〘四十一番星〙幻影
嬉しいことがあったらハイタッチをして、
悲しいことがあったら涙をぬぐって、
さみしいのなら抱きしめ合って、
眠る前には、頬におやすみのキスをするの。
そんな、夢を見る。
ああ、あの子がうらやましくてしょうがない。
同じだけの寵愛を受けているはず、そのはずなのに、なぜあの子は能天気な笑みを浮かべていて、私は悶え苦しんでいるのだろう。
ただ黙ってその光景を見つめ続けていると、自分がどうしようもなくみじめに思えた。
私が泣いているのなら、あなたのその温かい手で涙をぬぐって。
私が頑張って作った手料理だって、たくさん食べてよ。
けれどそんなこと望んではいけない。
結局叶わない苦しみに喘ぐのは自分なのだから。
――――そして、憂い事を招くのはいつだって私自身だった。
「私の心に触れてほしい」
そんな小さな願いを、気持ちを、奥の方にそっと覆い隠して。
☆ ☆ ☆
(――やっ、た⋯?)
自分の放った矢がデュラハンに突き刺さった光景が名奈の瞳に映る。
この敵と邂逅してすぐ、暗闇で姿を捉えることが出来なかったために思い切り吹き飛ばされ、石の壁に叩きつけられてしまった。
それにより負った傷から滴る血液を塗り、毒矢としたのだ。
魔物が絶命するのも時間の問題――――
僅かに安堵した名奈は再び瞬きをした。
「――えっ」
凛の肩に、自分の矢が突き刺さっている。
「なん、で?」
確かに自分はデュラハンを射たはず。誤射などあり得ない。
ならばなぜ、彼女と先程見たはずの魔物は同じ位置で、同じ体勢で、あの矢に射抜かれている?
「おねえさ、ま⋯?」
氷のハルバートを握ったまま地べたに座り込んだ少女が、射手の方へと振り返る。
名奈は息を呑んだ。
凛の、恐怖に染まりきって、その上で咎めるような瞳。否、切実な疑問を投げかけているようにも見えた。
彼女があの少年に裏切られどうしようもないほど心を痛めていたあの時と似ていて、しかしどこか異なるそれ。
名奈は幾人にもそんな視線を向けられてきたのだった。
「――っ、凛ちゃん⋯!」
ズキリと傷んだ心から目を背けたくて我に返るが、もう遅い。
「ゔぅ、あ…っ!!」
聞くに耐えないうめき声。
それもそのはず、少女の肩に深く入り込んでしまったそれは魔力の結晶だ。
他人の魔力が体内に入ると血流や神経など、体内のありとあらゆるものが乱されてしまう。
凛は今、拷問とも思える程の激痛に襲われていた。
焼いた串で、身体をぐりぐりと抉りながらかき混ぜられているような感覚。
始めは傷部分のみだった痛みが、渦巻きのように広がっていく。
しかし痛みこそは派手だが命にかかわることはないだろう。
問題なのは、矢に塗られていた毒だ。
自分の体液が人にとってどれだけの驚異になるかは名奈が一番理解していた。
――――ああ、そろそろ毒が回り始める。
どれだけ酸素を取り込もうとしても、喉で詰まってしまう。
凛の喉からカヒュ、と痛々しい音が小さく鳴った。
胸から喉の辺りが鉄の匂いに満ちて――
濁った咳をすると、口から出た飛沫が床を赤く染める。
想像していた通りに症状が進行して、名奈は絶望で体が冷たくなっていくのを感じた。
「し⋯しなないで――」
少女の願いは虚しく、凛の傍にどこからともなく再びデュラハンが現れる。
凛は激痛と呼吸困難の苦しみにより地べたに伏せることしかできないようで、魔物の存在に気が付いても戦闘態勢を取ろうとはしなかった。
名奈は彼女を殺されてたまるかと再び弓を構えたが、照準を定めることが出来ない。
「手が…震えて……」
狭まった視界に、鋭い矢じりが敵の足へ、床へ、宙へ向けられ彷徨っているのが映った。
恐らく先程はデュラハンの幻影魔術で、敵を凛として認識してしまったのだろうとあたりはついている。
しかしだからこそ、今回も幻を見せられているのだとしたらと考えると弓を引くに引けなかったのだ。
そうこうしているうちに、魔物と化した騎士は頭上にはちの字を描くように鞭を構えた。
迷いの無い線が空気を裂く音がはっきりと耳に届く。
もしもここに十分な明るさがあり、視界が鮮明だったなら。
もしも奴があんな姑息な術を使えなかったなら、もしくは自分一人だったなら、負けるような相手では無いのに。
ただ呆然と、名奈はその鞭が振り下ろされるのを眺めた。
「――ちょっとだけ、思い出した」
凛は最後の力を振り絞り、ハルバードの柄で攻撃を受け止めた。
何とか直撃は免れたが、防ぎきれなかった鞭の先端は少女の背中を容赦なく叩き切る。
しかし少しも怯む様子はなかった。
かと言って症状が良くなった訳では無い。
小さく咳き込むと顎を血液が伝い落ち、変わらない痛みにより眉も震えていた。
「私――死ねなかったんですね」
本人ですら誰に向けられたものか分からない言葉を吐き捨て、凛はくしゃりと悲しそうに笑った。
そしてハルバードを握ったまま膝から崩れ落ちる。
これ以上の力が残っていなかったのだ。
せめてもの足掻きとして、小脇に抱えられた騎士の頭へ、その刃を向けた。
乱雑に腕を振り抜くと頑丈な兜が吹きとぶ。
重厚な金属音を響かせながら、ボールのように地面を転がった。
―――露になった魔物の素顔が、氷の刃に映りこむ。
血の抜けた真っ青な顔色と、瞳孔が開ききって輝きを失った黄金の瞳。
「アァ⋯⋯ミセ、ラレナイ」
デュラハンの全身から力が抜け、腕から滑り落ちた頭部がごろりと床を転がった。
「私のこんな姿――旦那様に見せられない」
芯のある男性の声だった。
声質とは裏腹に弱々しく人の言葉とひとすじの涙を零すと、とうに朽ちていた肉体が徐々に粉塵へと化していく。
そう。これはとある騎士の一生。
塵になった彼らの栄光はまるで星屑のように空気中を舞った。
やがて持ち主を失った立派な鎧は、重たい金属音を響かせて地面に落下する。
彼が魔物として現世をさまよっている間に、戦乱の世は終わりを迎えたのだった。
かつての英雄の最期を見届けた凛はぱちぱちと二回ほど瞬いて、深く息をついた後――
「り、んちゃん……? ッ、凛ちゃん!!」
その後の名奈の様子も知らぬまま、ふっと意識を手放した。
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