1.ニヴルヘイム/Niflheimr

〘一番星〙クライシスコール

 今日もいつも通り、肌を刺すような季節外れの寒さで目が覚めた。


部屋の窓からは夏らしい朝日が差し込んでいる。まっしろになった視界に私は目を細めた。


ここは雪国の端らしく、夏でもこの通りとても空気が冷たい。

薄くてもある程度役目をこなしている布団から出るのが億劫で、しばらく寝がえりをうったりもぞもぞしていた。








段々意識がはっきりしてくると、下の階からの音が聞こえる。


食器のこすれる鋭い音、やかんが沸騰する笛の音。お姉様が朝ごはんの準備をしているのか。普段はトーストやスープの香りが漂ってくるが、今日は鼻が詰まっているせいで分からない。





朝ごはん……そうだ、早く支度をしなければ。


急に意識が覚醒し、布団から飛び出た。

冷気が背筋をつーっと撫でる。私は悪寒に猫みたいな身震いをした。



 タンスから服を引っ張り出す。薄汚れたTシャツに、紺色の薄いプリーツスカート。昔からのとても着慣れた服装だ。


長袖があれば暖かいだろうな。裏地がもこもこなものは特に憧れる。

無いものはないのだから、あの温かそうな服を着ることなんて夢のまた夢だろうけど。



 髪を梳かしたりだとか一通りの支度を終えた私は、寝ぐせなどがないかチェックするため姿見の前に立った。これもいつから使っているのか覚えていないくらい、昔からあった姿見だ。

身だしなみなんて気にしたところで、誰かが私の容姿を褒めることなんてないけれど。


死んだ魚のような灰色の瞳、乾燥した白い肌、そして降りたての雪のような髪。


そこには華奢な少女が映っていた。




「…はやく行かなきゃ」





 部屋から出て冷たい床板を踏みしめて階段を下りた。深呼吸してリビングへつながるドアを開け、軽く頭を下げる。


「おはようございます。お兄様、お姉様」



顔をあげて笑顔をつくれば、お姉様のわざとらしいため息が降ってきた。



「リン、さっさと食べなさい」




テーブルには小さなパンとスープが置かれていた。


「え…あ、ありがとうございます」




動揺を隠せない。お姉様が私にご飯をくれたのなんて、いつぶりだろう。

今日はとても機嫌がいいらしい。そうでなくちゃ私に朝ごはんをくれたりしない。


これは神様からの今まで頑張ってきた私へのご褒美かもしれない。…なんて。




「いただきます」


パンは石のように硬いしスープは冷たいけど、二日ぶりのごはんはとてもおいしく感じた。




「そうだ、レイチェルは?」


お兄様はきょろきょろとあたりを見回す。

お姉様と私の間に重苦しい空気が漂っているというのもお構いなしに。



「ああ、あの子には畑の水やりを頼んだの。八時くらいには戻るんじゃないかしら」


ごく普通の返答。しかし明らかに私に向けられる声色とは違った。

お姉様は誰に対してもあんな冷たい態度をとるわけではない。確かに機嫌が悪い時はあるけれど、私以外にはちゃんと柔い言葉をかけるのだ。


何か私が気に障ることをしてしまったのかと数年前からずっと思索しているが、いまだに答えはわからない。





壁にかかった時計を見る。…あと四十分くらいか。


うちの庭はとても広いから、水やりにも時間がかかる。

お兄様たちはそろそろ街へ出かけてしまうし、お姉ちゃんが返ってくるまでの間は暇だ。


時間はたっぷりあるし、眠たいし、少しだけ寝てこよう。最近どうしてか眠気がひどい。







☆  ☆  ☆







 下の階から聞こえてくる声で、再び目が覚めた。

お姉ちゃんの声だ。水やりが終わって帰ってきたのだろう。


それにしてもなんだか騒がしい。



どうやらお姉ちゃんとお姉様が言い争いをしているようだった。

お姉ちゃんが声を荒げるのは珍しい。普段はお姉様に従順だったのに。





何があったのかと心配になって、気づかれないようドアの隙間から覗く。大丈夫だろうか。











「酷薄な…『幼いうちに殺す』? ふざけないでください!!」






飛んできたのは噛みつくような怒鳴り声。それは私の耳と心臓を刺した。


お姉ちゃんのこんな声、初めて聞いたかもしれない。




―――いや、そうじゃなくて。







殺す…? 何を?

