〘二十三番星〙斜陽



もしかして、裏切り?


騙されていた?



私を戦場に引っ張り出してきたのも、こうやってイフに殺させるためだったと考えると納得できてしまう。


だとしたら、なぜ。

私は名奈ちゃんに殺意を向けられるようなことをしてしまっただろうか。



体が冷水を浴びたようにすくむ。




「まあ見ててよ」


そう言って名奈ちゃんはイフを右足で踏みつけた。



声を上げて抵抗するが、圧倒的な力で押さえつけられていて逃げられない。


あのイフの動きを片足だけで封じてしまった。見た目からは想像できないほどの力だ。



「……そろそろかな」


目を細めた瞬間、イフの体に異変が起きた。



陸に打ち上げられた魚のように、全身が痙攣し始めたのだ。


眼球は充血し、口から泡を吐いている。




一体何が――――




怖くなって、名奈ちゃんとイフを交互に見る。


全身が心臓になったみたいなイフを、彼女は冷たい目の色でさげすむように眺めていた。

仄暗い広場に微かに光る、名奈ちゃんの眼光に背筋がヒヤリとする。



一瞬浮かんだ、本当の化け物はイフか名奈ちゃんかどっちだ――なんて思考を振り払う。

今回ばかりは本気で、余計なことは考えない方がいいと思った。





しばらくするとイフは青い液体を吐き出し、そのままピクリとも動かなくなった。


「し、しんだ……?」


「命のない魔物に『死んだ』って表現はおかしいかもしれないけど……もうすぐ死ぬよ」

表情とは不釣り合いな柔らかい声色に、その冷たい視線が私へ向けられることはないとわかり安堵した。



「これでもまだ怪しい?」


名奈ちゃんを不審に思ったのは一瞬なのに、それすら見透かされているなんて。

彼女の微笑みは信じがたいほど心の奥を読み取れない。全身に寒気が走る。




何と答えるのが正解か……怪しくないと言えば嘘になる。



もしこのイフと名奈ちゃんが仲間の場合、殺したフリ・死んだフリというのも否定できない。

しかし「はい怪しいです」なんて馬鹿正直に言えるほど、私の肝は据わっていなかった。




それに、私に向けられた視線は本当に柔らかくて、私に危害を加えようとしているようには全く見えない。


なんだか――――自ら悪役になっているような、そんな。




一人でぐるぐる葛藤している私を見てか、名奈ちゃんは「う~ん」と考える仕草を見せる。


「凛ちゃん、とどめ刺してみる?」

夕飯は何が食べたいかを聞くように、その言葉は淡々と並べられた。



「……え」


命ないものとはいえ、やはり抵抗がある。


しかし名奈ちゃんへの疑いを晴らすためにも、今後の信頼のためにも、私は私のためにやらなければならない。




手汗で少し塗れた魔杖を持ち直し、イフの方へ一歩一歩踏みしめるように歩いていった。





魔杖の先端をイフの胸に向ける。


後はほんの少し魔力を込めるだけで――――…









「……っは、はあ…はぁ……」


さっきよりも震えが酷い。

手が振動するたびに魔杖がカチャカチャと音を鳴らす。



なんで、なんで。

恐怖は感じてないのに、なんで――――






違う、こわい。

さっきとは違う種類の恐怖だ。



一瞬、少し魔力を込めればいいだけだとわかっていても、できない。

同じ魔物なのに、人の形をしているだけでこんなに苦しいのかと正直驚いている。




ぽたりとイフの頬に液体が落ちた。


少し遅れてそれは私の汗だということを理解する。





できない。





「――ごめん、ちょっといじわるしすぎちゃったね。離れて、私がやるから」


沈黙を破ったのは名奈ちゃんで、幼い子どもをあやすように優しく私の背中をさする。


彼女は私が離れたのを確認すると包帯を持ち直した。

軽く息を吐きだして、それから首の皮膚を引き裂く。



するとそこからプシャーっと青い液体が噴き出した。液体が勢い余って彼女の頬に付着する。


絵に描いたようなそれはまるで噴水だ。



「血ってあんな鮮やかに噴き出るものなのか」なんて呑気な感想が浮かぶと同時に、あの青い液体は血なのかと理解した。






少しして出血の勢いがおさまってくると、そこには水たまり――否、血だまりができていた。






これが死。



し。





あの時とは違って、私の意志で招いたもの。

私が、この私が――――あの呼吸を忘れるような悲しみと痛みを作り出した。



やまびこみたいに何度も頭の中をこだまする。


誰かに奪われるのと同じか、それ以上の畏怖だ。





それは、とてもじゃないけどいい気分ではなかった。






名奈ちゃんが足を退けると、イフは粉塵となり空気に散ってしまった。

血だまりも徐々に蒸発していく。



――――消えてしまった。



 さっきまでの出来事が嘘みたいに、跡形もなく。





「凛ちゃん、もどろっか! 叶都くんたちきっと心配してるし……」


くるっと振り向いて、かわいらしく笑った。

名奈ちゃんの頬についた返り血もきれいさっぱり無くなっている。



