〘三番星〙 在りし日
四人での暮らしが始まってからその日まで、凛は大切に育てられた。
怪我一つしないよう、ストレスも無いように。
子どもの成長にとって、治るくらいの擦り傷は必須だと私は考えている。しかしその程度の怪我をも遠ざけるほど、丁重に扱われた。
そのおかげか心身ともに健康で、性格もまあ不器用なところはあるがまっすぐな子に育った。
それはある日まで続いた。
お姉様とお兄様は昼間街へ出かけるので、凛の遊び相手は私しかいない。
凛は私と遊ぶのが毎日の楽しみだったみたいで、それは私も同じだった。
子どもらしくおままごとをして遊んだり、絵本を読んだりした。
「凛はおかあさん役ね! おねえちゃんは…めいどさん役!」
どこにでもいるような、無垢で無邪気な少女。
この暮らしが始まったのはこの子の母親が病気で亡くなってからだ。
本人は前までの暮らしを全く覚えていないようだったが、凛の演じる母役は彼女を彷彿とさせる。
潜在意識というものだろうか?
ご飯をつくってあげれば、おいしいおいしいと口いっぱいに頬張る。
髪をいつもと違う風に結ってあげれば、「かわいいねぇ」ってめいっぱい笑ってみせる。
実年齢よりも幼い言動に心配になることもあるが、とても可愛らしい。
それにとても素直で優しい子だ。
――――それはもう、独り占めしたくなっちゃうくらいに。
私は、まるで年の離れた妹ができたみたいで嬉しかったのだ。
しかし幸せな日常はそう長く続かない。一通の手紙でプツリと幸せが終わったのだ。彼らは変わってしまった。
姉は凛に暴力をふるったり罵ったりするようになり、兄はそれを放置するように――いや、内心楽しんでいるのかもしれない。
もちろん二人はひどいが、一番ひどいのは私だ。凛に優しくしてるようで、実際はただの傍観者だからだ。
「どうして助けてくれないの」
地獄が始まってしばらくした時、凛は泣きながらそう言った。
純粋で切実な願い。
私はその言葉を、死ぬまで――死んでもきっと忘れられない。
姉の行動ももちろん苦しいだろう。だけどそれと同じくらい、信頼している人が助けてくれないのも苦しいはずだ。
私は気が付けなかった。否、気が付きたくなかった。
あの子を一番傷つけていたのは、私だ。
中途半端な蜜はいずれ毒となる。そんなこと少し考えればわかるのに。
私だって助けたくて仕方なかった。でも私は姉と契約してしまったのだ。
「私を生かしておくかわり、彼らの邪魔をしないこと」という恐ろしい契約。
これはただの口約束などではない。れっきとした神への誓いなのだ。
もし破りでもすれば、神からの天罰が下される。しかも、どんな罰かは破ってみないとわからないときた。
――もしも罰の内容が凛を傷つけるものだったら?
「大切にしている人の命を奪う」
きまりを破った罰としては十分あり得る話だ。そう考えたら、何もできなかった。
それに、彼らが怖かったんだ。
「私もあんな風に暴力を振るわれるかも」と思うと怖くて、何もしないことを選んだ。きっと痛くて苦しいに違いない。
契約の事だって、自分の心を守るための言い訳に過ぎないのかもしれない。
凛はあの日以来、一度も私に助けを求めたりしなくなった。私が傷つくと思っているから。
認めたくないが実際それは間違っていない。
だから私はあの日から今日まで、一切凛を助けることはしなかった。
傍観者としての立ち位置を必死に守り続けてきたのだ。
罪悪感が、そこに積もっている雪みたいになっていく。これからも積もり続けて、きっと永遠に溶けない。
私の間違いは、きっとその時だ。
☆ ☆ ☆
「まって……どういうことなの?」
お姉ちゃんがどうしようもない罪悪感を抱いていることは知っていた、察していた。
でもそうじゃなくて……手紙? 契約?
「ごめんごめん、急に話したら混乱するよね」
申し訳なさそうに笑う。
しかし空気を明るくするために無理をしているのがバレバレだ。
「そうだなぁ、どこから話せばいいんだろう」
手を顎に当て、うーんと考え込むそぶりを見せる。
「まず、私たちは血がつながっていない」
本当の家族じゃないということか。
それはなんとなく察していたけど、お姉様お兄様だけじゃなくお姉ちゃんも?
私はてっきり、お姉ちゃんだけは本当の家族だと思っていたのだけど…。
「あの2人は人身売買の業者で、凛を売ろうとしてたみたい…。多分だけど、種族の関係じゃないかな」
じんしんばいばい…?
「なに、それ。私を売る…?」
野菜みたいに、私も街に持っていけば売れるってこと?