なんなんだ、突然。


箱入り娘もびっくりするくらい世間知らずな私も、かなり尖った言葉だと知っている。


普段穏やかなお姉ちゃんがそんな言葉口にするなんて、明日はきっと雪が……いや、それじゃいつも通りだから、きっと槍が降る。




一体何を殺すのだろうか……? 耳にしたからには気になってしまう。


よく畑にちょっかいを出しにくる烏のことか、それとも昔窓から見た大きな猪か。

お鍋にして食べるのかもしれない。お姉ちゃんは料理が上手だから。一口なら食べさせてもらえるだろうか。



「ふざけてないわ、言ったでしょう?『注文がキャンセルされた』って。それに、これでも待った方よ」


お姉様の方はいつも通り、人を見下すような口調。



「そんな!! あの子はまだ十二歳ですよ!? 本気で…本気で言っているのですか?」


お姉ちゃんが荒々しくお姉様の胸倉をつかむ。しかしその行動とは裏腹に、声は弱々しくなっていた。

悔しそうに、苦しそうに目を細める。



「もう十三歳になるでしょう。それと、これ以上は口出ししないで。契約、まさか忘れたとは言わないでしょうね?」


その言葉を最後に、お姉ちゃんは何も言わなくなった。













待って。








十二歳?










もしかして私のこと…だろうか。


確かに私は人間齢で数えると十二歳だ。それにもうすぐ十三…ではあるけど。

――――だけど違う。私じゃない。だってこんな急にあり得ない。



そうだ、きっとあの猪が十二歳なのだろう。猪の寿命なんて知らないが、きっとそうだ。






『とっとと死ねばいいのよ、迷惑なの。わかる?』


いつかお姉様に言われたことを思い出す。




私…なの?






死。


たった一文字がひっついて脳から離れてくれない。


そんなこと想像もしていなかった。というか想像している人がおかしい。

殺されるなんて、死ぬなんてそんなことありえるのか。


しかも、こんな突然。


昔からお姉様にはよく「死んでしまえ」などと言われていたけれど、それはあくまで私のことが嫌いなことやストレスの発散の域だった。


けど、今回は違う。

勘以外のなんでもないし意味が分からないけど……これは確信だ。



冷や汗が止まらない。

血管の波打つ感覚。まるで心臓が破裂しそうだ。



いや、でも、そもそも私を殺すことなどできるのだろうか?





