(46)

「私、ひとりっ子だから、彼をお兄ちゃんのように思ってたの。彼、五歳年上でしょ? 子供の私からしたら、彼のする話が大人びて見えたのよ」

 夏子は遠くを見る目で、大きく開いた窓の外で揺れる木漏れ日を眺めている。

「前橋の伯父さまの家に行くと、必ず彼の部屋に行って、蓄音機ちくおんきでベートーヴェンを聴くの。交響曲にピアノソナタ。中でも彼は、さっきの『テンペスト』が好きだったみたい。彼、蘊蓄うんちくも語ってたわ――この曲は、シェイクスピアの戯曲『テンペスト』に着想を得た曲で、流罪になった伯父の呪いで度重なる災難に見舞われながらも、彼の娘であるヒロインへの想いを貫いた主人公の純愛をうたったものだって」

「テンペストの公演ならロンドンで観たわ。ダイナミックで幻想的で、感情の起伏が観る者を魅了する、素晴らしい物語ね」

「昨日の夜、ふとそんな事もあったなって、思い出して」

 夏子の瞳の奥が揺らめく。

「……彼がファーディナンドで私がミランダであったのならば、プロスペローのように、父の執念を解けたのかな……」

「夏子ちゃん……」

「分からないの、私、本当に太輔さんの事が嫌いだったのか」

「…………」

「ただ、父と母に反発してただけじゃないかしら。子供の頃は、太輔さんは憧れの人だったのよ。どうしてあんなに拒否したんだろう……」

 夏子の頬を涙が伝う。

「分からないの……自分の気持ちが……」


 静かな時が流れる。夏子の視線の先で、真っ白なカーテンが風に揺れる。

 そこへ目を向け、いすゞは言った。

「多分、だけどね、憧れと恋愛感情は、全然別のものなのよ」

「…………」

「憧れってのは、その人の好い部分しか見えていないから持てる感情じゃないかしら。恋愛ってのは、その人の嫌な部分も許せないと、いだけない感情だと思うわ」

 窓の外で小鳥がさえずり羽音を立てて飛び去る。それを見送り、いすゞは続ける。

「変な話、何年も一緒にいて、その人の事を奥深くまで知り尽くしたって、恋愛には発展しない事もあるのよ」

 そう言うと、夏子はいすゞに顔を向け小首を傾げた。

「それって、もしかして、あの子爵さまの事?」

「子爵さまの弟、ね」

 いすゞは苦笑する。

「あの人、ああ見えて凄い人なのよ。普通の人じゃ分からないところまで見てる、っていうか。けれど、飛び抜けている分、欠けてるところも大きくてね」

「…………」

「今、東京に戻ってるんだけど、さっき旅館に電話があって、最終便で前橋に着くから、迎えのハイヤーを用意しておいてくれだって」

「お急ぎなのね」

「違うのよ。あの人、そういうのができないの」

「…………」

「汽車の切符を買うのが精一杯。最終便の時間も分からないから、そういうのをてい良く私に丸投げしてるだけ。多分、脳みそが片寄ってるのよ。物事を観察したり推察したりする力には長けているけど、日常生活は全然ダメ。たまに熱海に行くだの別府に行くだのと威勢よく言うけど、自分じゃ東京駅までしか行けないのよ。おかしいわよね」

 夏子はクスッと笑った。

「面白い方ね」

「でもね、あんな冴えない顔をしていても、信用だけはできるのよね――必ず真実に辿り着くって」

 夏子は顔を上げる。その目はもう潤んではいなかった。

「やっと、終わるのね」

「ええ」

 いすゞを見据えて、夏子はこう言った。

「覚悟はできているわ」


 彼女の目を見て、いすゞは悟った。少しの間に、彼女はいすゞの想像を超えた成長を遂げたのだと。


 ◇


 ――だが、事件はまだ終わってはいなかった。

 その晩、前橋に最終便が着いた頃。半家の使用人小屋で、女中たちが声を殺し、恐怖におののいていた。

「夜分に申し訳ございません。大人しくしていてくだされば、手荒な真似はいたしませんので」

 そう宣う軍服姿の右手には抜き身の日本刀、左手には女中頭のお里が抱えられている。お里は目を剥き、白刃から目を離せない。


 ――前園巡査長の指示で村じゅうの各戸が監視される中、当然、十三塚城にも警官が見張りに立っていた。それなのに、裏手の使用人小屋に易々と侵入を許したのはなぜか。

 その理由は、警官の落ち度ではない。彼にあるのだ。

 彼――田中勝太郎は、関東軍の特務機関に在籍している。士官学校で才覚を認められ、特殊任務をこなすための訓練を受けた。敬愛する義父にも、その立場は伝えていない。そのため、いくら堅牢な城壁といえど、彼に掛かれば朝飯前なのだ。

 そんな彼だからこそ、屈強な橋元巡査をも一刀の下に切り伏せられたのである。たとえ橋元巡査が拳銃を所持していようが、結果は変わらなかっただろう。


 田中勝太郎は怯える女中たちを見渡す。

「私はお千代さんに用があります。出てきていただけませんか」

 女中たちが顔を合わせる。その視線が一点に集中し、千代が立ち上がった。

「何のご用でしょう?」

 彼女は凛と姿勢を正し、勝太郎に向き合う。軍帽の下から鋭い視線が彼女を射抜く。

「申し訳ございませんが、私にご同行願えませんか」

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