私にそんな価値があるわけないのに。一体なぜ。
だめだ、情報量が多すぎて、何が何だか…
「じゃあ…その手紙って?」
私の一言で、お姉ちゃんの顔がこわばる。
あれ、聞かない方が良かっただろうか。
「注文のキャンセルが入ったの。簡単に言うと、凛を育てる必要がなくなったって…こと。商品だから傷一つ付けないよう大切に育ててきたんだけど、売れなくなったから大切にする理由もない…」
言いにくそうに、慎重に選ばれた言葉で告げられたのは、なんとも残酷な事実だった。
現実味のないことだけれど、それなら今まで不思議に思っていたことがすべて繋がる。本当は否定したかったが、それができないほどに根拠が並んでしまった。
「そっ…か。そういうことだったんだね」
お姉様たちは急に変わってしまったと思っていたけど、何も変わってなんかいなくて……
ただ、元に戻っただけ。
「だからお姉様たちは私を殺したいんだね」
……なんだ、私が想像してた最悪よりマシじゃないか。
でもちょっとだけ、さみしいような気もする。
重苦しい雰囲気に、しばらく沈黙が続いた。
「…………」
「…ねえ凛。今更なんで本当のことを教えたか、わかる?」
凛は賢い子だからきっとわかっちゃうよね、と寂しそうに笑った。
――――もうすぐ、この生活に終わりが来る。
私は戸惑った。
早くない?
こういうのって、大げさなくらいに感動的な別れ方をするものじゃないの?
少なくとも今まで私が読んできた物語はそうだった。
「今まで見て見ぬふりしてごめん、都合がいいことは分かってる。でも…最後だけは絶対助ける。絶対死なせたりしない」
まっすぐな視線が私を射抜く。今までのお姉ちゃんじゃないみたいだ。
私を助けるっていうのは契約を破るってこと。その罰とかは大丈夫なのだろうか?
だけどこれは、お姉ちゃんにとって大事な節目なのだろう。けじめという名の自己満足。
残念だけど私が口を出せることじゃない。
お姉ちゃんが見て見ぬふりをしてきたっていうのもわからなくはない。
でも全然気にしていないし、それより私は……
私を生かす代わりにお姉ちゃんが傷つくのは嫌だ。
だけどその言葉が喉から出ない。
私も結局自分がかわいいから、生きていたいから、またこうやって他人を犠牲にする。
分かっている、理解している。私は最初から最後まで傲慢なのだ。
「あ、渡すの忘れてた。はいこれ」
お姉ちゃんが手渡したものを見て、私は心の底から驚いた。
身の丈ほどもある杖とヘアピン型の髪飾りだ。
杖は三日月の形をしたクリスタルがてっぺんで輝き、細々と散りばめられた星型の装飾たちが美しい。しかも自然光を反射して瞬くのだ。
まるでこの杖が「自分は繊麗で、そして強靭だ」と自信を持っているかのよう。
それほどまでに魔力を帯びているのが伝わってくる。
どうやら魔術を使うためユニットらしい。
髪飾りは“M”を横にしたような特徴的な形で、淡い色のグラデーションが光によって変化する、とても綺麗なもの。
まじないの類の何かが込められているようだが、私にそれを読み取るだけの能力はなかった。
二つとも高価そうな品だ。こんなものどこから…?
「お姉ちゃん、これって」
「形見だよ。髪飾りはお父様、杖はお母様の。…ずっと預かってたんだ」
本来凛が管理すべきなのにごめんね、と謝る。
両親の…形見?
「今までちょっとずつ、勉強と一緒に魔術を教えてきたでしょ? その杖を使えばもっと扱いやすくなるはずだよ。何せ凛専用の特別仕様だからね」
今まで、お姉ちゃんにはいろいろ教わってきた。魔術もそのうちのひとつ。
この杖はそれをやりやすくするものらしい。
私のための物とは言え、宝の持ち腐れではなかろうか。
「じゃあ、この髪飾りは?」
「詳しくはまだ話せないけど…外では絶対外しちゃだめだよ」
「…? わかった」
いつものことだけど、お姉ちゃんは一番大事そうなことを教えてくれない。適当か。
「このことはあんまり気にしなくていいよ。最後の日まで、いつも通り過ごそう。それだけで私は嬉しいの、お願い」
気にしなくていいだなんて、そんなことできるはずないのに。
私の返事を待ってはくれなかった。
なんだかびっくりするほどすんなり受け入れられてしまう。
こういう時は泣いたりするものではないのか?
互いの運命と苦難を悲しみ、抱きしめ合って次の幸せを願う。別れとはそういう劇的なものだと思っていた。
それとも、「私の涙はもう枯れてしまった」とでも言うのだろうか。
答えを教えてくれる人はここには誰もいない。
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