だって私は――――












「リン?」





思考はお姉様の声によって引き裂かれた。






後ろ、すぐ近く後ろ。


お姉様が私の顔を見下ろしている。







冷たく鋭い視線の奥には、どす黒い感情が渦巻く。

胸が激しく動悸し、呼吸が速く浅くなるのが自分でもわかった。






恐怖が体を麻痺させる。



部屋の空気は緊張と恐怖で満ち、その中で私は怯え、立ち尽くしていた。









「盗み聞きはよくないわよ」








床に大きな音が響いた。




一瞬遅れて自分の脇腹が激しく痛んだことに気が付く。お姉様の靴が私の肋骨にめり込んだ音だった。



「う…っ!」


あとからやってきた鈍痛と衝撃に、思わず尻もちをつく。


受け身もままならず、お姉様の容赦のない蹴りが腹部に炸裂する。

この無慈悲な攻撃は、私にとって日常の風景だった。




「盗み聞きしていいなんて誰が教えたの?」


痛い。


やめて、お願いだから。



「痛いね、やめてほしいわよね。でもそれはあんたの勝手な望みよ」




私の考えを読んだように、さらに強く、みぞおちにぐりぐりと押し付けるような蹴りに変わる。

吐き気と悪寒が全身へと広がり、うまく息が吸えない。ただひゅぅ、ひゅぅと情けない音が鳴るのみ。




「いつも言ってきたはずよね、面倒だから何かを望んだり欲を持つなって」



逃げるように体を丸めたって、痛みは畳みかけるように襲ってくる。




嫌だ、やめ―――





そうだ、やめてなんて思っちゃいけない。盗み聞きをした私が悪いんだから。

大丈夫だ。大丈夫、大丈夫。



「……うっ…ぇ」


喉の奥から込み上げてきた生ぬるい液体が、酸い匂いと一緒に流れる。

気持ち悪い、不味い。









「いい? これは教育よ、復唱しなさい『私はなにも望みません』って」




「わ…たしは、なに……も…」


「聞こえないわよ、やり直し」




顔を踏まれてジリジリとした感触もひと段落する暇なく、さらに容赦なく蹴り続ける。もう身体のどこが痛むのかさえ分からない。

頭がくらくらして、何もかもがぼやけて見える。


私は一体どこにいるんだっけ。

左側にある、私のせいで汚れた冷たいフローリングが視界に映ったことで、ようやく「ああ、廊下か」なんて思い出した。




鼻の下を暖かい液体がつたう感覚、鉄のにおい。

もう抵抗する気さえ起きなかった。



復唱するだけの簡単なことだと自分を奮い立たせ、私はもう一度言葉を口にした。




「私は、なにも―――…」








☆  ☆  ☆  






「…――――りん、…凛」




まどろみの中、聞き慣れた声が意識を浮上させる。


さっきの怒鳴り声じゃなく、いつも通りの小鳥のように淑やかな声。





「ん…」

目を開けると、私を覗き込むお姉ちゃんがぼやけて見えた。



あれ、私は…?

段々と視界と脳が鮮やかになっていく。




そうだ。お姉様に蹴られて、それで……







「大丈夫――じゃないよね、ごめん…」


表情は下を向いているのと光加減でよく見えない。

悲しんでいるのか、怖がっていることは声色で分かった。


背中がふわふわとした何かに包まれていることに気が付く。

首だけ動かして見てみれば、私は毛布の上に寝かされていた。お姉ちゃんが部屋に運んでくれたようだ。


まだ蹴られた箇所が痛む。特に腹部が。

頬にはガーゼが張られていて、絆創膏や包帯も巻かれている。手当てもしてくれたのか。



起き上がろうとするけど、痛みでそれはかなわない。


私の瞳に涙を流すお姉ちゃんが映った。苦しそうな顔。それは今にもバラバラに崩れてしまいそうな危うさがある。


「……ごめんね、凛」


お姉ちゃんがこぼした届くか届かないかというほど小さな声は、すぐ部屋の空気に溶けて消えてしまった。


しかし伝えようとしてくれたのが分かったので、彼女を慰めようとしたが――私はすぐに口をつぐんだ。

私に「そんな顔をしないで」なんて言う権利はない。彼女を苦しめているのは私なのだから。



「大丈夫だよ」


だから笑ってそう言った。昔から、私にはこれしかできない。


そう、ずぅっと昔から。





「お姉ちゃん、ごめ……口ゆすいでくるね」



「あっ、そうだね…! いってらっしゃい」




洗面所へ向かう廊下を、壁を手すりにして歩く。頭はまだ濃霧が覆い、足取りももたつく。


まずは口内の気持ち悪さをどうにかしなければ……。






さっきの場所――つまりリビングの横を通る。

あるはずの血の跡と汚いものが綺麗に消されていることに気が付いた。

私が掃除すべきなのに、これもお姉ちゃんにやらせてしまった。



なぜ、こんなことになったのだろうか。

関係ないお姉ちゃんが悲しむのは、きっと間違っている。…なんて私が言えたことじゃないけれど。





私は一体、いつ何を間違えた?


私は現状の改善を願っている。お姉様に言わせれば、きっとこれも望み。

許されないし、許しちゃいけない。


本当、悪い子だ。

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