彼女の平然とした態度に、ある一つの考えが浮かんだ。


「……騙したんですか」


おみやげコーナーへ行こうとすでに足を進めていた名奈ちゃんは、「ん~?」と顎に人差し指を添える。


何かを考えてから私の方に戻ってきて、ぬらりと中腰になり視線を合わせた。

睨んでこそいないが、その目は「そう思った理由を言え」と威圧している。


あんなに可憐で美しいと思った目が、だ。



「あのイフ、名奈ちゃん一人でも楽勝だったんじゃないですか」


「……どうして?」


「最初から少しでも傷をつければ、その時点であなたの勝ちでした」


「凛ちゃんも見てたでしょ、あのイフすばしっこいんだもん」


「最後の拘束技……。あれを見るに、応用技はそれだけじゃない。名奈ちゃんならできたはずです」

ここは譲らない、と威圧を返してやれば、目先の少女は面白くなさそうな顔をする。


しかしそれは表面上のもので、瞳の奥で喜怒哀楽の「楽」の炎が揺れた気がした。



「…嘘が上手なんですね」

嘘だけじゃなく、もしかしなくても取り繕うこと自体が上手なのだろう。

いくら身を乗り出して覗き込んでも、一切底が見えないのだ。



何を思ったのか、彼女は肩を揺らし始めた。

大声ではなく、手で口元を隠し堪えるように笑う。

「んふ、ふふ…」


しかしそれは、私の目には本心のように映った。

もしそれすらも建前だと言うのならば、私はきっと彼女には永遠に勝てないだろう。



しばらく笑うと、呼吸を整えるように「はぁ…」と二酸化炭素を吐き出す。


「わかっちゃうかぁ」


そっかそっかと言いながら包帯を巻きなおす名奈ちゃん。

彼女の雰囲気は、先ほどの重苦しさや近寄りがたさは消え、出会ったばかりの時のような軽やかさが戻っていた。


なんなんだ、一体。

私は騙したのかとひとこと言っただけなのだけれど。


しかしまあ私への敵意はきれいさっぱりなくなったのだろう。包帯を巻きなおす…つまり武器を捨てたのがその証拠だ。



「そう、試した。だって見ず知らずで目的も分からない人を泊めるなんてことできないでしょ」

イフはそのために利用したらしい。


私の仮説通り、彼女にとってあのイフは脅威にすらなりえなかった。






「……ねぇ。凛ちゃんは、私が怖い?」

なんだか元気がない、しんみりとした声色。

平然とした様子だけどわずかに瞳が揺れているのを、私は見逃さなかった。



「確かにびっくりはしたけど……でも、今は怖くないですよ」


私の回答に、名奈ちゃんは大きな目をさらに丸くした。


「えっ。だって私、体液毒にできるんだよ。その傷に一滴垂らすだけで凛ちゃんを殺せちゃうんだよ!?」

自分で聞いてきたくせにぐいぐいと迫ってくる。


それ、そんなに大事なことかな。


「なんとなく、分かります。名奈ちゃんはそんなことする人じゃないって」


甘っちょろい考えだろう。

だけどきっと、この世界ではそういう無謀さがなければ、どこにも進めない。……と思う。



「そっかぁ…うん、しないしできない…かな。そう言えばあの人も『人を見る目には自信がある』って言ってたっけ」

なんだか感慨深げだ。


「『あの人』って?」


気になって尋ねれば、名奈ちゃんは微笑みながら首を横に振った。

本当に、肝心なことばっかり教えてくれないんだから。



「凛ちゃん、ありがとう。私ね、ずっとあなたのことを待ってたみたい」


またよく分からないことを言われる。

だけど彼女は私を受け入れてくれたのだろう。


ならば、名奈ちゃんは私を置いて行かないでくれるのかな。




「あぁそうだ。建物こんなに壊れちゃったの、私がイフを泳がせたせいっていうのは内緒ね。怒られちゃうから」


「それは…私も弁償しろって言われたら今度こそ人生詰む気がするので、内緒にします」


なんだか二人で悪いことをしているみたいで(実際悪いのだが)、そして利害が一致してしまって。

可笑しくなって二人で笑った。




高い天井に付けられていたはずの蛍光灯は落ちて割れ、壁は粉々に砕かれて一部は外が見えてしまっている。

その大きな穴からは山吹色の西日が差し込んでいた。


夕焼けだ。




夕陽はさっきまで薄暗かった世界を赤く染め上げ、燃やしている。


やっとのことで長い一日が終わる安堵と、未知の明日への不安。

それは七千回以上繰り返してきたはずなのに、今日ばかりはなんだか新鮮に見えた。











「…というわけで凛ちゃんは名奈ちゃん試験に合格したので、家に泊まってもらいます!」

改めてよろしく、と握った右手は、心なしかさっきより細く薄く感じた。



「それと、敬語にもどっちゃってるよ」


「……ほんとだ」


名奈ちゃんは「ともだちなんだから」とにこりと微笑む。

その微笑みに、裏は一切なかった。



「あ、そうだ。また忘れちゃうところだった」


「…なにが?」


「もうちょっとだけ付き合ってくれる? 凛ちゃん」

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