〘九番星〙 窮地
扉までの最短ルートを全速力で走る。
私は多分もう体力の限界を超えている。少しでも気を抜いたら、もう立ち上がれなくなってしまうだろう。
あの叶都でさえ息を切らしている。それほどの状況なのだ。
冷たい空気のせいで、喉から血が出たみたいに痛む。
かといって鼻で呼吸すると酸素が間に合わなくて苦しい。
「もうだいぶ近いよ」
「っ…わかってる……私も気配感じる」
喉が痛くて満足に声が出せない。
しかも私たち、さらに遅くなってない…?
まるで泥沼を歩いているみたいだ。足をからめとられてうまく進めない。
ただ体力だけが吸い取られていく。
普通に走れたら、扉までそう遠く無いはずなのに。
「……凛、もう無理だ。逃げられない」
苦虫を噛み潰したような顔で言う。
私だけじゃない、叶都も遅くなっている。
理解できる。だけどこんなところで終わりだなんて、
「わかってる、わかってるけど……ここで諦めちゃ」
「話最後まで聞け!!」
「あ、ごめん」
よかった、どうやら叶都も諦めるつもりはないらしい。
「いい? ここで迎え討とう」
とても真剣な目をして言う。しかし不思議と彼のオーラは珍しく凪いでいて。
冷たい水を頭からかけられたみたいに、私はひどく冷静になった。
いざ対峙するとなるとやっぱり怖くて、少し考える。
それしか……ない。
できるできないじゃなくて、やるんだ。
私は黙って頷いた。
考えはきっと同じ。それしかないってこと。
私たちは走るのをやめて、後ろへ振り返った。
「凛はちょっと後ろに下がって、遠距離から攻撃して」
「うん、わかってる」
声を潜めて会話する。
それほどまでに追手との距離は縮まっていた。
じりじりと迫ってくる気配と足音。
呼吸と鼓動が浅く速くなるのが自分ではっきりとわかる。
障害はすべて排除しなければならないのだ。
すべては先へ進むため。私は恐怖でこわばる体に言い聞かせた。
「やぁっと追いついた」
木の影から姿を現したのは、私の知らないお兄様だった。
いつもの呑気で何も考えていなさそうな彼じゃない。立派な肉食獣のような魔術師だ。
震える手をやっとの思いで制して、背中の魔杖ワンドを引き抜き、かまえる。
か細く白い息を吐きだした。
「どうして部外者がいるのかなぁ。ここ、ニヴルヘイムは外の世界と断絶されてるから簡単には入ってこれないはずなんだけど…」
ぬるりと首を傾げるその仕草は、黒板を爪で引っ掻いた時みたいに気持ち悪い。
そしてゆっくりと、私より前にいる叶都へ近づいた。
「な…足が動かない…!?」
飛び出した声は、私が待っていた攻撃開始の合図ではなかった。
叶都は必死に足を動かそうと藻掻いている。
膝までは確かに動いているが、足を上げて歩こうとすると動きが限りなく遅くなって、一歩だって進むことができない。
私はまだゆっくりと動くが叶都は――――
「叶都…!!」
「へぇ…。きみ、カナトって言うんだ」
ばっと自分の口を押さえる。だめだ、言っちゃいけないことまで言ってしまいそう。
「僕の用事はリンにあるんだ。まずは君ね」
お兄様はそう言って魔力を込めた手を前に出し、叶都の胴体をなぞるかのようにゆっくりと下におろす。
「く…っ……!?」
瞬間、立つ力がなくなったのかなんなのか、叶都は膝をついた。
なに、なに今の。
「かなと…?」
震える手を叶都の方へ伸ばす。しかしこの距離だ、触れられるはずもない。
呼吸が速くなる。
だめ、ゆっくり呼吸しなきゃって分かっているのに、思えば思うほどどんどん速くなる。苦しい。
「だあいじょうぶ! 殺しはしない。言っただろ、凛に用事があるって!」
幼い子供をあやすように語り掛けるが、目が笑っていない。
「ぅ…あ…」
言葉を発しようと思っても、情けない音が出るだけ。
叶都は今立ち上がれない。なにもできない。
私がやるしかないのに……。
人って本当に崖っぷちに立たされると体が動かなくなるんだなって。
だけどなぜか、私は違うって思ってた。
結局私一人じゃ、何も――――
「ん?どうしたの?…あっ、気づいた?一人じゃ何もできないって」
「っ…!」
私の心を見透かしたように煽る。それも嫌味ったらしく。
なんだか表情が嬉しそうなのはきっと気のせいじゃない。
「……あーあ。レイチェルが世話してたし、結構面白い感じに育ったのかなって思ってたけど」
お兄様の体に魔力が流れるのが、私にも見える。
だめだ、減速魔術のせいでよけられない……!!
「残念だよ。
詠唱と同時に、彼の周りに複数の土の弾丸が顕現した。
目で追えない程の速さで飛んできた弾たちは、容赦なく私の肉をえぐる。
鮮血が飛び散るそれだけは、スローモーションのように見えた。
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