(45)

 ――五月十七日。土御門保憲は葛飾にいた。

 今朝早くに届いた、兄からの『シバマタニイケ』の電報通りに電気鉄道に乗り、彼は得心した。

 この地域は田畑が多く建物が密集していないため、震災による火災の影響が少なかったのだ。そのため市内各所から、焼け出された人々が多く避難してきていた。

 浅草からこの辺りに越してきた人を調べれば、或いは可能性があるかもしれない。彼は停留所前から調査を開始した。


「失礼。この婦人を見た事はありませんか」

 一座を写真を見せたのは、小間物屋の老夫婦である。

「さあ、知らないね」

「では、震災後、浅草からこの辺りに越して来た人は知りませんか?」

 すると、夫婦は顔を見合わせた。

「三軒先のヨッちゃんとこに、確か浅草の親戚が避難して来てたね」

「横丁のコウちゃんのとこにも来てるよ」

「ありがとうございます」

 その情報を元に、それらの家を当たる。すると横丁のコウちゃんのところで的中したのである。

「……あぁ、おゆきちゃんだね」

 七十手前の老婦人は、目を細めて写真を眺める。ずっと浅草で団子屋をしていたのだが、店が焼けてしまい、一家共々親族に身を寄せ、家業を手伝っているらしい。

「見世物小屋で軟体踊りを見せてた子だよ。よく仕事帰りにうちに寄ってたねぇ、子供にせがまれて」

「その子の名前は、ご存知ですか?」

「あぁ、確か……」


 ……ゆっくり食べなきゃだめよ、清悦せいえつちゃん……


「清悦……」

「そうそう。随分と洒落た名前だったから憶えてるよ」

「もしかして、この写真の方?」

 保憲は荻島弁護士に託されている写真を見せた。

「そうだよ。体のガッチリしたイイ男だったね」

 保憲はゴクリと唾を呑む。

「その後、ご一家はどうされたかご存知ですか?」

「近所の長屋に住んでたからね、知ってるよ。ひとり親だったね。おゆきちゃんは息子が成人する前に亡くなってね、息子は働きながら一人暮らししてたけど、そのうち女ができて、一緒に住むようになってね。それで、気が付いたら一人増えてた」

「女の子ですか?」

「よく知ってるね。千代ちゃんっていう可愛い子でね――」


 目の眩むような思いがした。

 暗闇で藻掻きながら求めていた答えが、こうも易々と手に入るとは。兄の占いが確かでなかったら、決してこうはいかなかった。悔しいが、感謝せねばなるまい。


 でも……と、老婦人は続ける。

「まだ千代ちゃんがヨチヨチ歩きの頃に、父親が兵隊に取られてね」

「日露戦争ですね?」

「そうそう。そのすぐ後に、母親も病気で死んじまってねぇ。可哀想に、千代ちゃん、どっかに貰われて行ったよ」


 残念ながら、その老婦人からの情報はそこまでだった。だが、この一歩はとてつもなく大きい。

 彼は滝乃川に戻ると、すぐさま兄に電話をした。

「兄上、早朝のご連絡をありがとうございました」

「役に立ったかね?」

「はい……そこで、もうひとつお願いなのですが」

「何だ、言ってみろ」

「日露戦争当時、陸軍に在籍していた『大熊清悦』という人物について、陸軍に照会していただけませんか」

 手掛かりとはいえ、老婦人の証言では証拠として弱い。兵隊に取られた時の戸籍の控えが残っていれば、この上ない物的証拠となる。

「陸軍か――私が軍とあまり良い関係ではない事は知っているな?」

「はい。しかし、それをしていただかなければ、兄上の紹介で来られた荻島弁護士の依頼を達成できません」

 弟に言い返されたのが意外だったのか、忠行は苦笑を漏らす。

「奴らに借りを作るのは痛いが、仕方あるまい」


 受話器を置く手が震えていた。しばらくそのまま立ち尽くし、彼は何度も呼吸をした。

 ――十人もの命が失われた、異常極まるこの事件が、千年に渡る十三塚村の因習が、ようやく、終わる――!


 間もなく掛かってきた電話に、反射的に手に手を伸ばす。受話器から流れ出た声に、保憲は背筋を正した。

 兄は言った。

「老仏温泉の郵便局留めで大至急送るよう、圧を掛けておいた。早く行け」


 ◇


 旅館にひとり居るのも落ち着かず、蘆屋いすゞは療養所を訪れた。

 別棟の談話室にあるピアノの前に、半夏子は座っていた。鍵盤を滑る指が奏でるのは、ベートーヴェンのピアノソナタ「テンペスト」。

 力強くもどこか切なく、時に戦慄するほどの揺らめきを込められた曲調は、夏子の心境そのものかもしれない。

 演奏を聞き入った後、余韻が途切れたところでいすゞは拍手を送った。

「素晴らしいわ。ピアノがお上手なのね」

「いすゞお姉さま」

 夏子は顔を上げ、照れくさそうに目を逸らした。

「子供の頃に、母にままを言って習わせてもらったの……太輔さん、ベートーヴェンが好きだったから」


 夏子は、緑と小鳥のさえずりに囲まれたこの場所で、もう十日も過ごしている。しかし、そんな穏やかな環境も、彼女の心を安らかにするものではなかったに違いない――特に一昨日、手紙を届けてからは。


「……私が、太輔さんを殺したのね……」

 太輔の手紙を読み終えた夏子はそう言った。

「違うわ。彼を殺したのは犯人。勘違いしてはいけない」

「誤魔化しはいいの……私が、私さえ彼を受け入れていたら、村で起こっている事件はみんな、起きなかったのでしょう?」

「違うわよ。あなたは何も悪くない」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 泣き崩れる夏子を抱き締める事しか、いすゞにはできなかった。


 もしかしたら荒れているのでは……と心配で様子を見に来たのだが、夏子は比較的落ち着いていた――いや、嵐の前の静けさのように、彼女の心を支える糸がプツリと切れる寸前である可能性もある。

 いすゞはどうアプローチをするか、少しばかり逡巡してから、ピアノの横に近くの椅子を運んで腰を下ろした。

「その頃の太輔さんの話を、もっと聞かせてくれない?」

 すると夏子は乾いた目をいすゞに向けた。その表情は、柔らかなものだった。

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