそんな夢を見ていた。
「……ごめんね二人とも」
「ありがとうの間違いですよね」
ポットのじっとりとしたアメジストの目に、名奈は思わずふふふと口元を緩める。
「そうだよね、ほんとにありがとう。それと……これからも、よろしくしてね」
全ての『私』が剝がれ落ちたそれは、未だかつてないほどに清々しい笑みだった。
これから先、彼女の涙が頬を焼くことはないだろう。
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